歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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第15回
信長と天皇・日乗・フロイス

今回は有名な正親町天皇と信長の顔合わせについて、少し違った解釈を加えてみました。
果たして、信長は天皇に不遜な態度をとったのかどうか……。

メインは、朝山日乗のイエズス会排斥をめぐる動きと、それに対応して、フロイスらイエズス会が信長の庇護を依頼する一件です。

通説をなぞっただけかもしれません。
ただ、日乗の出自など、これまであまり語られていなかった点を少し加えました。
イエズス会との抗争後の日乗の動向については、あまり知られていません。
でも、のちに三位法印とか典斎(あるいは典済)と名乗っておりますから、それで探せば、案外見つかるかもしれません。
興味深いのは、天正4年(1576)正月、信長が安土城に移ったとき、公家衆の出迎え不要を朝廷に知らせる使者となったのが日乗です。つまり、信長側近としてその後も活躍しています。
『言継卿記』『言経卿記』『賀茂注進雑記』などにも日乗の記事が散見されます。

そういえば、以前、京都百万遍の知恩寺に、日乗の墓(板碑)を探しに行ったものの、見つけられずに帰ってきたことを思い出しました。
このとき、写真撮影が出来ていれば、今回の記事に使えたのにと少し後悔しています。

そろそろ書店に並んでいると思いますので、よかったら読んで下さい。

もう15回になりましたが、まだ元亀年間にも入っていません(泣)。
この先、どうなることやら……。

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【2009/01/27 00:23】 | 信長
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朝山日乗の墓
中村武生
桐野さま
いつもお世話になっております。
現在もご存じなければと思いまして。
朝山日乗の墓碑の位置は、小川善明『京都名墓探訪』1(ナカニシヤ出版、1994年)、9~10ページに地図入りで示されております。
ご参考まで。

ご好意多謝
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

朝山日乗の墓、その後、友人に聞いたので、だいたいの場所は見当がついております。
次回上洛時にでも、リベンジしてみたいと思っております。

関連図書の紹介も有難うございました。

失礼いたしました
中村武生
 それは失礼いたしました。
 またどうぞよろしくお願いいたします。

記事拝見いたしました。
NAO4@吟遊詩人
>正親町天皇との顔合わせ
漢文の使役の主語・述語の問題ですが、御説の方が説得あると思います。
(漢文は、高校以来ご無沙汰で、勉強再開したばかりで、大変恐縮ですが)

>朝山日乗
今まで、大変誤解しておりました。
朝山日乗というと、「イエズス会と宗論をして負けた」というふうに記憶していて、信長にとって、それほど重要な人物と言う風には思っていなかったのですが、宗論の勝ち負けにかかわらず重要な人物(=才能のある人物)だったのですね。

また、宗論をするからには、若いころから相当学問を積んだ学侶かと思っていたら、人生の前半は地頭だったようで、大変勉強になりました。ありがとうございました。

有難うございます
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

歴史読本の拙稿まで読んでいただき、有難うございます。

朝山日乗については、イエズス会側が過大に表現している面もあるのではないかと思っています。イエズス会にとっては、前に立ち塞がる「兇悪」な異教徒の煽動者ですから、あのような表現になるのでしょう。

もっとも、信長はイエズス会に利用価値を見出したように、日乗に対しても同様に思っていたと思います。そうでなければ、将軍義昭の行動を縛った五カ条の条書の証人にはしないと思います。

なお、地頭については、日乗の鎌倉時代の先祖がそうだったという意味でした。わかりにくくて失礼しました。

ご教示ありがとうございます。
NAO4@吟遊詩人
御丁寧にレスいただき、ありがとうございます。

>地頭職
>「九条家の諸大夫」、「地下人」、「地頭」、「尼子に仕え後に毛利に奔った」

御丁寧に、ご説明くださりありがとうございます。
イメージ的には、朝山日乗の先祖は、
    平安時代、九条の家来であったために、その荘園の庄司として出雲に駐在していた。
    鎌倉時代、そのままその荘園を領地として、鎌倉幕府より地頭職を認められた。
    室町時代、引き続き、室町幕府より地頭職(といってよいかどうか分からないのだけれども)を認められ
    戦国時代、「国人(と言っていいかどうかも若干不安)」領主となって領地を維持していた。
         この時代出雲の国人衆は、尼子→毛利に仕えた。

と受け取ったのですが、こういう解釈でよろしいのでしょうか。

なお、「地頭」という言葉は、「家康が関東入府の際、領地をあてがわれた家臣たち」にも使われているので、鎌倉時代の職制とは少し意味が違う言葉として受け止めておりました。

地頭
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

出雲の国人だった朝山家については、そんなイメージだと思います。
戦国時代の国人の系譜はさまざまでしょうが、地頭から転進した者が多いのでしょうね。

家康の関東入府のとき、地頭をそのような意味で使ったというのは不勉強で知りませんでした。どんな本に書いてあったのでしょうか?

戦国島津家で使う地頭と共通しているかもしれませんね。
薩摩の事例ですと、島津氏に敵対した大名や国人の所領を直轄地とし、代官を派遣して支配させますが、その代官のことを地頭と呼びます。
島津家では、そうした意味での地頭が形骸化しながら、幕末まで続きますね。
たしか、小松帯刀も家老を勤めながら、どこかの地の地頭職を兼務していました。

地頭の語は時代・地域によって意味が異なっているようで、要注意ですね。

本ではなくて恐縮です。
NAO4@吟遊詩人
一昨年、日野市で「幻の真慈悲寺を追う」といったような展示がありまして、拝見いたしました。
「真慈悲寺」は、吾妻鏡に出てくる寺なのですが、長らくどこにあったのか分からなくなっておりました。
それが、最近の発掘調査で京王百草園付近がその地であったのではないかとされております。

遠まわしになりましたが、この百草の地を江戸初期に領していた旗本「小林正利」のことを、展示解説で「地頭」(↓4項の下方2行)と表現していて、これを見聞して違和感を覚えたものでした。
http://yumejitsugen.my.coocan.jp/hiroba_sim/file1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%9B%9E%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%AC%9B%E5%BA%A7%5B%E5%B9%BB%E3%81%AE%E7%9C%9F%E6%85%88%E6%82%B2%E5%AF%BA%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86%5D.pdf

近世に地頭は無いだろうと思って、wiki等を検索してみると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
http://www.asahi-net.or.jp/~HM9K-AJM/musasinorekisi/edo/muranijitougayattekita/muranijitouga.htm

↑のような記載を見つけ、そういう呼称もあったのかとその時、納得した次第。
(上記リンク先では、薩摩の「地頭」についても書かれていますね。忘れておりました。)

一次史料を読み込んだわけではないのですが、家康の「関東討ち入り」に関する文書を読むと出てくるのかもしれませんね。


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この記事へのコメント
朝山日乗の墓
桐野さま
いつもお世話になっております。
現在もご存じなければと思いまして。
朝山日乗の墓碑の位置は、小川善明『京都名墓探訪』1(ナカニシヤ出版、1994年)、9~10ページに地図入りで示されております。
ご参考まで。
2009/01/29(Thu) 03:20 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
ご好意多謝
中村武生さん、こんばんは。

朝山日乗の墓、その後、友人に聞いたので、だいたいの場所は見当がついております。
次回上洛時にでも、リベンジしてみたいと思っております。

関連図書の紹介も有難うございました。
2009/01/29(Thu) 21:35 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
失礼いたしました
 それは失礼いたしました。
 またどうぞよろしくお願いいたします。
2009/01/30(Fri) 11:37 | URL  | 中村武生 #-[ 編集]
記事拝見いたしました。
>正親町天皇との顔合わせ
漢文の使役の主語・述語の問題ですが、御説の方が説得あると思います。
(漢文は、高校以来ご無沙汰で、勉強再開したばかりで、大変恐縮ですが)

>朝山日乗
今まで、大変誤解しておりました。
朝山日乗というと、「イエズス会と宗論をして負けた」というふうに記憶していて、信長にとって、それほど重要な人物と言う風には思っていなかったのですが、宗論の勝ち負けにかかわらず重要な人物(=才能のある人物)だったのですね。

また、宗論をするからには、若いころから相当学問を積んだ学侶かと思っていたら、人生の前半は地頭だったようで、大変勉強になりました。ありがとうございました。
2009/02/05(Thu) 06:27 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
有難うございます
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

歴史読本の拙稿まで読んでいただき、有難うございます。

朝山日乗については、イエズス会側が過大に表現している面もあるのではないかと思っています。イエズス会にとっては、前に立ち塞がる「兇悪」な異教徒の煽動者ですから、あのような表現になるのでしょう。

もっとも、信長はイエズス会に利用価値を見出したように、日乗に対しても同様に思っていたと思います。そうでなければ、将軍義昭の行動を縛った五カ条の条書の証人にはしないと思います。

なお、地頭については、日乗の鎌倉時代の先祖がそうだったという意味でした。わかりにくくて失礼しました。
2009/02/05(Thu) 23:26 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
ご教示ありがとうございます。
御丁寧にレスいただき、ありがとうございます。

>地頭職
>「九条家の諸大夫」、「地下人」、「地頭」、「尼子に仕え後に毛利に奔った」

御丁寧に、ご説明くださりありがとうございます。
イメージ的には、朝山日乗の先祖は、
    平安時代、九条の家来であったために、その荘園の庄司として出雲に駐在していた。
    鎌倉時代、そのままその荘園を領地として、鎌倉幕府より地頭職を認められた。
    室町時代、引き続き、室町幕府より地頭職(といってよいかどうか分からないのだけれども)を認められ
    戦国時代、「国人(と言っていいかどうかも若干不安)」領主となって領地を維持していた。
         この時代出雲の国人衆は、尼子→毛利に仕えた。

と受け取ったのですが、こういう解釈でよろしいのでしょうか。

なお、「地頭」という言葉は、「家康が関東入府の際、領地をあてがわれた家臣たち」にも使われているので、鎌倉時代の職制とは少し意味が違う言葉として受け止めておりました。
2009/02/07(Sat) 08:07 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
地頭
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

出雲の国人だった朝山家については、そんなイメージだと思います。
戦国時代の国人の系譜はさまざまでしょうが、地頭から転進した者が多いのでしょうね。

家康の関東入府のとき、地頭をそのような意味で使ったというのは不勉強で知りませんでした。どんな本に書いてあったのでしょうか?

戦国島津家で使う地頭と共通しているかもしれませんね。
薩摩の事例ですと、島津氏に敵対した大名や国人の所領を直轄地とし、代官を派遣して支配させますが、その代官のことを地頭と呼びます。
島津家では、そうした意味での地頭が形骸化しながら、幕末まで続きますね。
たしか、小松帯刀も家老を勤めながら、どこかの地の地頭職を兼務していました。

地頭の語は時代・地域によって意味が異なっているようで、要注意ですね。
2009/02/07(Sat) 16:42 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
本ではなくて恐縮です。
一昨年、日野市で「幻の真慈悲寺を追う」といったような展示がありまして、拝見いたしました。
「真慈悲寺」は、吾妻鏡に出てくる寺なのですが、長らくどこにあったのか分からなくなっておりました。
それが、最近の発掘調査で京王百草園付近がその地であったのではないかとされております。

遠まわしになりましたが、この百草の地を江戸初期に領していた旗本「小林正利」のことを、展示解説で「地頭」(↓4項の下方2行)と表現していて、これを見聞して違和感を覚えたものでした。
http://yumejitsugen.my.coocan.jp/hiroba_sim/file1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%9B%9E%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%AC%9B%E5%BA%A7%5B%E5%B9%BB%E3%81%AE%E7%9C%9F%E6%85%88%E6%82%B2%E5%AF%BA%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86%5D.pdf

近世に地頭は無いだろうと思って、wiki等を検索してみると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
http://www.asahi-net.or.jp/~HM9K-AJM/musasinorekisi/edo/muranijitougayattekita/muranijitouga.htm

↑のような記載を見つけ、そういう呼称もあったのかとその時、納得した次第。
(上記リンク先では、薩摩の「地頭」についても書かれていますね。忘れておりました。)

一次史料を読み込んだわけではないのですが、家康の「関東討ち入り」に関する文書を読むと出てくるのかもしれませんね。
2009/02/09(Mon) 05:01 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
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