歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第95回
―鹿児島行き企てるも挫折―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は高杉晋作の2回目です。
高杉が薩摩行きを計画していたけれど、結局失敗したことを書きました。

分量の関係で紙面では書けなかったことを少し補足しておきます。

これは、英国公使パークスが鹿児島を訪問するのに合わせて、長州側も何かアクションを起こすべきだと考えた高杉がみずから使節全権となって、鹿児島に乗り込もうとしたのが発端です。
高杉が木戸に「大夫」(家老)身分で派遣してくれるよう依頼しておりますので、高杉の気紛れではなく、正式な長州藩の代表というわけです。考えてみれば、高杉は馬関に来襲した四カ国連合艦隊との和平会見のときも家老身分で交渉にあたっていますね。薩摩藩ではこのような融通無碍は考えられません。

今回、高杉が乗船しようとしていた大坂から鹿児島に向かう薩摩藩船三邦丸には、ちょうど坂本龍馬とお龍の夫妻も乗っていたことを書きました。あまり指摘されていないかもしれません。

結局、高杉はこの船に乗れなかったわけですが、どうも解せませんね。
高杉は長く下関でこの船を待っていました。小松・西郷たちが下関に立ち寄ると踏んでいたのでしょうか。しかし、滞在期間が1カ月以上と長すぎます。
高杉が三邦丸に乗れなかったのは、港の監視が不徹底だったか、三邦丸が下関に立ち寄らなかったかのどちらかではないかと思います。
もし前者なら、高杉がどんちゃん騒ぎをしていて、気づかなかったのではないかという思いが強いです。

その後、横浜から長崎に向かうグラバーの船が下関に立ち寄ったとき、それに乗って長崎に向かい、そこで三邦丸を待とうと考えたようですが、同船はすでに10日前に長崎を出航したあとでした。
ですから、長崎行きは最初から無駄足だったわけです。

その後、高杉は一転して清国行きを目論みますが、先立つものがありません。
高杉の鹿児島行きは木戸の奔走により山口の藩庁で正式決定されたわけですから、当然、経費としてそれなりの金が高杉に渡されていたはずです。
ところが、長崎では素寒貧だったというのですから、考えられるのは下関で豪遊したということでしょう。

高杉が藩の全権使節として鹿児島を訪問する表立っての名分は乙丑丸(ユニオン号、桜島丸)の帰属問題が解決したことを知らせるためでした。
これは、グラバーを通じて伊藤俊輔・井上聞多が薩摩藩名義で購入し、乗組員は亀山社中をあてるとしたものでしたが、長州藩へ引き渡されるとき、トラブルが発生しました。長州側としては船そのものを自藩で操縦・管理しようとし、亀山社中を排除しようとしました。

その件で板挟みになったのが社中の上杉宗次郎です。その後、上杉は責めを負って自害してしまいます。

ともあれ、上杉という犠牲を伴ってその問題が解決したことを、高杉は鹿児島に報告しようというわけですから、もう少し真面目に取り組むべきではなかったのかという気もします。
上杉は長州藩主毛利父子の和解状を島津久光父子に届けるなど、薩長の和解に力を尽くした人物です。

もっとも、この年正月下旬、薩長同盟がすでに結ばれていたとはいえ、ほんの一部の人間だけが知る密約でしたから、薩摩藩全体が承知しているわけではありません。そんなところへ、高杉が乗り込んで行ったら、藩内保守派から予想外のリアクションがあったかもしれません。

どちらにしろ、高杉の鹿児島行きはハードルが高かったかもしれませんね。

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【2009/02/07 11:26】 | さつま人国誌
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