歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第96回
―長崎・浦上から流配、病死―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、島津家の菩提寺跡として知られる福昌寺跡墓所(長谷場墓地)にあるキリシタン墓地の由来について書きました。
以前からその存在だけでなく、由緒もある程度知っていたのですが、今回、明治政府のキリシタン禁制の実態を調べたら、なおさら書かなければならないという気がしました。

鹿児島では長崎・浦上から護送されてきたキリシタンを、他とくらべると比較的丁重に扱っていますが、他藩ではひどい事例がありますね。江戸時代と何ら変わりありません。
やはり、明治維新の拠って立つ思想的基盤のなせる業かと感じさせます。

それにしても、浦上村で信仰を隠して200年以上ひっそりと生きてきた信者たちは、幕末になって光り輝くような大浦天主堂が建ったことに驚き、喜び、誇らしい気持ちになって、その信仰をフランス人神父に告白したのは無理からぬことだと思います。
また神父も日本では信者は絶滅したと思っていたでしょうから、さぞや驚いたことでしょう。この衝撃が、またたく間に欧米諸国に広がったのも当然です。

余談ですが、すでに明治初期、ヨーロッパから上海経由で長崎まで電信線がつながっており、翌日にはヨーロッパに伝わります。

ところで、慶応3年(1867)8月30日、坂本龍馬が長崎詰めの土佐藩士・佐々木三四郎に次のように語りました(『佐々木高行日記 保古飛呂比二』)。

「才谷曰く、此度の事、若し成らずば、耶蘇教を以て人心を煽動し、幕府を倒さん」

「此度の事」というのは龍馬が温めていた大政奉還構想ですが、これがダメになれば、キリシタンの一揆を起こして幕府を倒そうというのです。
龍馬は長崎を拠点にしていましたから、もしかして隠れキリシタンが大勢存在することをどこかで知ったのでしょうかね。そうでなければ、このような言葉が出るとは考えられません。
これに対して、佐々木が懸念を表明します。

「自分曰く、耶蘇教を以て幕府を倒す、後害あらん、吾が国体を如何、吾は神道を基礎とし、儒道を輔翼とせんと」

佐々木はキリシタン一揆によって幕府を倒せば、あとで害が生じるとします。目的のために手段を選ばないという方法はよくないというわけですね。害とは、わが国の「国体」が神道を基盤とし、儒学を輔翼にしていることだというわけです。仏教の出番はないようですね(笑)。

佐々木の指摘どおり、明治維新後もキリシタン禁制が解かれなかったのは、まさに「国体」に関わることだったからでしょう。

なお、連載に小松帯刀のキリシタンに対する見解を紹介しましたが、建白書提出の時点は、ようやく江戸開城が成ったばかりであり、これから奥羽越列藩同盟との戦争が始まるときでした。まだ維新政府の基盤は固まっていません。
そんなとき、小松の心配はキリシタンを放置しておけば、「天草争乱」が起きかねないというものでした。小松は浦上村だけで数千人の信者がいたことを知っています。これが長崎全体、あるいは九州全体でどれくらいの人数がいるか、考えるだに恐ろしかったのでしょう。信者たちが一致結束して挙兵すれば、天草・島原の乱以上になること。さらに東北の旧幕軍と結びつけばと連想したとしてもおかしくありません。龍馬と小松、立場は違いますが、キリシタン勢力を必要以上に過大にみる点で考え方が似ていますね。

ですから、維新政府にとっては隠れキリシタンは単なる信仰の問題ではなく、すぐれて政治・軍事的な問題でもあったようです。
しかも、九州鎮撫の命を受けた総督が公家の沢宣嘉です。いわゆる七卿の一人で、長州贔屓の尊攘派公家ですね。
それだけではなく、外国事務局判事の小松をはじめ、この問題に関わった木戸孝允・井上馨・大隈重信・町田久成・寺島宗則・松方正義といった連中も例外なく強硬意見を述べています。彼らのほとんどは、留学経験もあり、海外事情に通じた開明派ですよね。彼らにしてそうだったのですから、国学や攘夷思想の強い維新政府全体では推して知るべしだったのでしょうね。

ただ、明治2年には箱館戦争も終わり、長い戊辰戦争も終結しました。国内が鎮静したことによって、強硬方針が緩められ、外国との交際を理由に、西国諸藩への流配というところに落ち着きました。

しかし、一村4000人の強制移住なんて、江戸時代もありえなかったことで、当事者たちにとっては驚天動地の出来事だったでしょう。
寛大な処遇を受けた鹿児島においても病死者は58人で、死亡率15%にも上っています。これは衛生・医療面の不備だけでなく、当時の農民の共同体意識の喪失感というか、故郷から引き離される恐怖感による精神的な打撃も一因ではないかという気がします。

いろいろ考えさせられる問題でした。
なお、手ごろな本としては、以下のものがあります。興味のある方は読んでみて下さい。

家近良樹『浦上キリシタン流配事件』 吉川弘文館、1998年、定価1.700円+税

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【2009/02/14 10:56】 | さつま人国誌
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崎陽・織田
桐野先生、こんばんわ。
不勉強で、鹿児島市内に浦上信徒の墓があることを知りませんでした。ご教示ありがとうございました。
慶応3年6月の浦上信徒の逮捕で、当時、長崎の町は大騒ぎとなりました。当然、そのころ長崎にいた龍馬も知っていたこととも思います。長岡謙吉も注目して「閑愁録」を書いていますね。龍馬の一族がのちに入信したことも不思議な因縁です。

面白かったです。
NAO4@吟遊詩人
明治政府が直ちにキリスト教を認めたわけではなかったのは、知っていたのですが、具体的なお話を聞いたのは初めてでございまして、大変面白かったです。

刑罰とかも直ちに変わったわけではなく、とりあえず、江戸時代のまま運用されたものと理解しております。

なるほど
桐野作人
織田さん、こんにちは。

そうでしたね。
慶応3年3月から6月にかけて、長崎奉行が多くの隠れキリシタンを摘発していますね。
なるほど、龍馬はこのことを知っており、潜在的なキリシタン人口が多いと推測したんでしょうね。

浦上のキリシタンは西国の20数藩に流配されています。ですから、それぞれの藩に何らかの記録が残っていると思います。また、キリシタン側の史料「旅の話」もありますね。

来年の大河に向けて、長崎はどんな様子ですか?
一度行きたいと思っています。



大事件だと思います
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

仰せの通り、もっと知られてもよい大事件だと思います。
明治国家の思想的立ち位置に関わる出来事ですね。
「国体」と「外交」の軋轢で関係者もそれなりに苦労しているようですが、海外を見た人も多いのに、過剰反応ではないかなという気がします。もっとも、攘夷派や国学信奉者は大真面目だったかもしれませんが。

詳しく知るには、ブログでも紹介した家近氏の本が手ごろです。




ばんない
お久しぶりです。いろいろと考えさせられるお話でした。

世界的に見ればいまでも宗教と政治の関係は微妙でデリケートな問題で、佐々木高行のようなバリバリの国学者はともかくとして、逆に海外を見聞した人のほうが神経質になったのは無理からぬことかとおもいます。
あと、幕末の人々も島原の乱(ちなみに幕末当時では「日本最後の内乱」ですね)についてあまりにも「キリシタン反乱」というイメージが強すぎたのでしょう。最もこのイメージすり込みについては私たちも幕末の人々を笑えませんが。今の学説では「島原の乱」=キリシタンの乱というイメージは否定されているようで、「島原の乱」という用語すら使わない教科書もあるようですね。

浦上のキリシタンは約200年間、よりによって天領でかくれんぼに成功していたのに幕末~明治でこうなるとは…まあ、立派な大聖堂が建つところを見て遂に救われる日がやってきたと勘違いしても致し方ないところでしょう。

>仏教
徳川幕府の骨抜き政策がそれほど見事だったということでしょう。ただ、大正時代になると日蓮宗がブームになり、石原莞爾とか今に続くあの傍流などが政治的影響力を発揮してますね。

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この記事へのコメント
桐野先生、こんばんわ。
不勉強で、鹿児島市内に浦上信徒の墓があることを知りませんでした。ご教示ありがとうございました。
慶応3年6月の浦上信徒の逮捕で、当時、長崎の町は大騒ぎとなりました。当然、そのころ長崎にいた龍馬も知っていたこととも思います。長岡謙吉も注目して「閑愁録」を書いていますね。龍馬の一族がのちに入信したことも不思議な因縁です。
2009/02/16(Mon) 00:13 | URL  | 崎陽・織田 #-[ 編集]
面白かったです。
明治政府が直ちにキリスト教を認めたわけではなかったのは、知っていたのですが、具体的なお話を聞いたのは初めてでございまして、大変面白かったです。

刑罰とかも直ちに変わったわけではなく、とりあえず、江戸時代のまま運用されたものと理解しております。
2009/02/16(Mon) 00:30 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
なるほど
織田さん、こんにちは。

そうでしたね。
慶応3年3月から6月にかけて、長崎奉行が多くの隠れキリシタンを摘発していますね。
なるほど、龍馬はこのことを知っており、潜在的なキリシタン人口が多いと推測したんでしょうね。

浦上のキリシタンは西国の20数藩に流配されています。ですから、それぞれの藩に何らかの記録が残っていると思います。また、キリシタン側の史料「旅の話」もありますね。

来年の大河に向けて、長崎はどんな様子ですか?
一度行きたいと思っています。

2009/02/16(Mon) 13:26 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
大事件だと思います
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

仰せの通り、もっと知られてもよい大事件だと思います。
明治国家の思想的立ち位置に関わる出来事ですね。
「国体」と「外交」の軋轢で関係者もそれなりに苦労しているようですが、海外を見た人も多いのに、過剰反応ではないかなという気がします。もっとも、攘夷派や国学信奉者は大真面目だったかもしれませんが。

詳しく知るには、ブログでも紹介した家近氏の本が手ごろです。

2009/02/16(Mon) 13:31 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
お久しぶりです。いろいろと考えさせられるお話でした。

世界的に見ればいまでも宗教と政治の関係は微妙でデリケートな問題で、佐々木高行のようなバリバリの国学者はともかくとして、逆に海外を見聞した人のほうが神経質になったのは無理からぬことかとおもいます。
あと、幕末の人々も島原の乱(ちなみに幕末当時では「日本最後の内乱」ですね)についてあまりにも「キリシタン反乱」というイメージが強すぎたのでしょう。最もこのイメージすり込みについては私たちも幕末の人々を笑えませんが。今の学説では「島原の乱」=キリシタンの乱というイメージは否定されているようで、「島原の乱」という用語すら使わない教科書もあるようですね。

浦上のキリシタンは約200年間、よりによって天領でかくれんぼに成功していたのに幕末~明治でこうなるとは…まあ、立派な大聖堂が建つところを見て遂に救われる日がやってきたと勘違いしても致し方ないところでしょう。

>仏教
徳川幕府の骨抜き政策がそれほど見事だったということでしょう。ただ、大正時代になると日蓮宗がブームになり、石原莞爾とか今に続くあの傍流などが政治的影響力を発揮してますね。
2009/02/16(Mon) 19:45 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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