歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨日の大河第7回「母の願い」。

放映を見てから丸一日以上たちましたが、どうも書こうというモチベーションが保てませぬ。すでに、昨夜の筋立てをかなり忘れてしまっています。私の記憶力の悪さだけではないような。
どうも脱力感がありまして。今回だけならいいですけど、ここんとこずっとですからね。果たして、今後に期待できるのでしょうか?
御館の乱をどの程度緊張感をもって、史実を活かしながら描くかが試金石でしょうね。結論はその頃出そうと思っています。

ドラマは天正5年(1577)冬から春頃です。
今回は与六の母の死がメインテーマでしたから、ここで書けるのはせいぜい、謙信の関東出勢はどのようなものだったか、中央政局との関係はどうかという程度ですね。

その前にひとつ。
景勝の呼び名のことです。
ドラマ進行時点から2年前の天正3年(1575)には、有名な「上杉家軍役帳」が定められています。そのなかで、景勝は筆頭に挙げられ、合わせて500人ほどを率いる大将ですが、呼び名が「御中城様」ですね。できれば、この呼び名を使ったほうがいいのではと思うのですが、ないものねだりでしょうかね。

さて、七尾城を包囲したまま、上杉謙信は帰国しました。
関東の佐竹義重・宇都宮国綱・結城晴朝などから関東出勢の要請があったからです。
3月18日付で、水谷勝俊と結城晴朝に宛てたほぼ同文の謙信書状があります。
そのうち、水谷宛てを紹介します。

「越山に就きて再三示しを給い喜悦の至りに候、先達て啓せしむる如く、北国残る所なく手の裏に納め候の条、越山必然せしむ、分国中陣触れに及び、来月中旬、沼田・厩橋に至り打ち着くべくの条、味方中諷諌有りて手合わせ肝要に候、恐々謹言」

謙信は北国を残らず平定したと豪語しています。だから、越山=関東出勢は当然だと。分国中に陣触れをして、来月(4月)中旬には沼田・厩橋に着陣するので、味方中を戒めて結束し敵に当たることが肝要であると述べています。

しかし、実際に出陣したのは約束より1カ月ほど遅れた5月中旬でした。
上野の国衆と思われる野呂源太宛て謙信書状(5月14日付)によれば、近いうちに新田や足利表に放火すると書いています。なお、この書状の宛所には名字部分が摺り消されていて、本当は梶原源太(梶原政景)宛てのようです。野呂某が同じ通称だったので摺り消して自分の名字を入れたのでしょう。面白いですね。

結局、謙信の関東滞陣はわずかな期間だったらしく、6月頃には春日山に帰っている感じです。
なお、その頃、常陸の佐竹義重が謙信の家来の北条高広・景広父子に書状を送っています。
どうも、北条(これは「きたじょう」ですね)父子は厩橋の在番をしているようです。ドラマでは、もしかして越中や能登の陣にもいたでしょうか? 微妙ですね。


謙信の関東在陣期間が短かったのはやはり能登や中央政局の様子が気になったのでしょう。
じつは、謙信が能登から帰国したあとに、備後の足利義昭から御内書が届いています(3月27日付)。中国の毛利が出陣したことを知らせ、信長が紀州雑賀を攻めているので、その隙に上京するよう促しています。
厳密に言えば、上京云々の言葉はありませんが、「謙信が馳走してくれたら喜び入る」とあります。それに、おそらく毛利輝元の副状(4月1日付)らしき書状がありますが、それには、毛利勢は「播磨表に撃ち越す」ので、謙信も越前・近江に乱入してほしいと書いています。上京まではいきませんが、義昭=毛利は謙信に最大限近江まで南下してほしいと思っていたようです。

これは謙信にとっては好機だったかもしれません。義昭の号令の下、毛利との連携も図れるのですから。でも、それとは裏腹に逆方向の関東に出陣しなければならないのですから、何ともチグハグですね。

今回はこれくらいでしょうか。
さて、これからの展開ですが、まず9月に七尾落城があります。謙信の漢詩「霜は軍営に満ちて秋気清し~」が有名ですね(謙信作ではないとも言われていますが)。

以前、七尾城跡に行ったことがありますので、写真を載せておきます。
ドラマ最後にある天地人紀行と似たようなものですが、写真は上から以下のようなカットです。

七尾城石垣
同虎口のあたり
同頂上本丸の石碑と鳥居
本丸から見下ろした七尾湾


とくに、苔むした石垣の立派さは圧巻でしたね。高石垣ではないのですが、何段にも重なっていました。何となく美濃岩村城のような感じでしょうか。

石垣



虎口



本丸



七尾湾





城攻めしたのが02年秋ですから、もう6年以上前ですね。大河「利家とまつ」のときだと思います。城の麓の公園には、利家と馬を牽くおまつの銅像がありました。

次回ですが、落城直後には織田軍を破った手取川合戦もあります。そのあたりがどの程度描かれるでしょうか。

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【2009/02/16 23:29】 | 天地人
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七尾城
NAO4@吟遊詩人
石垣があまりに立派だったので、映像を見ていて驚きました。戦国時代は、関東では土くれの城ですが、能登にこんなしっかりした石垣の城があったなんて、ちょっと能登畠山氏を軽く見ておりました。

初めてコメントします。
千葉城
直江状に関する論文が去年発表されたので、お知らせします。

宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年3月発行)

以前、宮本氏が『歴史読本』で直江状の不自然な点を指摘して
いましたが、今回の論文では他にも直江状の問題点をいくつも
指摘し、さらに緻密な分析をしており、直江状に興味のある方に
は必読の論文ではないかと思われます。、

御中城様
k2
桐野様
てっきり、御愁傷様とかけた題と思いました(笑


七尾城
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

七尾城はなかなか立派で峻険な山城です。
上杉謙信が手こずったのもよくわかります。
遊佐が裏切っていなければ、謙信はもっと苦労したでしょうね。
石垣は山腹と頂上付近に多かったですね。

七尾城は陥落後、一時期、前田利家も支配下におさめたはずです。利家は近くに小丸山城を築きましたが、七尾城はすぐ廃城になったのでしょうかね? もしかして前田の手が入っているかもしれないとも臆測しますが、不勉強なのでよくわかりません。
NAO4@吟遊詩人も可能ならば、ぜひチャレンジしてみて下さい。

宮本義己氏論文
桐野作人
千葉城さん、こんばんは。

宮本さんの論文紹介有難うございます。
そういえば、宮本さんは近年、「大日光」によく書かれていますね。
ご紹介の論文、見落としていました。
入手して読んでみます。
有難うございました。

御愁傷様
桐野作人
k2さん、こんばんは。

あまりに面白くて笑いころげてしまいましたよ。

いまのままでは、先行きが不安なドラマではありますね。
今後、劇的にシリアスになるとも思えませんが……。

謙信はなぜ有名か?
norita
先週のコメントにはお返事ありがとうございました。
実は、桐野先生のブログを見始めたのは昨年末です。
ですから過去の記事や大河以外の記事はほとんど見ておりません。
これから史実をもっと知りたいと思っている次第です。

本題です。
義の精神の話はさておき、謙信には領土拡張より大切なものがあったのは
間違いないのでしょうね。 (毘沙門天でしょうか?)

信玄とやり合ったり関東に行ったり越中方面に行ったり。
結局、関東と信州は自分のものにできなかったですし、
越中方面も自分の死後に失ってしまいます。
領土ということで言えば、それほど注目に値しません。

それでも謙信は信長・信玄とともに、超有名な戦国武将です。
知らない人はいないはずです。
なぜなのでしょう?
川中島の一騎打ちが有名だからでしょうか?
とすると、ここにも史実から乖離した何かが絡んでいるような気がしてきますが、
実際のところどうなのでしょう?

領土拡張
桐野作人
noritaさん、こんばんは。

上杉謙信は関東に所領を得ています。
当初は上野一国をほぼ保持しており、晩年には東上野は明らかに上杉領でした。御館の乱のとき、景勝は武田勝頼を取り込むために、東上野の割譲を約束しています。
謙信も領土拡張を望んでいなかったわけではないと思います。問題は要領が悪かったのか、非効率だったのかもしれません。

しかし、北陸は短期間で、越中・能登・加賀北半を手中に収めていますよね。謙信がもう少し長生きしたら、分国化がかなり進んだのではないでしょうか。

そう考えると、謙信もふつうの戦国大名のような気がするのですが……。

謙信の評価
norita
ご回答ありがとうございます。
中途半端な知識で質問をしてしまい、申し訳ございません。
また、質問自体にも飛躍があったようで、誠に申し訳ありませんでした。

調べた限りでは、謙信の軍勢は直接戦闘や機動力で抜群の能力を発揮する一方、
持久戦や城攻めを苦手とし、占領地の直接支配をあまりしなかったということになっています。

そうすると、戦闘には強い割に領土が広がらなかったのは、
やはり領土拡張より重視している何かがあったのではないかと思ってしまいます。

調べている限りでは、越後に逃れてきた武将たちを救うという大義や、
足利幕府再建への意欲・関東管領職へのこだわりなどが目に付きます。
義理堅い性格だったという人物評価も気になります。

これらを総合的に評価して一言で表現すると、桐野先生のおっしゃる通り、
謙信の領土拡張作戦は「効率が悪い」ということになるのでしょうね。

このような理解でよろしいでしょうか?

兵站の不安
桐野作人
noritaさん、こんにちは。

上杉謙信の対外侵攻、とくに関東出陣を考えてみると、政略面では、関東管領職就任とともに、古河公方の正統性について、北条氏と競っています。謙信にとっても、関東統治の大義名分のため、これを重要視したのは間違いないと思います。

軍略については、やはり北条方の国人や大名の拠点を攻略しないことには、支配領域を拡大できません。その点で、謙信は腰を落ちつけて城攻めする時間的余裕がなかったように思います。
その理由の第一は、北信川中島方面で武田氏と対峙していること、また越中方面での戦いなど。
第二に、冬期の積雪で三国峠が塞がってしまうこと。
があげられます。
謙信もその不利を知って、上州に北條高広父子などを厩橋に置くなど、領国化を進めましたが、やはり不十分だったように思います。

関東に腰を落ちつけられなかったというのが最大の要因ではないでしょうか。
その点、晩年に北陸三国への進出がうまくいったのは、一向一揆との和睦が成ったからだと思います。

北条氏と関連づけて
norita
丁寧なご回答ありがとうございます。

戦線を同時に複数抱えていれば、ゆっくりと城攻めしている時間がないのは当然ですね。

私は北条氏にかなり関心がありますが、
周辺の諸大名と微妙な駆け引きをしていたことが見て取れます。
特に氏康の頃は、武田・今川・上杉・里見という強大な勢力を常に意識していますね。
そして、戦線を一度に多く抱えないように、さまざまな外交戦略を繰り広げています。

雪については、ドラマでも小説でもよく出てくる話ですね。
甲駿相の三国同盟が破れた後、信玄の強さを思い知った氏康が、
謙信と手を切るよう氏政に遺言した理由にもなっています。

謙信が本当に関東を支配しようと思うなら、かなり思い切った作戦が必要だったのでしょうね。
例えば信玄と早期に和睦するとか。
でもそうすると、村上義清など謙信のところへ逃げてきた武将たちが困りますね。
やはり、謙信の人間性がある程度は関東支配の障害になった、とも言えなくはないと思えます。


履歴書の封筒
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

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この記事へのコメント
七尾城
石垣があまりに立派だったので、映像を見ていて驚きました。戦国時代は、関東では土くれの城ですが、能登にこんなしっかりした石垣の城があったなんて、ちょっと能登畠山氏を軽く見ておりました。
2009/02/17(Tue) 03:58 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
初めてコメントします。
直江状に関する論文が去年発表されたので、お知らせします。

宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年3月発行)

以前、宮本氏が『歴史読本』で直江状の不自然な点を指摘して
いましたが、今回の論文では他にも直江状の問題点をいくつも
指摘し、さらに緻密な分析をしており、直江状に興味のある方に
は必読の論文ではないかと思われます。、
2009/02/17(Tue) 18:24 | URL  | 千葉城 #-[ 編集]
御中城様
桐野様
てっきり、御愁傷様とかけた題と思いました(笑
2009/02/17(Tue) 22:32 | URL  | k2 #-[ 編集]
七尾城
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

七尾城はなかなか立派で峻険な山城です。
上杉謙信が手こずったのもよくわかります。
遊佐が裏切っていなければ、謙信はもっと苦労したでしょうね。
石垣は山腹と頂上付近に多かったですね。

七尾城は陥落後、一時期、前田利家も支配下におさめたはずです。利家は近くに小丸山城を築きましたが、七尾城はすぐ廃城になったのでしょうかね? もしかして前田の手が入っているかもしれないとも臆測しますが、不勉強なのでよくわかりません。
NAO4@吟遊詩人も可能ならば、ぜひチャレンジしてみて下さい。
2009/02/18(Wed) 00:11 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
宮本義己氏論文
千葉城さん、こんばんは。

宮本さんの論文紹介有難うございます。
そういえば、宮本さんは近年、「大日光」によく書かれていますね。
ご紹介の論文、見落としていました。
入手して読んでみます。
有難うございました。
2009/02/18(Wed) 00:13 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
御愁傷様
k2さん、こんばんは。

あまりに面白くて笑いころげてしまいましたよ。

いまのままでは、先行きが不安なドラマではありますね。
今後、劇的にシリアスになるとも思えませんが……。
2009/02/18(Wed) 00:43 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
謙信はなぜ有名か?
先週のコメントにはお返事ありがとうございました。
実は、桐野先生のブログを見始めたのは昨年末です。
ですから過去の記事や大河以外の記事はほとんど見ておりません。
これから史実をもっと知りたいと思っている次第です。

本題です。
義の精神の話はさておき、謙信には領土拡張より大切なものがあったのは
間違いないのでしょうね。 (毘沙門天でしょうか?)

信玄とやり合ったり関東に行ったり越中方面に行ったり。
結局、関東と信州は自分のものにできなかったですし、
越中方面も自分の死後に失ってしまいます。
領土ということで言えば、それほど注目に値しません。

それでも謙信は信長・信玄とともに、超有名な戦国武将です。
知らない人はいないはずです。
なぜなのでしょう?
川中島の一騎打ちが有名だからでしょうか?
とすると、ここにも史実から乖離した何かが絡んでいるような気がしてきますが、
実際のところどうなのでしょう?
2009/02/22(Sun) 23:30 | URL  | norita #daiAzy0g[ 編集]
領土拡張
noritaさん、こんばんは。

上杉謙信は関東に所領を得ています。
当初は上野一国をほぼ保持しており、晩年には東上野は明らかに上杉領でした。御館の乱のとき、景勝は武田勝頼を取り込むために、東上野の割譲を約束しています。
謙信も領土拡張を望んでいなかったわけではないと思います。問題は要領が悪かったのか、非効率だったのかもしれません。

しかし、北陸は短期間で、越中・能登・加賀北半を手中に収めていますよね。謙信がもう少し長生きしたら、分国化がかなり進んだのではないでしょうか。

そう考えると、謙信もふつうの戦国大名のような気がするのですが……。
2009/02/25(Wed) 18:39 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
謙信の評価
ご回答ありがとうございます。
中途半端な知識で質問をしてしまい、申し訳ございません。
また、質問自体にも飛躍があったようで、誠に申し訳ありませんでした。

調べた限りでは、謙信の軍勢は直接戦闘や機動力で抜群の能力を発揮する一方、
持久戦や城攻めを苦手とし、占領地の直接支配をあまりしなかったということになっています。

そうすると、戦闘には強い割に領土が広がらなかったのは、
やはり領土拡張より重視している何かがあったのではないかと思ってしまいます。

調べている限りでは、越後に逃れてきた武将たちを救うという大義や、
足利幕府再建への意欲・関東管領職へのこだわりなどが目に付きます。
義理堅い性格だったという人物評価も気になります。

これらを総合的に評価して一言で表現すると、桐野先生のおっしゃる通り、
謙信の領土拡張作戦は「効率が悪い」ということになるのでしょうね。

このような理解でよろしいでしょうか?
2009/02/25(Wed) 23:39 | URL  | norita #daiAzy0g[ 編集]
兵站の不安
noritaさん、こんにちは。

上杉謙信の対外侵攻、とくに関東出陣を考えてみると、政略面では、関東管領職就任とともに、古河公方の正統性について、北条氏と競っています。謙信にとっても、関東統治の大義名分のため、これを重要視したのは間違いないと思います。

軍略については、やはり北条方の国人や大名の拠点を攻略しないことには、支配領域を拡大できません。その点で、謙信は腰を落ちつけて城攻めする時間的余裕がなかったように思います。
その理由の第一は、北信川中島方面で武田氏と対峙していること、また越中方面での戦いなど。
第二に、冬期の積雪で三国峠が塞がってしまうこと。
があげられます。
謙信もその不利を知って、上州に北條高広父子などを厩橋に置くなど、領国化を進めましたが、やはり不十分だったように思います。

関東に腰を落ちつけられなかったというのが最大の要因ではないでしょうか。
その点、晩年に北陸三国への進出がうまくいったのは、一向一揆との和睦が成ったからだと思います。
2009/03/01(Sun) 10:38 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
北条氏と関連づけて
丁寧なご回答ありがとうございます。

戦線を同時に複数抱えていれば、ゆっくりと城攻めしている時間がないのは当然ですね。

私は北条氏にかなり関心がありますが、
周辺の諸大名と微妙な駆け引きをしていたことが見て取れます。
特に氏康の頃は、武田・今川・上杉・里見という強大な勢力を常に意識していますね。
そして、戦線を一度に多く抱えないように、さまざまな外交戦略を繰り広げています。

雪については、ドラマでも小説でもよく出てくる話ですね。
甲駿相の三国同盟が破れた後、信玄の強さを思い知った氏康が、
謙信と手を切るよう氏政に遺言した理由にもなっています。

謙信が本当に関東を支配しようと思うなら、かなり思い切った作戦が必要だったのでしょうね。
例えば信玄と早期に和睦するとか。
でもそうすると、村上義清など謙信のところへ逃げてきた武将たちが困りますね。
やはり、謙信の人間性がある程度は関東支配の障害になった、とも言えなくはないと思えます。
2009/03/01(Sun) 18:18 | URL  | norita #daiAzy0g[ 編集]
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
2011/12/11(Sun) 12:04 | URL  | 履歴書の封筒 #-[ 編集]
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 七尾城攻めはどうでもよかったようなホームドラマでした。  故郷の雲洞庵で蟄居生...
2009/02/17(Tue) 18:52:44 |  旅じゃ.com
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