歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ジメサア1

鹿児島市の目抜き通り(国道10号線)に軍服姿の西郷隆盛銅像が立っている。その後ろの県立美術館敷地に、表題の「ジメサア」の石像↑がひっそりと鎮座していることは、鹿児島の人でもあまり知らない。

この石像の主は、薩摩藩祖、島津家久(1578-1638)の夫人、亀寿(1571-1630 島津義久の三女)である。
法号を「持明彭窗庵主興国寺殿」といった。頭の「持明」をとった「じみょうさま」が鹿児島弁で訛れば、「ジメサア」となる。

この石像が変わっているのは、毎年の祥月命日(旧暦10月5日)に写真のようにきれいにお化粧されることである。上の写真は3年前のものだが、昨秋のお化粧は下の写真のようにエビちゃん風だった(笑)。
ジメサア2

なぜ化粧されるのか?
それはジメサアの哀しい生涯と関わっている。彼女は島津家太守、島津義久の三女に生まれた。しかし、父義久が天正15年(1587)に豊臣秀吉に敗北したため、人質として関ヶ原合戦(1600年)までの13年間のほとんどを人質として上方で過ごした。
また、義久には男子がなかったため、彼女の婿が島津家の家督を継ぐことになった。最初の夫は従兄弟の久保(島津義弘長男)。ところが結婚生活わずか数年で久保は朝鮮陣で病没。次に久保の弟、忠恒(のち家久と改名)を婿に取る。

忠恒こと家久は戦国大名島津氏を近世大名へと鋳直す役割を負っており、大名権力の強化のために、かなり強引な藩政運営と残虐といってよい家中粛清を行った。
また夫人に対しては、もと兄嫁であるうえに、7歳も年上の姉さん女房だったためか、敬して遠ざけるという姿勢を貫き、ついに二人の間に子どもができなかった。

彼女は父義久が没した国分城に居住し、鹿児島城の夫とは別居した。それは前太守の娘として、相応の所領を持ち、島津家の家宝である歴代系図を所持し、家久の側室に一子光久が誕生したときは、それを自分の息子として幕府に届け出るなど、島津本宗家の正統なる血統の持ち主として、また藩主夫人として、また女領主としての威厳・面目を十分保った生涯だったと思われる。

しかし面白いのは、領民には、彼女は夫に見捨てられた可哀相な女性にしか見えなかったらしく、その同情を一身に集めるという不思議な現象が起こったのである。
領民たちは彼女が夫に無視されたのは、その容貌の不自由さにあったと「解釈」し、石像に化粧して美しく見せることで彼女の無念を慰め供養するという風習がいつしか生まれ、それが鹿児島の素朴な庶民信仰のひとつとして定着し、今日に至っている。

一方、彼女が領内から同情と敬慕を集めたのは、藩政への無言の批判という面もあったのかもしれない。彼女に対して、領民だけでなく、島津家の家臣団の一部からの秘やかな支持と同情もあったのではないか。
それは、島津本宗家の家督が義久系から義弘系へと移ったことに起因する。それにより、冷遇されることになった義久系の旧臣団にとっては、彼女の存在こそ希望の星であり、彼女への敬慕と同情の念も重ねられて、「ジメサア信仰」が生まれたのかもしれない。

それで、私がジメサアでずっと気になっているのは、彼女の名前のことである。
彼女の幼名が「亀寿」だったことは、島津家の系譜『島津氏正統系図』や『西藩野史』などに記されている。
そのため、彼女は成人してからも、たいがい「亀寿」と呼ばれることが多い。
しかし、たとえば、成人した徳川家康をずっと竹千代と呼ぶのがおかしいように、「亀寿」も同様である。

先日、『鹿児島県史料』の新刊「伊地知李安著作史料集」を紹介したが、その第六巻に「京及江戸御人質交替紀略」(玉里文庫本)という史料が収録されていたのに気づいた。
豊臣政権から徳川幕府初期にかけて、島津氏が出した人質についての文書や記録を集めたものである。

これなら、「亀寿」の実名もわかるのではないかと思って、よく読んでみたが、「御料人様」「上様(かみさま)」「カミ様」と敬称で呼ばれているのは何例も見つけたものの、ついに実名は見つからなかった。

私は『島津義久』(PHP文庫)を刊行したが、そのなかで、亀寿を「おかぢ」と呼んだ。どこかのサイトだったかに、創作で付けた名前だとか、やや批判的に書かれているのを目にしたけれど、これは決して創作ではなく、ちゃんと史料的な裏付けがあるのだ。

『薩藩旧伝集』補遺という史料に、義久が豊臣秀吉に降伏したときのいきさつが次のように記されている。

秀吉公九州下向の時、大平寺にておかち様人質として御出の節、秀吉公似せ物かと御疑ひ、御容貌美しかりければ、猶いぶかしく思ひ玉ひ、

これによれば、大平寺(現・薩摩川内市)で義久が秀吉と対面したとき、「おかち様」を人質に提出したと書かれている。これは秀吉方から娘を差し出すように命じられたためである。
したがって、「おかち様」が亀寿=ジメサアであることは間違いない。亀寿はこのとき17歳である。男子なら元服を済ましている年代だから、亀寿も幼名を捨てて、通称(仮名)と実名をもっていたとしてもおかしくない。
つまり、「おかち」が亀寿の成人してからの通称ではないかと思われるのだ。もっとも、仮名なのか漢字で表記できる名前なのかまではわからない。私は「おかち」ではやや不自然だと思ったので、「おかぢ」ではないかと推定した。

ただ、『薩藩旧伝集』は江戸時代の二次的編纂物なので、信頼性という点では少し弱い。何とか一次史料で確認できないものか、今後も調査するしかないなというのが、当座の結論である。

「ジメサア」の石像からずっと引っ張ってきて、つまらない結論で申し訳ない。

スポンサーサイト

【2007/01/10 13:22】 | 戦国島津
トラックバック(0) |

島津家
小池直行
始めまして
島津家の祖は頼朝の落しだねという話が、島津家に伝わっているということを聞きましたが

頼朝落胤説
桐野
小池直行さん、はじめまして。

島津忠久というか、惟宗忠久が源頼朝の落胤だという伝承は、室町時代後期にすでに成立しています。でも、伝承であり、史実とはいいがたいですね。

忠久は摂関家の近衛家の家司(けいし)、惟宗氏の出であろうと言われています。

島津氏は藤原姓を名乗っていましたが、室町時代に一時的に清和源氏を名乗ります。これは明国との勘合貿易が「日本国王」家、つまり、足利将軍家の一族でなければ不可能だったために、便宜的に改姓したものでしょう。
落胤説もその文脈でとらえたほうがいいかもしれません。

なお、付言すれば、現在の島津家はなお、頼朝落胤説をとっております。「島津家正統系図」などにはそのように記されております。


ばんない
実在の人物に密かな藩制批判が込められた話が付いてくる、というパターンは「しゅじゅどん」こと徳田太兵衛の数々のとんち話に通じる物があると感じました。

ところで、亀寿の姉である義久次女については『鹿児島県姓氏家系大辞典』では「玉姫」と名乗っていたとしていますが、『垂水市史料集』に所収されている垂水島津家の関係史料などを見てみた物の、ズバリ書いてある物は管見では見つけられませんでした。この点について、桐野様は何か情報をご存じでしょうか?

義久二女の名前
桐野
ばんないさん

義久の二女が「玉」だとする典拠が『鹿児島県姓氏家系大辞典』だというのは知っていたのですが、いまもって同書のどこに記載されているのか調べてみましたけど、わかりません。「鹿児島県の人物」にも立項されていないようだし、後ろの系譜編でも垂水家、新城家などを見てみましたが、見つかりません。
もしご存じなら、頁数などご教示願えませんか。

それで、「玉」の典拠が何なのか、じつは私もいろいろ調べてみたのですが、確たることはわかりません。

ただ、それらしい史料がないわけではありません。『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ十』に「新城島津家文書」が2種類(東大史料編纂所本と黎明館本)収録されていますが、そのうちの東大本のほうに「新城消息」という文書が2点あります(3、4号)。
とくに3号文書が又四郎久信(のち忠仍)、つまり島津彰久と「玉」の子に宛てた消息です。
「新城」は義久二女が大隅国新城(現・垂水市)に化粧料3.700石を与えられたことから始まりますので、この場合の「新城」はいわゆる「玉」を指すと見てよいので、この消息は「玉」が息子の久信に宛てたものと見ていいのではと思います。
内容的にも、久信の子菊袈裟(のち久敏)に触れるなど、母らしい気遣いが感じられる文面です。
久敏の生誕年は慶長七年(1602)ですから、この消息はそれ以後、ようやく徳川家の覇権が確立した頃で、久信は上方か江戸に滞在中と思われます。

それで、この文書の差出人の署名が「ミつから」となっており、尚々書にもやはり「ミつから」という文言があります。
これによるかぎり、義久二女は「ミつ」という名前だったのかなと、ふと思いました。ただ、このようなくだけた消息文で、自分の名前を書くときは「○○より」と書くのじゃないかなと少し気になっております。

ともあれ、義久二女が「玉」というより、「ミつ」かもしれないということ、もっと検討が必要だと思います。

「ミつから」
ばんない
こんばんは。

『鹿児島県姓氏家系大辞典』の「玉姫」の件ですが、巻頭の方に市町村別の歴史概略が書いてあり、「国分市」か「垂水市」のところで書いてあったと思います。当方も手元に本がないので、記憶に頼って書いておりますこと、申し訳有りません。

さて「ミつから」の手紙ですが、偶然にコピーを手元に持っていました。「尚々、ミつから(欠字)いそき候へく候、(以下略)」で始まる物でしょうか。これですが、同じ「日向佐土原島津文書」に所収されている池の上(島津彰久母、北郷時久の娘)や球麻(島津久信妻、島津家久の娘)の手紙の末尾に出てくる「身つから」と同じ物かと思っていたのですが…。

それと、このコピーを探すときに偶然亀寿の消息といわれる物も見つけたのですが、そちらの方は文末の署名に「か」とか「い」とか書いてます。「か」のほうは「亀寿」の略だと思われるのですが、「い」って、何なのでしょう(苦笑)

「ミつから」
桐野
ばんないさん、どうも。

「玉」は『~辞典』の国分市の項(134頁)にありました。永年の疑問が氷解しました。有難うございます。

「ミつから」は「身つから」ですか。
私は「新城島津家文書」(東大本)所収の「日向佐土原島津文書」七にある82号文書の宛所に、

「きよミつにて うちしやうへまいる」

とあるのが気になっていて、これはおそらく「清水にて、内城へ 参る」だと思うのですが、「きよミつ」の「ミつ」かなと思ったのですが、少し変ですね。
この頃、清水城には内城があったというのも気になる表現で、「内城」は、島津家で使うそれではなく、単に本丸という意味なんでしょうかね?

「か」と「い」
私も気づきました。
「か」から亀寿消息となっていますが、私はこのブログで述べたように、亀寿幼名説をとっておりますので、ここは「おかち」の「か」ではないかとあえて推定したいです。「お」は「御」か「於」の接頭語ですから、名前としては「かち」でその頭の字ではという解釈です。

「い」も亀寿消息としてありますね。写真版を見ていないので何ともいえないのですが、おそらく「か」消息と同筆だと判断して、そう比定したのでしょうね。
「い」が何の略か、ちょっと想像がつきませんね。その前後、姉に出している消息が多いようですから、「妹」の「い」は? 単なる思いつきですが。

それと関連しますが、「新城島津家文書」(黎明館本)の9号文書。お手許で見られる状況でしょうか?

これも、亀寿消息とされ、宛所が「御あ□しさま」で「御あもじ様」のようです。「あもじ」は姉のことですから、これは亀寿が長姉於平か次姉「玉」に出したことになりますね。「玉」ではないかと私は思っています。

なお、年次を消息中に「れうさま」とあるのを「龍様」つまり、龍伯と解釈して天正十七年かとしています。そして、「れうさま」が国許に下るので、「きくもし殿」がさぞうれしいだろうと書いています。
「きくもし殿」とはおそらく菊~という幼名のことで、「あもしさま」の縁者(子どもか)を指すと思われます。該当者は久信だと思われますが、菊~という幼名を持っていたのでしょうか?

いずれにせよ、これでも義久二女の名前は不明のままですね。





きくもし殿
ばんない
こんばんは。

亀寿消息の末尾サイン「い」ですが、私も「いもうと(妹)」の「い」ではないかと考えてました(冷や汗)
宛先は文書の所蔵先から考えても長姉の御平ではなくて次姉の可能性の方が遙かに高いと考えます。

さて「きくもし殿」ですが、桐野様の想像通り、後の島津久信(忠仍)ではないかと諸史料から私も考えています(拙HP URLをご参照下さい)。ただ、「諸氏系譜」所収の新城島津家系図などには確か久信の幼名は載ってなかったような。但し、久信の長男が「菊袈裟」を名乗っていたのは確かなので、久信の幼名も「菊○」であった可能性は高いと思っています。

管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
島津家
始めまして
島津家の祖は頼朝の落しだねという話が、島津家に伝わっているということを聞きましたが
2007/01/11(Thu) 13:01 | URL  | 小池直行 #PoWRB6fw[ 編集]
頼朝落胤説
小池直行さん、はじめまして。

島津忠久というか、惟宗忠久が源頼朝の落胤だという伝承は、室町時代後期にすでに成立しています。でも、伝承であり、史実とはいいがたいですね。

忠久は摂関家の近衛家の家司(けいし)、惟宗氏の出であろうと言われています。

島津氏は藤原姓を名乗っていましたが、室町時代に一時的に清和源氏を名乗ります。これは明国との勘合貿易が「日本国王」家、つまり、足利将軍家の一族でなければ不可能だったために、便宜的に改姓したものでしょう。
落胤説もその文脈でとらえたほうがいいかもしれません。

なお、付言すれば、現在の島津家はなお、頼朝落胤説をとっております。「島津家正統系図」などにはそのように記されております。
2007/01/11(Thu) 16:09 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
実在の人物に密かな藩制批判が込められた話が付いてくる、というパターンは「しゅじゅどん」こと徳田太兵衛の数々のとんち話に通じる物があると感じました。

ところで、亀寿の姉である義久次女については『鹿児島県姓氏家系大辞典』では「玉姫」と名乗っていたとしていますが、『垂水市史料集』に所収されている垂水島津家の関係史料などを見てみた物の、ズバリ書いてある物は管見では見つけられませんでした。この点について、桐野様は何か情報をご存じでしょうか?
2007/01/17(Wed) 21:23 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
義久二女の名前
ばんないさん

義久の二女が「玉」だとする典拠が『鹿児島県姓氏家系大辞典』だというのは知っていたのですが、いまもって同書のどこに記載されているのか調べてみましたけど、わかりません。「鹿児島県の人物」にも立項されていないようだし、後ろの系譜編でも垂水家、新城家などを見てみましたが、見つかりません。
もしご存じなら、頁数などご教示願えませんか。

それで、「玉」の典拠が何なのか、じつは私もいろいろ調べてみたのですが、確たることはわかりません。

ただ、それらしい史料がないわけではありません。『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ十』に「新城島津家文書」が2種類(東大史料編纂所本と黎明館本)収録されていますが、そのうちの東大本のほうに「新城消息」という文書が2点あります(3、4号)。
とくに3号文書が又四郎久信(のち忠仍)、つまり島津彰久と「玉」の子に宛てた消息です。
「新城」は義久二女が大隅国新城(現・垂水市)に化粧料3.700石を与えられたことから始まりますので、この場合の「新城」はいわゆる「玉」を指すと見てよいので、この消息は「玉」が息子の久信に宛てたものと見ていいのではと思います。
内容的にも、久信の子菊袈裟(のち久敏)に触れるなど、母らしい気遣いが感じられる文面です。
久敏の生誕年は慶長七年(1602)ですから、この消息はそれ以後、ようやく徳川家の覇権が確立した頃で、久信は上方か江戸に滞在中と思われます。

それで、この文書の差出人の署名が「ミつから」となっており、尚々書にもやはり「ミつから」という文言があります。
これによるかぎり、義久二女は「ミつ」という名前だったのかなと、ふと思いました。ただ、このようなくだけた消息文で、自分の名前を書くときは「○○より」と書くのじゃないかなと少し気になっております。

ともあれ、義久二女が「玉」というより、「ミつ」かもしれないということ、もっと検討が必要だと思います。
2007/01/18(Thu) 15:41 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
「ミつから」
こんばんは。

『鹿児島県姓氏家系大辞典』の「玉姫」の件ですが、巻頭の方に市町村別の歴史概略が書いてあり、「国分市」か「垂水市」のところで書いてあったと思います。当方も手元に本がないので、記憶に頼って書いておりますこと、申し訳有りません。

さて「ミつから」の手紙ですが、偶然にコピーを手元に持っていました。「尚々、ミつから(欠字)いそき候へく候、(以下略)」で始まる物でしょうか。これですが、同じ「日向佐土原島津文書」に所収されている池の上(島津彰久母、北郷時久の娘)や球麻(島津久信妻、島津家久の娘)の手紙の末尾に出てくる「身つから」と同じ物かと思っていたのですが…。

それと、このコピーを探すときに偶然亀寿の消息といわれる物も見つけたのですが、そちらの方は文末の署名に「か」とか「い」とか書いてます。「か」のほうは「亀寿」の略だと思われるのですが、「い」って、何なのでしょう(苦笑)
2007/01/19(Fri) 18:23 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
「ミつから」
ばんないさん、どうも。

「玉」は『~辞典』の国分市の項(134頁)にありました。永年の疑問が氷解しました。有難うございます。

「ミつから」は「身つから」ですか。
私は「新城島津家文書」(東大本)所収の「日向佐土原島津文書」七にある82号文書の宛所に、

「きよミつにて うちしやうへまいる」

とあるのが気になっていて、これはおそらく「清水にて、内城へ 参る」だと思うのですが、「きよミつ」の「ミつ」かなと思ったのですが、少し変ですね。
この頃、清水城には内城があったというのも気になる表現で、「内城」は、島津家で使うそれではなく、単に本丸という意味なんでしょうかね?

「か」と「い」
私も気づきました。
「か」から亀寿消息となっていますが、私はこのブログで述べたように、亀寿幼名説をとっておりますので、ここは「おかち」の「か」ではないかとあえて推定したいです。「お」は「御」か「於」の接頭語ですから、名前としては「かち」でその頭の字ではという解釈です。

「い」も亀寿消息としてありますね。写真版を見ていないので何ともいえないのですが、おそらく「か」消息と同筆だと判断して、そう比定したのでしょうね。
「い」が何の略か、ちょっと想像がつきませんね。その前後、姉に出している消息が多いようですから、「妹」の「い」は? 単なる思いつきですが。

それと関連しますが、「新城島津家文書」(黎明館本)の9号文書。お手許で見られる状況でしょうか?

これも、亀寿消息とされ、宛所が「御あ□しさま」で「御あもじ様」のようです。「あもじ」は姉のことですから、これは亀寿が長姉於平か次姉「玉」に出したことになりますね。「玉」ではないかと私は思っています。

なお、年次を消息中に「れうさま」とあるのを「龍様」つまり、龍伯と解釈して天正十七年かとしています。そして、「れうさま」が国許に下るので、「きくもし殿」がさぞうれしいだろうと書いています。
「きくもし殿」とはおそらく菊~という幼名のことで、「あもしさま」の縁者(子どもか)を指すと思われます。該当者は久信だと思われますが、菊~という幼名を持っていたのでしょうか?

いずれにせよ、これでも義久二女の名前は不明のままですね。



2007/01/22(Mon) 00:25 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
きくもし殿
こんばんは。

亀寿消息の末尾サイン「い」ですが、私も「いもうと(妹)」の「い」ではないかと考えてました(冷や汗)
宛先は文書の所蔵先から考えても長姉の御平ではなくて次姉の可能性の方が遙かに高いと考えます。

さて「きくもし殿」ですが、桐野様の想像通り、後の島津久信(忠仍)ではないかと諸史料から私も考えています(拙HP URLをご参照下さい)。ただ、「諸氏系譜」所収の新城島津家系図などには確か久信の幼名は載ってなかったような。但し、久信の長男が「菊袈裟」を名乗っていたのは確かなので、久信の幼名も「菊○」であった可能性は高いと思っています。
2007/01/23(Tue) 21:43 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2007/01/31(Wed) 22:08 |   |  #[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。