歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞文化面連載「さつま人国誌」第97回
―参勤交代用の「御仮屋」―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は昨年暮れに建碑された薩摩藩伏見藩邸について書きました。
タイトルに「京都の~」と付けましたが、当時の伏見は京都には含まれませんので、不要だったかもしれません。現在の行政区分としてお考え下さい。

伏見藩邸が薩摩藩政のなかでどのような位置づけになるのか、不勉強なこともあって実態がよくわかりません。ただ、現存の史料にもそれほど記事がないのではないかという気がします。

伏見藩邸が重要視されるようになるのは、島津家と近衛家との関係が親密になってくるのと比例しているのではないでしょうか。
島津家と近衛家の婚儀が初めて行われたのは、元禄15年(1702)、薩摩藩5代藩主吉貴の娘亀姫と近衛家久の縁組です。
これは島津家の家格上昇のきっかけとなったと思います。摂関家の近衛家と親戚になったことで、当然、島津家は京都での御用が増えます。洛中には錦小路藩邸があり、留守居または用人が詰めていましたが、やはり藩主が入京する頻度が増えるにつれ、藩主が洛中に宿泊できない分、伏見藩邸の比重が次第に高くなってきたものと思われます。

とくに幕末は、近衛忠煕・忠房の2代にわたり、御簾中は島津家の娘ですからなおさらですね。
もっとも、幕末になると、藩主の入京・宿泊も容易になってきます。薩摩藩は文久3年(1863)、手狭な錦小路藩邸に代わり、新たに二本松藩邸を造営したため、今度は逆に伏見藩邸の役割は小さくなっていったのではないかと推測しています。

伏見藩邸は単なる参勤交代での藩主宿舎という機能にとどまらず、かといって、三都の藩邸ほどの地位にはならなかったという特殊性に注目してみました。

次回は予告どおり、坂本龍馬とお龍が伏見藩邸に転がり込んだ一件を書きます。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2009/02/21 11:07】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。『南日本新聞』本文によると薩摩藩伏見藩邸の初出は島津光久のころとのことですが、この時に羊羹の発明に貢献したんでしょうかね?(^^;)
http://www.turuyahatiman.co.jp/column/materials/

後、伏見藩邸とは直接関わりないのですが、一つ愚問があります。「元禄15年(1702)、薩摩藩5代藩主吉貴の娘亀姫と近衛家久の縁組」について言及されてますが、これは誰のお声掛かりだったかご存じでしょうか?山本博文氏も『徳川将軍家の結婚』で6代将軍家宣と天英院熙子との結婚の関連で少し触れてられますが、それでは「近衛基熙は近衛家久と島津亀姫の婚儀にも(武家との婚姻は摂家の家格問題に触れるという考えから)乗り気ではなかった」という程度しか触れてられないです。
桐野氏の上記の文ではこの婚儀が島津家の家格上昇のきっかけになったという見解ですので、島津氏側からの強力な働きかけがあったのでしょうか?

将軍綱吉か
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

島津氏の家格上昇をどのようにとらえるのか難しい問題ですね。島津重豪の娘茂姫が徳川家斉の御台所になったのは明らかにその画期といえるかもしれませんが、それは結果論ではないかという気がしております。
二人の縁組は、家斉がまだ一橋家にいたときですから、茂姫は将軍御台所としての入輿ではなく、あくまで御三卿の御簾中ですからね。

また一般には竹姫が島津継豊の継室になったことが大きいのかもしれませんが、これとて、将軍家養女の嫁ぎ先の問題ですから、大大名ならありえることですね。加賀の前田家もそうですし。

となると、島津吉貴の一女亀姫と島津家久の縁組(家久は再婚のようですが)が意外と大きな意味を持っているのかもしれませんね。山本博文氏の指摘のように、近衛家が家格の釣り合いを考えて渋ったというのはよくわかります。摂関家と釣り合う武家は徳川将軍家か御三家・御三卿まででしょう。

で、この縁組、誰のお声がかりかといえば、考えられるのは将軍綱吉でしょうが、間に誰か仲介する人間がいたかもしれませんね。

そのあたりのことが書かれていると思われる論文は、久保貴子「『基煕公記』にみえる公家と武家」(『論集 中近世の史料と方法』 東京堂出版、1991年)だと思います。
私、たしか持っているはずですが、昨日から探していますが、出てきません(泣)。


家格上昇・家格失墜
ばんない
即答ありがとうございます。

山本博文氏の前掲書によると、近衛基熙は徳川家宣(当時「綱豊」)と娘・煕子の婚儀にも乗り気ではなく、断りきれなくなると煕子を密かに門葉の平松時庸の養女に出して家格を下げ、それから嫁に出したそうです。もちろんこの養女の件は幕府には秘密だったようですが。五摂家の他の家が将軍家と縁組みする(させられる?)中、近衛家だけは一種の”純血”を守らなければと言う意志が強かった人のようですね。
ちなみにこの平松時庸というのは島津光久後妻の養父(実の伯父)に当たる人物で、禰寝氏(小松氏)の系譜変更にも影響を与えるなど、島津氏にとっても意外なキーマンだったんじゃないかと思っている人物です。

五摂家当主と大名の娘の結婚となると、当然ながら形式的にも将軍綱吉のお声掛かりというか許可がないと結婚は出来なかったのではないかと思われますが、綱吉と基熙婿・家宣(綱豊)が不仲だったのは有名な話で、その点が引っかかります。もし、近衛家久と島津亀姫の結婚が綱吉の意図であったとするなら、綱吉の真意は近衛家と武家を結婚させることにより家宣(綱豊)外戚・近衛家の家格失墜を狙ったのかも知れません…状況証拠から想像だけでの仮説ですが。

久保氏の本、私も読んでみようと思って図書館のデータベースを検索したのですが、近所の某大学にしか所蔵がないようです(涙)OB・OGじゃないので門前払いされそうです…。

家格の釣り合い
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

少しコメント遅くなってゴメンなさい。

近衛家は徳川将軍家との縁組も渋っていたのなら、島津家とはなおさらですよね。五摂家筆頭の矜持を感じます。

一方、徳川将軍家も摂関家から御台所を迎えるのは次善の策だったらしくて、できれば皇女から迎えたかったようです。
幼少将軍家継の御台所に霊元天皇の皇女八十宮を迎えて婚約までいったのに、家継が早世したのが誤算だったでしょうね。
これが先例になれば、逆に徳川将軍家が摂関家を下に見たでしょうに。それに和宮降嫁も攘夷派からあんなに非難されることもなかったでしょう。

平松時庸、おおっ、意外なところに登場しましたね。
私も禰寝家が小松に名字を変えるのに重要な役割を果たしたのは彼だと思っています。

小松改姓問題を扱った林匡氏の論文はご存じでしょうか?



ばんない
こんばんわ。コメントありがとうございます。

禰寝氏の本姓改姓(建部氏→平氏)+小松氏への改苗字については、先日別の記事で佐多さんが紹介されていた『近世・禰寝文書』で言及されていてその経緯を知りました。
林氏の論文は存じませんでしたので、検索で調べてみました。
これのことでしょうか?
http://ci.nii.ac.jp/naid/40015495053/
…黎明館の報告書は近所の図書館には所蔵がないので、国立国会図書館でコピーしてもらうしかなさそうです(涙)

>家継の御台所に霊元天皇の皇女八十宮を迎えて婚約まで
山本氏の前掲書などによると、その背景にもしっかり近衛基熙が絡んでるんだそうです(爆)


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この記事へのコメント
こんにちは。『南日本新聞』本文によると薩摩藩伏見藩邸の初出は島津光久のころとのことですが、この時に羊羹の発明に貢献したんでしょうかね?(^^;)
http://www.turuyahatiman.co.jp/column/materials/

後、伏見藩邸とは直接関わりないのですが、一つ愚問があります。「元禄15年(1702)、薩摩藩5代藩主吉貴の娘亀姫と近衛家久の縁組」について言及されてますが、これは誰のお声掛かりだったかご存じでしょうか?山本博文氏も『徳川将軍家の結婚』で6代将軍家宣と天英院熙子との結婚の関連で少し触れてられますが、それでは「近衛基熙は近衛家久と島津亀姫の婚儀にも(武家との婚姻は摂家の家格問題に触れるという考えから)乗り気ではなかった」という程度しか触れてられないです。
桐野氏の上記の文ではこの婚儀が島津家の家格上昇のきっかけになったという見解ですので、島津氏側からの強力な働きかけがあったのでしょうか?
2009/02/21(Sat) 12:46 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
将軍綱吉か
ばんないさん、こんにちは。

島津氏の家格上昇をどのようにとらえるのか難しい問題ですね。島津重豪の娘茂姫が徳川家斉の御台所になったのは明らかにその画期といえるかもしれませんが、それは結果論ではないかという気がしております。
二人の縁組は、家斉がまだ一橋家にいたときですから、茂姫は将軍御台所としての入輿ではなく、あくまで御三卿の御簾中ですからね。

また一般には竹姫が島津継豊の継室になったことが大きいのかもしれませんが、これとて、将軍家養女の嫁ぎ先の問題ですから、大大名ならありえることですね。加賀の前田家もそうですし。

となると、島津吉貴の一女亀姫と島津家久の縁組(家久は再婚のようですが)が意外と大きな意味を持っているのかもしれませんね。山本博文氏の指摘のように、近衛家が家格の釣り合いを考えて渋ったというのはよくわかります。摂関家と釣り合う武家は徳川将軍家か御三家・御三卿まででしょう。

で、この縁組、誰のお声がかりかといえば、考えられるのは将軍綱吉でしょうが、間に誰か仲介する人間がいたかもしれませんね。

そのあたりのことが書かれていると思われる論文は、久保貴子「『基煕公記』にみえる公家と武家」(『論集 中近世の史料と方法』 東京堂出版、1991年)だと思います。
私、たしか持っているはずですが、昨日から探していますが、出てきません(泣)。
2009/02/22(Sun) 14:59 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
家格上昇・家格失墜
即答ありがとうございます。

山本博文氏の前掲書によると、近衛基熙は徳川家宣(当時「綱豊」)と娘・煕子の婚儀にも乗り気ではなく、断りきれなくなると煕子を密かに門葉の平松時庸の養女に出して家格を下げ、それから嫁に出したそうです。もちろんこの養女の件は幕府には秘密だったようですが。五摂家の他の家が将軍家と縁組みする(させられる?)中、近衛家だけは一種の”純血”を守らなければと言う意志が強かった人のようですね。
ちなみにこの平松時庸というのは島津光久後妻の養父(実の伯父)に当たる人物で、禰寝氏(小松氏)の系譜変更にも影響を与えるなど、島津氏にとっても意外なキーマンだったんじゃないかと思っている人物です。

五摂家当主と大名の娘の結婚となると、当然ながら形式的にも将軍綱吉のお声掛かりというか許可がないと結婚は出来なかったのではないかと思われますが、綱吉と基熙婿・家宣(綱豊)が不仲だったのは有名な話で、その点が引っかかります。もし、近衛家久と島津亀姫の結婚が綱吉の意図であったとするなら、綱吉の真意は近衛家と武家を結婚させることにより家宣(綱豊)外戚・近衛家の家格失墜を狙ったのかも知れません…状況証拠から想像だけでの仮説ですが。

久保氏の本、私も読んでみようと思って図書館のデータベースを検索したのですが、近所の某大学にしか所蔵がないようです(涙)OB・OGじゃないので門前払いされそうです…。
2009/02/22(Sun) 22:56 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
家格の釣り合い
ばんないさん、こんばんは。

少しコメント遅くなってゴメンなさい。

近衛家は徳川将軍家との縁組も渋っていたのなら、島津家とはなおさらですよね。五摂家筆頭の矜持を感じます。

一方、徳川将軍家も摂関家から御台所を迎えるのは次善の策だったらしくて、できれば皇女から迎えたかったようです。
幼少将軍家継の御台所に霊元天皇の皇女八十宮を迎えて婚約までいったのに、家継が早世したのが誤算だったでしょうね。
これが先例になれば、逆に徳川将軍家が摂関家を下に見たでしょうに。それに和宮降嫁も攘夷派からあんなに非難されることもなかったでしょう。

平松時庸、おおっ、意外なところに登場しましたね。
私も禰寝家が小松に名字を変えるのに重要な役割を果たしたのは彼だと思っています。

小松改姓問題を扱った林匡氏の論文はご存じでしょうか?
2009/02/25(Wed) 18:35 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんわ。コメントありがとうございます。

禰寝氏の本姓改姓(建部氏→平氏)+小松氏への改苗字については、先日別の記事で佐多さんが紹介されていた『近世・禰寝文書』で言及されていてその経緯を知りました。
林氏の論文は存じませんでしたので、検索で調べてみました。
これのことでしょうか?
http://ci.nii.ac.jp/naid/40015495053/
…黎明館の報告書は近所の図書館には所蔵がないので、国立国会図書館でコピーしてもらうしかなさそうです(涙)

>家継の御台所に霊元天皇の皇女八十宮を迎えて婚約まで
山本氏の前掲書などによると、その背景にもしっかり近衛基熙が絡んでるんだそうです(爆)
2009/02/25(Wed) 22:35 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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