歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第98回
―坂本龍馬とお龍を匿う―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回からの続きで、伏見藩邸とゆかりのある人物として、坂本龍馬・お龍夫妻、三吉慎蔵(長府藩士)を取り上げました。
慶応2年(1866)1月23日の有名な寺田屋事件ですね。

紙数の関係で書けなかった点を補足しておきます。
龍馬が伏見奉行所の役人に襲撃されたのち、どのようにして伏見藩邸に収容されたのかを書きましたが、とくに注目すべきは、水路を使ったことです。前回も島津斉彬の側用人山田壮右衛門が大坂から伏見藩邸前に「着船」したと述べました。

伏見藩邸前を流れる運河はかつての伏見城(豊臣期・徳川期)の惣構の堀がそのまま遺ったものです。この堀は現在も水量豊富です。高瀬川や賀茂川ともつながっていませんし、その水源はどこになるのでしょうか。

この堀を使って、大山彦八が負傷した坂本龍馬を救出したわけですが、龍馬が潜伏していた材木小屋はこの堀と面した因州屋敷(鳥取池田家藩邸)の船入り沿いにあったようです。明治期の地図にはこの船入りがちゃんと描かれていますが、現在は埋め立てられたようですね。

一応、材木小屋あたりの写真を載せておきます。
手前の運河は上流(左方)になる伏見藩邸前とつながっています。

材木小屋




この事件を詳しく述べているのは龍馬の警固役だった三吉慎蔵の日記と、お龍の回想録「千里駒後日譚」です。とくにお龍の回想録がリアルかつ具体的で面白いですね。

龍馬が潜伏した材木小屋は露天の置き場か、それとも屋根の付いた小屋かという議論がありました。三吉は「川端の材木貯蔵」と書いており、屋根があったかどうかわかりませんが、「其棚の上」に2人で隠れたとも書いていますから、小屋の中の目立たない場所に隠れていたことを暗示しています。またお龍は2人が「板屋」で一夜を明かしたと書いています。お龍は2人からの伝聞を書いたものですが、「板屋」というのは屋根のある小屋をイメージさせます。
実際、明治期と思われる古写真が残っているようですが、ちゃんとした三角屋根のついた小屋ですね(伊東成郎「寺田屋遭難」 新歴史群像シリーズ『維新創世 坂本龍馬』)。

また、お龍は龍馬が幕吏に放ったピストルは小松帯刀からもらったものだと書いていますが、龍馬の書簡に高杉晋作からもらったと書いていますので、この点はお龍の勘違いだと思います。
もっとも、龍馬はそのピストルを寺田屋に捨てて来ているようです。でも、霧島の塩浸温泉に宿泊していたとき、ピストルで鳥を撃ったと乙女姉さん宛ての手紙に書いていますが、このピストルは誰からもらったものかということになります。これがおそらく小松がピストルをなくした龍馬に護身用として与えたものではないかと思います。お龍はこのピストルを実際に見ているだけに印象に残っていて、とり違えたのでしょう。

次回は99回目です。もうすぐ大台ですね。

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【2009/02/28 12:05】 | さつま人国誌
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濠川の水はどこからくる?
ばんない
現在は琵琶湖疎水から取っているようですね>松山酒造の堀
松山酒造近辺の地図→http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.45.41.4N34.56.3.8&ZM=11
この地図をスクロールしていくと、取水口はこうなります→http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.3.7N34.56.30.5&ZM=11

参考サイトはこちらです→産業技術遺産探訪 http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/biwakososui/sumi/sumi.htm
京伏見ぶろぐ処→http://kytfushimi.exblog.jp/6287973/

明治時代の琵琶湖疎水開通以前にどこから取水していたかは存じません。もっと詳しい方の御回答をお待ちしたいと思います。

有難うございます
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

さっそくのご教示、有難うございます。
現在は琵琶湖疎水が水源なんですね。
私も一応地図で確認してみたのですが、運河(濠川)の最上流の近くに琵琶湖疎水があるのはわかったのですが、つながっていないように見えたのです。
ご教示のあと再度確認してみたら、疎水と運河の接合部分に鉄道か何か別の線が被さっていて、そちらの色で表示してあったので、隠れて見えなかったようです。
疑問が解決して助かりました。

琵琶湖疎水は明治中期くらいに出来たものですから、幕末当時はなかったことになりますね。
となると、運河の水量は今より少なかったのでしょうか?
あるいは涌水など別の水源があったか?

壕川の水
橋場
こんばんは。伏見城の堀の水源については江戸時代の絵図で現在の鑓屋町から東へ620間(1128m)あたりの地点まで水路の痕跡が確認できるそうですから、深草大亀谷の近辺が東端でしょうか。とすると、やはり「伏水」の別名の通り伏見の豊富な湧水が元々の水源だったのではないか、と思います。

伏水
桐野作人
橋場殿下、こんばんは。

詳しい情報、有難うございます。
やはり東の山に水源があるようですね。
伏水はそういう意味でしたか。龍馬もその字を使っていますね。清酒の産地なのもそのせいでしょうね。

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濠川の水はどこからくる?
現在は琵琶湖疎水から取っているようですね>松山酒造の堀
松山酒造近辺の地図→http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.45.41.4N34.56.3.8&ZM=11
この地図をスクロールしていくと、取水口はこうなります→http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.3.7N34.56.30.5&ZM=11

参考サイトはこちらです→産業技術遺産探訪 http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/biwakososui/sumi/sumi.htm
京伏見ぶろぐ処→http://kytfushimi.exblog.jp/6287973/

明治時代の琵琶湖疎水開通以前にどこから取水していたかは存じません。もっと詳しい方の御回答をお待ちしたいと思います。
2009/02/28(Sat) 15:30 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
有難うございます
ばんないさん、こんにちは。

さっそくのご教示、有難うございます。
現在は琵琶湖疎水が水源なんですね。
私も一応地図で確認してみたのですが、運河(濠川)の最上流の近くに琵琶湖疎水があるのはわかったのですが、つながっていないように見えたのです。
ご教示のあと再度確認してみたら、疎水と運河の接合部分に鉄道か何か別の線が被さっていて、そちらの色で表示してあったので、隠れて見えなかったようです。
疑問が解決して助かりました。

琵琶湖疎水は明治中期くらいに出来たものですから、幕末当時はなかったことになりますね。
となると、運河の水量は今より少なかったのでしょうか?
あるいは涌水など別の水源があったか?
2009/03/01(Sun) 10:30 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
壕川の水
こんばんは。伏見城の堀の水源については江戸時代の絵図で現在の鑓屋町から東へ620間(1128m)あたりの地点まで水路の痕跡が確認できるそうですから、深草大亀谷の近辺が東端でしょうか。とすると、やはり「伏水」の別名の通り伏見の豊富な湧水が元々の水源だったのではないか、と思います。
2009/03/01(Sun) 22:06 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
伏水
橋場殿下、こんばんは。

詳しい情報、有難うございます。
やはり東の山に水源があるようですね。
伏水はそういう意味でしたか。龍馬もその字を使っていますね。清酒の産地なのもそのせいでしょうね。
2009/03/03(Tue) 00:47 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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