歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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最後の戦い

別冊歴史読本編集部から表題の掲載誌が送られてきた。

表題のとおり、戦国武将40人くらいの最後の戦いをまとめたもの。
今回、私が執筆したのは「島津義弘 一撃必殺の作戦を秘めて決戦場に臨んだ勇将」というタイトル。

いうまでもなく、島津義弘の関ヶ原の退き口についてである。
分量の関係で、退き口ルートなど詳しく触れられなかったが、拙稿にしては比較的読みやすく仕上がっているのではないかと思っている。

目新しい点といえば、西軍とくに石田三成勢の敗北が通説よりかなり早かったのではないかということを、島津家の史料で明らかにしたことであろうか。

同誌には、友人の河合秀郎氏や和田裕弘氏も執筆している。ともに力作なので、興味がある方はぜひ手にとってみて下さい。

別冊歴史読本56
戦国武将 最後の戦い
新人物往来社
ISBN:978-4-404-03356-7
発行年月 2007年01月
価格 1,890円(税込)

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【2007/01/12 00:28】 | 戦国島津
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板倉丈浩
こんにちは。
ご紹介の本、早速購入いたしました。

>西軍とくに石田三成勢の敗北が通説よりかなり早かったのではないか

石田勢については、私もそのような印象を持っておりました。
といいますのも、西軍主力が小早川等に背後から攻撃されて総崩れになった(『慶長年中卜斎記』)ことから考えると、敗走した方向が小西行長や宇喜多秀家は東北なのに、石田三成だけは西北ですから、三成は行長や秀家に比べてかなり早期に戦場を離脱したのではないかと思われるからです。
ただ、西軍主力の総崩れの時刻は、島津家関係の記録である『関原御合戦進退秘訣』でも未の上刻(午後2時)とされており、これは通説通りでいいと思います。

また、島津勢について予備兵力だったのではないかという指摘は、東軍右翼部隊との交戦の形跡が全くないことを疑問に思っていましたので、卓見だと思いました。
小西勢についても同じく予備兵力だった可能性があると思うのですが、どうでしょうか。

それから、有名な敵中突破については、島津勢と対戦したのが福島・小早川・井伊・本多・松平といずれも東軍左翼部隊であったことを考えると、後方にいた島津勢が崩壊しかかった自軍右翼に加勢して東軍左翼と交戦していたのであり、敗軍に伴い戦場南方で孤立したため、南宮山の味方と合流しようと図った、とするのが自然なように感じます。
関ヶ原は狭い盆地なので、あんなところで数万の兵が充満しているところを中央突破したという通説は、どうしても信じられないんですよね・・・。

西軍敗北の実態?
桐野
板倉丈浩さん

西軍のなかで、石田勢の敗走が一番早かったのではないかとのご意見、勉強になりました。逃げた方角の違いからなんですね。ただ、石田勢が西北に逃げたというのは何か史料で確認できるのでしょうか? おそらく北国脇往還沿いということですよね。史料の有無はともかくとして、一番逃げやすいのはたしかですが。

小西行長勢も二番備えだった可能性はあると思います。どういう戦い方をしたのか史料にほとんど見えないのは、おそらくほとんど戦っていないからではないかと思っています。

西軍主力の総崩れの時刻は通説どおりでいいとのことですが、その場合の主力とは宇喜多勢を指すのでしょうか?
先に石田勢が崩れ、そののち宇喜多勢が崩れたと……。
薩摩側の参戦将士の書上類もその順で記してありますね。

島津勢の敵中突破の方法ですが、多分に幸運もあったのではないかと思います。
東軍諸勢が石田・宇喜多の両勢を標的にして追撃に移ったため、島津勢は無視される形になったのでは。薩摩側の史料にそのような記述があります。
東軍先手諸勢が敗走する石田・宇喜多勢を追いかけたために、東軍の先手諸勢と家康本隊、旗本勢との間に一時的に間隙が生じて、その隙を衝いて逃げたのではないかとも思えます。
もっとも、薩摩側の史料にも「敵方より馬を七百計両度入れ来たり候、二度め之戦ニ大乱に罷り成り候」と、かなり具体的に敵との交戦を記したものもあります。
おそらく伊勢街道にたどり着くまでに、島津勢の相当部分の戦力が東軍の壁を突破するために消耗したのではないかと思います。




板倉丈浩
板倉です。レスありがとうございます。

>ただ、石田勢が西北に逃げたというのは何か史料で確認できるのでしょうか? おそらく北国脇往還沿いということですよね。

三成が西北、北国街道沿いに敗走したことは、参謀本部編纂『日本戦史・関原役』、今井林太郎著『石田三成』、二木謙一著『関ヶ原合戦』など諸書に記されているのですが、典拠は書いてありませんね。
ただ、三成の潜伏先は木之本町大字古橋で北国街道からそんなに離れていませんから、だいたい妥当かなと思います。

>先に石田勢が崩れ、そののち宇喜多勢が崩れたと……。

そうですね。秀家・行長は三成よりも頑張ったので街道沿いに逃げられなかったんじゃないかと。

>島津勢の敵中突破の方法ですが、多分に幸運もあったのではないかと思います。

なるほど。
たまたま伊勢路方面の敵が手薄になったタイミングをうまく捉えたということなんでしょうか・・・。

>もっとも、薩摩側の史料にも「敵方より馬を七百計両度入れ来たり候、二度め之戦ニ大乱に罷り成り候」と、かなり具体的に敵との交戦を記したものもあります。

島津関係の史料をいろいろ見ていて気になったのは、突撃というよりひたすら防戦した記述ばかりなんで、本当は単なる退却戦だったのではないかなあという疑いがどうしても捨てきれません。
ご紹介していただいた史料も「敵襲に対して防戦した」という記述ですよね・・・。

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コメント
この記事へのコメント
こんにちは。
ご紹介の本、早速購入いたしました。

>西軍とくに石田三成勢の敗北が通説よりかなり早かったのではないか

石田勢については、私もそのような印象を持っておりました。
といいますのも、西軍主力が小早川等に背後から攻撃されて総崩れになった(『慶長年中卜斎記』)ことから考えると、敗走した方向が小西行長や宇喜多秀家は東北なのに、石田三成だけは西北ですから、三成は行長や秀家に比べてかなり早期に戦場を離脱したのではないかと思われるからです。
ただ、西軍主力の総崩れの時刻は、島津家関係の記録である『関原御合戦進退秘訣』でも未の上刻(午後2時)とされており、これは通説通りでいいと思います。

また、島津勢について予備兵力だったのではないかという指摘は、東軍右翼部隊との交戦の形跡が全くないことを疑問に思っていましたので、卓見だと思いました。
小西勢についても同じく予備兵力だった可能性があると思うのですが、どうでしょうか。

それから、有名な敵中突破については、島津勢と対戦したのが福島・小早川・井伊・本多・松平といずれも東軍左翼部隊であったことを考えると、後方にいた島津勢が崩壊しかかった自軍右翼に加勢して東軍左翼と交戦していたのであり、敗軍に伴い戦場南方で孤立したため、南宮山の味方と合流しようと図った、とするのが自然なように感じます。
関ヶ原は狭い盆地なので、あんなところで数万の兵が充満しているところを中央突破したという通説は、どうしても信じられないんですよね・・・。
2007/01/14(Sun) 20:08 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
西軍敗北の実態?
板倉丈浩さん

西軍のなかで、石田勢の敗走が一番早かったのではないかとのご意見、勉強になりました。逃げた方角の違いからなんですね。ただ、石田勢が西北に逃げたというのは何か史料で確認できるのでしょうか? おそらく北国脇往還沿いということですよね。史料の有無はともかくとして、一番逃げやすいのはたしかですが。

小西行長勢も二番備えだった可能性はあると思います。どういう戦い方をしたのか史料にほとんど見えないのは、おそらくほとんど戦っていないからではないかと思っています。

西軍主力の総崩れの時刻は通説どおりでいいとのことですが、その場合の主力とは宇喜多勢を指すのでしょうか?
先に石田勢が崩れ、そののち宇喜多勢が崩れたと……。
薩摩側の参戦将士の書上類もその順で記してありますね。

島津勢の敵中突破の方法ですが、多分に幸運もあったのではないかと思います。
東軍諸勢が石田・宇喜多の両勢を標的にして追撃に移ったため、島津勢は無視される形になったのでは。薩摩側の史料にそのような記述があります。
東軍先手諸勢が敗走する石田・宇喜多勢を追いかけたために、東軍の先手諸勢と家康本隊、旗本勢との間に一時的に間隙が生じて、その隙を衝いて逃げたのではないかとも思えます。
もっとも、薩摩側の史料にも「敵方より馬を七百計両度入れ来たり候、二度め之戦ニ大乱に罷り成り候」と、かなり具体的に敵との交戦を記したものもあります。
おそらく伊勢街道にたどり着くまでに、島津勢の相当部分の戦力が東軍の壁を突破するために消耗したのではないかと思います。

2007/01/15(Mon) 09:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
板倉です。レスありがとうございます。

>ただ、石田勢が西北に逃げたというのは何か史料で確認できるのでしょうか? おそらく北国脇往還沿いということですよね。

三成が西北、北国街道沿いに敗走したことは、参謀本部編纂『日本戦史・関原役』、今井林太郎著『石田三成』、二木謙一著『関ヶ原合戦』など諸書に記されているのですが、典拠は書いてありませんね。
ただ、三成の潜伏先は木之本町大字古橋で北国街道からそんなに離れていませんから、だいたい妥当かなと思います。

>先に石田勢が崩れ、そののち宇喜多勢が崩れたと……。

そうですね。秀家・行長は三成よりも頑張ったので街道沿いに逃げられなかったんじゃないかと。

>島津勢の敵中突破の方法ですが、多分に幸運もあったのではないかと思います。

なるほど。
たまたま伊勢路方面の敵が手薄になったタイミングをうまく捉えたということなんでしょうか・・・。

>もっとも、薩摩側の史料にも「敵方より馬を七百計両度入れ来たり候、二度め之戦ニ大乱に罷り成り候」と、かなり具体的に敵との交戦を記したものもあります。

島津関係の史料をいろいろ見ていて気になったのは、突撃というよりひたすら防戦した記述ばかりなんで、本当は単なる退却戦だったのではないかなあという疑いがどうしても捨てきれません。
ご紹介していただいた史料も「敵襲に対して防戦した」という記述ですよね・・・。
2007/01/16(Tue) 07:14 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
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