歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第100回
―異文化に好奇心あふれ―

奄美・鹿児島から無事に帰宅しました。

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回で連載も100回の大台に乗りました。
我ながら、よく続いていると思います。
毎回、青息吐息なんですけどね。
ネタはたくさんあります。でも、写真がなかったり、少し史料を集めたり勉強してからでないと書けないのが多いのも実情。
最近は幕末史に偏っているので、他の時代もやりたいと思っています。
来月から新年度ですし、紙面刷新もあるそうなので、幕末史ではない別のテーマをやりたいと思っています。それに向けての奄美・鹿児島調査でもありました。

さて、今回は慶応元年(1865)の薩摩藩英国留学生の一人、町田清次郎(のち財部実行)の回顧談から、面白そうなエピソードを集めて紹介しようという趣旨です。
今回の目玉は、五代友厚の大変な勘違いと、英国留学生がエジプトのピラミッドを見学したとされる一件です。

五代は薩摩藩内外で国際通、財政通として知られていました。英国留学生派遣も彼の提案によるものです。しかし、国際通のはずの五代がやらかした、とんでもない失敗談には笑ってしまいます。

もうひとつのピラミッド見学の件ですが、これまで他の留学生の渡航日記には書かれていなかった情報です。清次郎の回顧談が留学から50年以上たってから語られたものですから、断定するには躊躇を覚えます。もっとも、連載には事実のように書いてしまいましたが……。
清次郎だけでなく、他の留学生の渡航日記を含めて、ピラミッド付近を通過しているのは間違いないと思います。ですから、見学した可能性はあるともいえます。彼らは途中、多くの史跡を見ているはずですから、ピラミッドもそのうちのワンノブゼムと思ったから、あえて日記に書かなかったともいえます。

一方、世界遺産たるピラミッドを実際に見学したら、強い印象を受けるはずで、複数ある渡航日記のどれかに書かれてもおかしくないはずという見方もあるでしょうね。
さて、裏付けとなる史料があればよいのですが。いずれにせよ、一行がピラミッドを見学していたとしたら、非常に重要な情報です。

なお、町田家で英国使節・同留学生になったのは、久成・申四郎・清次郎の3人ということになっていますが、じつは三男猛彦(大介か)も選抜されていた可能性があります。彼は串木野羽島で渡航船を待っている間に精神に異常を来し、変死したとされています。
ところが、清次郎の回顧談には猛彦と思われる人物が病気になって留学生を免ぜられたと書かれています。
実兄のことですから、清次郎の回顧談はかなり信頼できるのではないかと思っていますが、猛彦がどうなったのか、よくわかりません。
このこともいったん原稿に書いたのですが、紙数の関係で割愛しました。

次回は、清次郎のフランスから帰国までの軌跡を書く予定です。

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【2009/03/14 17:32】 | さつま人国誌
トラックバック(1) |

拝読しました。
NAO4@吟遊詩人
「さつま人国誌」いつも楽しく拝読させていただいております。

>アデンから陸海路で地中海をめざした。
>一行はナイル川を船で下ってカイロに着いたが

アデンはアラビア半島のイエメンにあり、そこに上陸していながら、それが何故ナイルの上流に現れ、カイロまで下るのか、なかなか、この旅路のイメージが一瞬湧かないのですが、

恐らく、アデンに上陸した後、一度アラビア半島からエジプト側に紅海を船で横断するんでしょうね。
そのあと、陸路を紅海に沿って北上するのではなくて、少し内陸に入り込み、ナイル川をカイロまで下る。
そのように理解しました。


>伊藤博文、井上馨は藩命で先に帰国

何しろ、自分の知識が「大河ドラマ(この場合、「花神」だったと思う。)」をベースにしているので、この点に違和感がありました。ドラマでは藩命ではなく、四国艦隊との戦争に突入した(しそうであったのか?)長州の情報を聞いて、自主的に急ぎ戻ったのが、伊藤・井上で、留学先で技術を学ぶ方を優先したのが、残った3人であったと理解しておりました。
これが、明治になってからの運命を分けた(政界で重きをなした伊藤・井上の成功譚)とも解説していたように記憶しています。(本当は、藩命に従った2人と、従わずに残った3人だったのかもしれません。)

ピラミッド
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

私の書き方が悪く、わかりにくかったり、不正確なところもあったようです。

まず、アデンから海路でスエズまで行き、そこから鉄道でカイロに行ったというのが正しいルートのようです。畠山義成の日記にはそうありました。

したがって、町田清次郎がピラミッドを見たというのは、カイロに到着してから観光に出かけたということになりますが、他の渡航日記には出てこないですから、真偽のほどはよくわかりません。

取り急ぎ、追記と訂正まで。

わざわざ、お答えいただき、ありがとうございます。
NAO4@吟遊詩人
実は、先のコメントは、全く根拠無く想像したわけではなく、私が若い時分エジプトを旅行した際、欧州からの旅行者から、ナイル上流のルクソールから紅海に出て、ボロ舟で紅海をアラビア半島まで渡ったという話を聞いたことを思い出しまして、想像いたしました。今では観光客は殆ど使わない通商ルートはあるようです。

ピラミッドのあるギザはカイロ郊外にあり、今では、カイロ市街からタクシーで容易く行けます。

>カイロに到着してから観光に出かけたということになりますが
というお話は、納得できるのではないかと思います。(ただ、明治以前でしたら、宿はギザに取りそうですが。)
大変細かいお話お付き合いいただき、ありがとうございます。

「久成」の読みは?
雪見月
桐野さん、はじめまして(?)。鹿児島在住の雪見月といいます。
いつも月曜日の「さつま人国誌」を楽しみにしていて、昨年3月にまとめられたご著書も購入しました。また、記事は切り抜いてファイルに保存し、何度も読み返したりしています。こちらのブログも時々読ませていただいています。

7月5日(月)の南日本新聞で、小松帯刀から養子の町田申四郎に当てた手紙のことなどが話題になっていたので(『さつま人国誌』の隣の記事ですが)、桐野さんの「町田清次郎の回顧談(上)/No.100」を思い出し読み返したところ、「町田久成(ひさすみ)」とあります。以前に読んだ時も気になっていたのですが、忘れたまま「ひさなり」と読んでいました。
つきましては、是非正しい読みをお教えいただきたいとコメントさせて頂きました。

私の曾祖父は、同じ薩摩藩英国留学生の「名越時成(名越平馬)」の弟なのですが、二人の上に姉が二人居り、下の姉が一時、久成さんの妻だったようです(同じ名越左源太の子孫の方が調べ、除籍謄本にて確認済みです)。その後、明治17(1884)年頃に戸籍が元の名越家に戻ったようですが、一時は曾祖父にとって義理の兄だった人なので、名前の読みを把握しておきたいという思いもあります。
出来ましたらこの読みのもとになった資料などもお教えいただければ幸いです。
長々と失礼致しました。

久成の読み
桐野
雪見月さん、こんにちは。

拙著や拙稿をお読みいただき、有難うございます。

お尋ねの件ですが、私の備忘に「ひさすみ」と書いてありますが、迂闊にも出典を明記しておりません(苦笑)。
たしか何かの著作に書かれていたので、メモした覚えはあるのですが……。

門田明「町田久成略伝」
関秀夫『博物館の誕生』岩波新書
その他、人名辞典の類を調べてみましたが、すべて「ひさなり」になっているか、ルビが付いていないものばかりでした。

一体何を見たんでしょうね?
じつは、私も気になっていて、内々に探していたのですが、探しきれないうちに、雪見月さんからご質問を受けてしまった次第です。

余談ですが、5月の甲東祭に、町田久成のご子孫(ご当主とご子息)が参列されていました。絶好の機会なので、このことをお尋ねしようと思っていましたが、他の方と話しているうちに、お帰りになってしまったようで、痛恨の逸機でした。こういう機会はそうそうあるものではありませんのに(泣)。
なお、ご子息のほうは久成ばりの超イケメンでした。

お答えになっておらず、すみません。
もう少し時間を下さいませ。


楽しいエピソード♪
雪見月
早速お答えくださり、ありがとうございました。
ちょっと厚かましい質問かとも思いましたが
詳しいご回答、嬉しい限りです!

私も、他の書物等で見たのでは‥‥と思いいくつか探してみたのですが、やはり見当たりませんでした。。

また何かお分かりになりましたら、こちらででもお教えくださいませ。

5月の甲東祭でのエピソード、楽しく読ませていただきました。
イケメンのご子息ですか~♪一目拝顔したいものです(笑)

そうそう、先日の新聞に桐野さんのお写真が♪
素敵な方ですね!

それでは、いずれまた。

まちだ”ひさすみ”の根拠
ばんない
ご無沙汰しております

町田久成の読みですが、どうも根拠となる史料が存在しているようです。おそらく桐野さんが御覧になったのもそれではないでしょうか。
コメントしようとしたのですがうまくできなかったので、拙ブログでの記事をトラックバックするという形で詳細を書いております。
では失礼させて頂きます。

禁止キーワード?
桐野
ばんないさん、こんにちは。

ご紹介の記事はだいぶ前に拝読しておりました。
出典はわかりましたが、自分では確認できていないので、何ともいえない状態です。

ところで、「禁止キーワード」があったとのこと。私は何もそんな設定はしてませんけど、ブログの主催者のコード基準でもあるんでしょうかね? 事情がわかりませんが、申しわけありません。

久成の読み
かじやちょう
かじやちょうです。

一新朋秀さんという研究者のReaD情報です。
http://read.tokyo.jst.go.jp/public/cs_ksh_012EventAction.do?action4=event&lang_act4=E&judge_act4=2&code_act4=1000174146

The Idea of a Museum in the Life of Machida Hisasumi -One Aspect in the Formative Stages of National Museums in Japan(1)-
Annual Report of the school of Museology (Bulletin of Universities and Institutes ,1986 ) 18,23-42 / ,

The Idea of a Museum in the Life of Machida Hisasumi -One Aspect in the Formative Stages of National Museums in Japan(2)-
Annual Report of the school of Museology (Bulletin of Universities and Institutes ,1987 ) 19,7-26 / ,

この2つの論文ではひさなりではなく、ひさすみになっています。
現役の研究者ですので、出典は押さえていると思います。ご参考までに。


御礼
桐野
かじやちょうさん、お久しぶりです。

おおっ、貴重な情報提供有難うございます。
たしかにスペルが「Machida Hisasumi」になっていますね。
一新朋秀さんの論文がいくつかあるようですので、探してみたいと思います。



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コメント
この記事へのコメント
拝読しました。
「さつま人国誌」いつも楽しく拝読させていただいております。

>アデンから陸海路で地中海をめざした。
>一行はナイル川を船で下ってカイロに着いたが

アデンはアラビア半島のイエメンにあり、そこに上陸していながら、それが何故ナイルの上流に現れ、カイロまで下るのか、なかなか、この旅路のイメージが一瞬湧かないのですが、

恐らく、アデンに上陸した後、一度アラビア半島からエジプト側に紅海を船で横断するんでしょうね。
そのあと、陸路を紅海に沿って北上するのではなくて、少し内陸に入り込み、ナイル川をカイロまで下る。
そのように理解しました。


>伊藤博文、井上馨は藩命で先に帰国

何しろ、自分の知識が「大河ドラマ(この場合、「花神」だったと思う。)」をベースにしているので、この点に違和感がありました。ドラマでは藩命ではなく、四国艦隊との戦争に突入した(しそうであったのか?)長州の情報を聞いて、自主的に急ぎ戻ったのが、伊藤・井上で、留学先で技術を学ぶ方を優先したのが、残った3人であったと理解しておりました。
これが、明治になってからの運命を分けた(政界で重きをなした伊藤・井上の成功譚)とも解説していたように記憶しています。(本当は、藩命に従った2人と、従わずに残った3人だったのかもしれません。)
2009/03/17(Tue) 03:47 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
ピラミッド
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

私の書き方が悪く、わかりにくかったり、不正確なところもあったようです。

まず、アデンから海路でスエズまで行き、そこから鉄道でカイロに行ったというのが正しいルートのようです。畠山義成の日記にはそうありました。

したがって、町田清次郎がピラミッドを見たというのは、カイロに到着してから観光に出かけたということになりますが、他の渡航日記には出てこないですから、真偽のほどはよくわかりません。

取り急ぎ、追記と訂正まで。
2009/03/19(Thu) 18:13 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
わざわざ、お答えいただき、ありがとうございます。
実は、先のコメントは、全く根拠無く想像したわけではなく、私が若い時分エジプトを旅行した際、欧州からの旅行者から、ナイル上流のルクソールから紅海に出て、ボロ舟で紅海をアラビア半島まで渡ったという話を聞いたことを思い出しまして、想像いたしました。今では観光客は殆ど使わない通商ルートはあるようです。

ピラミッドのあるギザはカイロ郊外にあり、今では、カイロ市街からタクシーで容易く行けます。

>カイロに到着してから観光に出かけたということになりますが
というお話は、納得できるのではないかと思います。(ただ、明治以前でしたら、宿はギザに取りそうですが。)
大変細かいお話お付き合いいただき、ありがとうございます。
2009/03/20(Fri) 06:12 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
「久成」の読みは?
桐野さん、はじめまして(?)。鹿児島在住の雪見月といいます。
いつも月曜日の「さつま人国誌」を楽しみにしていて、昨年3月にまとめられたご著書も購入しました。また、記事は切り抜いてファイルに保存し、何度も読み返したりしています。こちらのブログも時々読ませていただいています。

7月5日(月)の南日本新聞で、小松帯刀から養子の町田申四郎に当てた手紙のことなどが話題になっていたので(『さつま人国誌』の隣の記事ですが)、桐野さんの「町田清次郎の回顧談(上)/No.100」を思い出し読み返したところ、「町田久成(ひさすみ)」とあります。以前に読んだ時も気になっていたのですが、忘れたまま「ひさなり」と読んでいました。
つきましては、是非正しい読みをお教えいただきたいとコメントさせて頂きました。

私の曾祖父は、同じ薩摩藩英国留学生の「名越時成(名越平馬)」の弟なのですが、二人の上に姉が二人居り、下の姉が一時、久成さんの妻だったようです(同じ名越左源太の子孫の方が調べ、除籍謄本にて確認済みです)。その後、明治17(1884)年頃に戸籍が元の名越家に戻ったようですが、一時は曾祖父にとって義理の兄だった人なので、名前の読みを把握しておきたいという思いもあります。
出来ましたらこの読みのもとになった資料などもお教えいただければ幸いです。
長々と失礼致しました。
2010/07/12(Mon) 01:19 | URL  | 雪見月 #-[ 編集]
久成の読み
雪見月さん、こんにちは。

拙著や拙稿をお読みいただき、有難うございます。

お尋ねの件ですが、私の備忘に「ひさすみ」と書いてありますが、迂闊にも出典を明記しておりません(苦笑)。
たしか何かの著作に書かれていたので、メモした覚えはあるのですが……。

門田明「町田久成略伝」
関秀夫『博物館の誕生』岩波新書
その他、人名辞典の類を調べてみましたが、すべて「ひさなり」になっているか、ルビが付いていないものばかりでした。

一体何を見たんでしょうね?
じつは、私も気になっていて、内々に探していたのですが、探しきれないうちに、雪見月さんからご質問を受けてしまった次第です。

余談ですが、5月の甲東祭に、町田久成のご子孫(ご当主とご子息)が参列されていました。絶好の機会なので、このことをお尋ねしようと思っていましたが、他の方と話しているうちに、お帰りになってしまったようで、痛恨の逸機でした。こういう機会はそうそうあるものではありませんのに(泣)。
なお、ご子息のほうは久成ばりの超イケメンでした。

お答えになっておらず、すみません。
もう少し時間を下さいませ。
2010/07/12(Mon) 12:52 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
楽しいエピソード♪
早速お答えくださり、ありがとうございました。
ちょっと厚かましい質問かとも思いましたが
詳しいご回答、嬉しい限りです!

私も、他の書物等で見たのでは‥‥と思いいくつか探してみたのですが、やはり見当たりませんでした。。

また何かお分かりになりましたら、こちらででもお教えくださいませ。

5月の甲東祭でのエピソード、楽しく読ませていただきました。
イケメンのご子息ですか~♪一目拝顔したいものです(笑)

そうそう、先日の新聞に桐野さんのお写真が♪
素敵な方ですね!

それでは、いずれまた。
2010/07/15(Thu) 02:01 | URL  | 雪見月 #-[ 編集]
まちだ”ひさすみ”の根拠
ご無沙汰しております

町田久成の読みですが、どうも根拠となる史料が存在しているようです。おそらく桐野さんが御覧になったのもそれではないでしょうか。
コメントしようとしたのですがうまくできなかったので、拙ブログでの記事をトラックバックするという形で詳細を書いております。
では失礼させて頂きます。
2010/08/18(Wed) 23:50 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
禁止キーワード?
ばんないさん、こんにちは。

ご紹介の記事はだいぶ前に拝読しておりました。
出典はわかりましたが、自分では確認できていないので、何ともいえない状態です。

ところで、「禁止キーワード」があったとのこと。私は何もそんな設定はしてませんけど、ブログの主催者のコード基準でもあるんでしょうかね? 事情がわかりませんが、申しわけありません。
2010/08/19(Thu) 12:21 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
久成の読み
かじやちょうです。

一新朋秀さんという研究者のReaD情報です。
http://read.tokyo.jst.go.jp/public/cs_ksh_012EventAction.do?action4=event&lang_act4=E&judge_act4=2&code_act4=1000174146

The Idea of a Museum in the Life of Machida Hisasumi -One Aspect in the Formative Stages of National Museums in Japan(1)-
Annual Report of the school of Museology (Bulletin of Universities and Institutes ,1986 ) 18,23-42 / ,

The Idea of a Museum in the Life of Machida Hisasumi -One Aspect in the Formative Stages of National Museums in Japan(2)-
Annual Report of the school of Museology (Bulletin of Universities and Institutes ,1987 ) 19,7-26 / ,

この2つの論文ではひさなりではなく、ひさすみになっています。
現役の研究者ですので、出典は押さえていると思います。ご参考までに。
2010/08/19(Thu) 22:41 | URL  | かじやちょう #-[ 編集]
御礼
かじやちょうさん、お久しぶりです。

おおっ、貴重な情報提供有難うございます。
たしかにスペルが「Machida Hisasumi」になっていますね。
一新朋秀さんの論文がいくつかあるようですので、探してみたいと思います。

2010/08/20(Fri) 13:52 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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町田久成は博物館史に興味のある人なら知っていると思うが、東京国立博物館の設立者の一人である。 しかし、幕末の鹿児島藩(薩摩藩)に興味のある人なら薩摩藩英国留学生ご一行様の引率者として知っている人が多いのではないだろうか。ちなみに町田久成はこの当時家老で...
2010/08/18(Wed) 23:47:06 |  しいまんづ雑記旧録
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