歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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奄美在島中、一度はレポートできましたが、毎夜の宴会のため、その後は更新できずにおりました。
少し落ち着いたので、パート2を書きます。

3月11日(水)天晴

奄美本島と南接する加計呂麻島まで南下したことは前回書きました。
加計呂麻から再び本島に戻り、瀬戸内町の郷土館を訪ねる。
町内にある久慈の白糖工場跡を見学したかったので、学芸員さんからその場所と現況などを教えてもらった。ついでに、館内所蔵の耐火レンガを撮影させてもらった。感謝。

薩摩藩は幕末の慶応年間、奄美本島内に4カ所の白糖工場を建設した。黒糖より白糖のほうが市場価格が高かったからである。そのために、薩摩藩は英国から技師2人を招いて、2年ほどかけて建設した。
私はてっきり1カ所だけだと思い込んでいたが、前日、郷土史家の弓削さんから4カ所あることを教えてもらった。それは、

1,名瀬金久
2,宇検須古
3,瀬戸内久慈
4,笠利瀬留

今回、このうち、2を除く3カ所を見学することができた。

これから行こうとするのは3である。本島南端のくねるような山道を車で約40分走った。
途中、また戦跡があった。陸軍の弾薬庫跡である。
崖に3つの深い坑道が掘られている。内部はコンクリートできれいに固められている。トンネル同士、横で連結されている。敗戦後、膨大な弾薬が海に廃棄されたという。
陸軍弾薬庫入り口
弾薬庫の案内板
入り口
弾薬庫入口
弾薬庫内部
弾薬庫内部




久慈の工場跡はタンカン畑になっていた。
レンガが転がっていると聞いていたが、ほとんど見つけることができなかった。場所を間違えたかと思って近所の方に場所を確認すると間違いなかった。そのおばさんが東京から来たと知って、タンカンをたくさんくれた。
タンカンは皮が武骨で堅そうに見えるが、それほどでもない。食べると温州ミカンよりオレンジに近い甘さで、とてもおいしかった。帰ってからホテルでも食べたが、食べきれず、鹿児島まで持ち帰った。
久慈は私の弟家族が教員として赴任してきた場所だったことをあとで知った。
タンカン
あちこちにタンカンが稔っていた






工場跡といっても、その遺物はほとんどレンガだけである。レンガも2種類あって、耐火レンガとそうではないふつうのレンガ。耐火レンガはキチッとした方形で、いかにも堅そうである。色は白っぽい。
2種類のスタンプが押してある。

STEPHENSON
COWEN

どちらも英国のレンガ工場のメーカーらしい。
耐火レンガ
cowen






3月12日(木)天晴

早朝、ホテルで南海日日新聞の編集局長Oさんと記者のHさんと合流。
Oさんは私の大学の先輩で、昨秋、鹿児島での講演会で初めてお会いした。
Hさんは、今年が島津軍の琉球侵攻400年を記念した琉球新報との合同企画で健筆を振るっている。

今回、島津軍が最初に奄美に上陸した笠利の津代湊を案内してもらうことになった。
車は北上し、まず龍郷に行く。ここは西郷や愛加那ゆかりの地であるだけでなく、白糖工場が建てられた場所でもある。
龍郷町教育委員会のMさんに公民館に保管してあるレンガを見せてもらった。撮影まで許可していただき、感謝。
白糖工場は龍郷湾の内奧、瀬留にある。
工場跡を見学したら、近くに瀬留教会があった。建物はもう100年の歴史があるという。宗派はカトリックの聖フランシスコ修道会。日本の近世初期、イエズス会と対抗して熱心に布教活動をした宗派だ。
明治末年に赴任してきたブイジュ師の胸像があった。こちらでは有名な牧師らしい。
瀬留白糖
ブイジュ師





奄美は概してキリスト教徒が多く、当然教会も多い。車で走っていて、目につくのは病院や介護施設とともに教会だった。

Hさんの案内で、笠利まで行く。
島津軍が最初に上陸した地点といわれる津代湊をめざす。
笠利湾の内奧のひとつで、クルマエビの養殖場の前から少し山に登る。ハブが冬眠から醒める時期だとのことで、枯れ枝を杖代わりにして、雑草を払いながら進む。
そういえば、前日、安脚場の海軍哨戒基地の弾薬庫跡で、思わず山城攻めの感覚で、背後の籔の茂みに隠れた穴に入ってしまった。
あとで、同行した南日本新聞のHさんに「勇気があるなと感心しながら見ていた」と言われて、思わず冷や汗。ハブのいる奄美だということをすっかり忘れていました。

山頂に辿り着く。ソテツが植わっているなか、線香を供える器物が置いてあった。これが津代史跡の目印らしい。
笠利湾が一望できる。
慶長14年(1609)3月、鹿児島山川港を発した3000人の島津軍は折からの暴風雨のため、四散してしまい、奄美の各所に漂着したという。この津代には総大将だった樺山久高率いる一手が辿り着き、いくさになったといわれる。
400年前にそのような出来事があったとは思えない風光明媚な場所だった。
津代
津代の山上から笠利湾を望む



その後、同行した調所一郎氏(調所広郷子孫)の希望で、サトウキビ畑や製糖工場を見学することになった。先祖笑左衛門広郷の天保の改革は奄美の黒糖抜きには語れない。調所さんは先祖の正負の両面を見たいと希望していた。

奄美で一番大きい富国製糖に行く。
ひっきりなしにトラックがサトウキビを運んでくる。
サトウキビも手刈と機械刈があるそうで、手刈だと長いサトウキビ、機械だと短い。
近くの畑でハーベスター(刈り取り機)が刈り取り作業をやっていた。
機械のおかげで、農作業がだいぶ楽になったという。もっとも、高価な機械なので、農家の希望を受けて請け負いでやるそうだ。
少しサトウキビをいただき、食してみる。
独得の甘味がじわっと口の中に広がる。子どもの頃、私もよく食べたので懐かしい。調所さんは都会育ちのせいか、私が食べ方を教えた。
サトウキビ手刈
手刈したサトウキビ
ハーベスター
ハーベスターによる収穫
サトウキビ袋
ハーベスターで収穫したサトウキビ袋


OさんとHさんにとてもきれいな海だと聞かされ、本島東海岸のあやまる岬を望む土盛海岸(ともり~)に案内してもらう。浜に行ってみると、一面にコバルトブルーの海が広がっていた。
左手にあやまる岬が見える。語源がよくわからないが、綾に包まれるとか、文字どおり謝るという意味もあるのではという話。
TVドラマや映画のロケ地としてもよく使われるそうである。奄美の海で一番きれいなのはここではなかろうかと思った。
あやまる岬
コバルトブルーの土盛海岸とあやまる岬(左手)




昼食は笠利の鶏飯店「みなとや」で食べる。
この店には現・天皇・皇后もかつて来られたそうで、お気に召したらしく、皇后がおかわりをしたという「伝説」があるそうな。
鶏飯は、近世奄美が島津家の直轄地になってから、赴任してくるヤマト(本土)の役人をもてなすために生まれた接待料理。今では奄美を代表する郷土料理である。私もこれが食べたくて、奄美に来たようなもの。
軽くよそった御飯の上に、鶏肉、炒り玉子、わけぎ、しいたけ、みかんの皮らしきもの、パインの漬物風、海苔などをのせ、鶏骨のだし汁をたっぷりかけていただく。
喉ごしがよく、三杯もおかわりしてしまった。
鶏飯





昼食後、近くの宇宿貝塚史跡公園を見学。ここで、お世話になったOさんとHさんと別れる。お忙しいなか、半日以上付き合っていただき、感謝。
戦前に発見された縄文中期から中世までの複合遺跡で、国指定史跡としても知られる。
難産で亡くなった母子の埋葬状態が復元されていたが、母親の両足の間に嬰児を置いて合葬してあったようだ。

飛行機の出発時間も迫っていたので、奄美本島の最北端、笠利崎まで行ってみようということになる。
途中、笠利町笠利の幹線道路沿いに大島奉行所跡があった。薩摩藩が慶長14年に琉球侵攻したとき、中山王朝に迫って奄美諸島を割譲させた。それ以降、奄美諸島は島津家の直轄地となり、代官支配がなされる。この地は江戸時代初期に最初に大島奉行所(のち大島代官)が置かれた場所。わずかに珊瑚石でできた石垣が残っているだけだった。

大島奉行所跡の近くにも大きな教会があり、墓地も付属していた。
白い十字架の墓が立ち並んでいる。奄美のキリスト教信仰の強さを再認識した。
大島奉行所
大島奉行所跡の案内板
十字架の墓
笠利のキリスト教墓地




最北端の笠利崎に着く。
岬の高台に白い灯台が立っている。
あいにくの強風で体が飛ばされそうだったが、調所さんと急な階段を一緒に登る。
灯台下からの眺めは絶景。西(左)は東シナ海、東は大平洋、かすかに喜界島の島影も見える。
これで、奄美本島の最北端から最南端まで行くことができた。
笠利崎灯台
笠利崎の灯台





再びとって返し、奄美空港に急ぐ。
空路、鹿児島へのプロペラ機での旅とあいなる。
奄美空港
鹿児島行きの機





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【2009/03/17 18:15】 | 日次記
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ばんない
こんにちは。興味深く拝読させていただきました。取材の内容をこのブログで見せていただいた限りでは「さつま人国誌」また幕末ネタが多くなりそうですが(苦笑)またそれもよいのではないかと。

奄美はキリスト教(お墓を見ているとどうもカトリックのようですね)信者が多いというのは意外でした。韓国も圧倒的にキリスト教信者の割合が多いらしいですが、歴史的に似たような背景があるとキリスト教の布教はしやすいのかも知れませんね。

私も先日タンカンを頂戴しましたが、意外に皮も剥きやすくて甘いですね。

レンガ
岩剣石塁
 タンカン、美味しく戴きました。
みなとやの鶏飯は美味しいですよね。
 我が家の鶏飯は、パパイヤの漬け物が入手できない場合、
奈良漬けで代用しています。

 それにしても、耐火レンガは、わざわざイギリスで
作られてから運ばれてきたものなのでしょうか?
それともインドや香港あたりでイギリスの会社が作っていた
ものなのでしょうかね?
建設にあたってはそれなりの資金も必要だったと思います。
興味深いですね。

キリスト教
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

奄美はキリスト教が目立ちますね。
でも、戦争その他でずっと苦難の道を歩んだようです。

タンカンは、食事のとき、デザートでよく出てきました。
どれもおいしくいただきました。

パパイヤ
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

鹿児島ではいろいろお世話になりました。

鶏飯の具はパインではなく、パパイヤでしたね。
私の勘違いでした。
どっちにしろ、いかにも南国らしい具で楽しいです。

レンガはどうなんでしょうかね。
本国ではなく、香港や上海からの可能性もありますね。
この白糖工場建設には、グラバーも関与・仲介しています。
グラバーは長崎を本拠にして、琉球や香港・上海経由の貿易をしていましたから、レンガもそのルートで仕入れたかもしれませんね。
もう少し調べてみます。


調所
この度は、お誘い頂き有り難うございました。過去から現在まで我が家系では誰も奄美を訪れたことがございませんでした。風説とは異なる資料も見る機会に恵まれ、色々と考えさせられました。今回を機に奄美と黒糖産業について勉強してみようと思います。

こちらこそ
桐野作人
調所さん、こんにちは。

奄美ではいろいろお世話になりました。
やはり百聞は一見にしかずですね。
現地に行くことの大切さを痛感しました。
また行きたいですね。

久慈の旧家について
Az猫ロメ
 初めまして。還暦近くになり、最近ご先祖のことが知りたくなり、Web検索していたところ、このサイトにたどり着きました。色々とご研究なされているようなので、教えて頂ければ幸いです。
 私の母方の先祖は「泰山」(やすやま)を名乗り、薩摩藩から「奄美五島」の征服を命ぜられ、かの地にやってきたという伝承があるようです。
 私は、もう24,5年近く前になるでしょうか、瀬戸内町に残っていた親族の勧めで、亡き母と共に先祖のお墓の改葬のために奄美の久慈の里にゆきました。
 親族の話によると、泰山本家が祖父の代に奄美を離れて、宮崎に移住したのち、墓は誰も見る人がいなくなったそうです。泰山本家の家長であった英哲が奄美を去ることになった理由は、祖父が建てたカトリック奄美高女の司祭に、久慈にあった旧日本海軍の地図を売ったという誹謗事件が原因でした。(奄美高女の歴史は恐らくご存じでしょう)
 私は、この泰山一族の曾祖父であった英俊のことが気になるのです。この方は、幕末時代に江戸に出向き、今の慈恵医大の前進である「医学塾」に学び、故郷に戻って医業と村長の両方の仕事をこなしていたそうです。
 幕末時代に、奄美の辺境地の「田舎侍」がどうして、江戸に上京できたのだろうか、とても不思議でなりません。
 また、言い伝えでは、剣術のほうも達者だったようで、鹿児島で何らかの「剣術試合」で打ち斃した剣士の縁者が、わざわざ、「仇討」に久慈の里にまでやってきたそうです。偶々、英俊が不在だったので、館内で狼藉を働いていたときの隙をついて、英俊の姉が背後から床の間の隠し穴を通して、槍でこの武士を斃したとのことです。館には、この武士がこの時振り回した刀の跡が屋敷内に残っていたそうです。あまり確かなことは言えませんが、泰山家は瀬戸内では旧家であったと、改葬の際に色々と世話をしてくれた親族の一人は言っておりました。
 久慈の浜は私の目には、日本の「中世の湊」のように見えました。東北地方に「月の浦」という湊がありますが、ふと思い出したものです。何か、ご先祖の出目についてわかることがありましたら、お教え願えないでしょうか。宜しくお願いします。

泰山氏?
桐野作人
Az猫ロメさん、はじめまして。

コメント有難うございます。

ご質問をいただきましたが、私は奄美の事情にはくらくて、よくわかりません。

私でわかることを書きますと、
鹿児島県の諸氏をまとめた『鹿児島県姓氏家系大辞典』というのがありますが、そのなかには「泰山」という名字はありません。「安山」はありますが、奄美とは関係なさそうな名字です。

ひとつ考えられるのは、ご実家に「田舎侍」という言い伝えがあるということは、いわゆる藩当局によって、「郷士格」に取り立てられた身分だと思われます。そして、奄美諸島の郷士格身分は帯刀と名字が許されましたが、名字はいわゆる一字名字です。

それで、ご先祖の本来の名字は「泰」だったのではないでしょうか。「泰」という一字名字の郷士格の人物が確実に存在しています。
そして明治になってからか、他の一字名字の家のかなりの部分がそうしたように、二字名字に改姓したと考えられます。

もしそうなら、史料がないわけではありません。
『奄美史料集成』(松下志朗編、南方新社、2006年)に、

「代官初并大嶋郷士格人躰他」

という、郷士格身分の人物についての史料が収録されていまして、その437頁に、次のように書かれています。

一、     右同   泰池光
 右唐通事之御取訳を以、弘化二年巳六月被仰付候

幕末の弘化2年(1845)、泰池光という郷士格の人物が「唐通事」すなわち、中国語通訳に任命されています。
おそらく「泰」家は代々唐通事の家柄だったのでしょう。

唐通事なら、島では相当のインテリですから、島外、しかも江戸への留学も医術の勉強という名目なら、可能だったかもしれません。

ご実家には、上記に関わるような言い伝えはないでしょうか?

とりあえず、私でわかることを書きました。
あまりお役に立てないですが。


Az猫ロメ
お礼が大変遅くなって申し訳ありません。
 泰山氏の話はとても興味を覚えました。「唐通事」と医学との関わりは、ありうるもののように思えます。私の父方のご先祖及び親戚も、どうも中国からの帰化人のようなのです。私の母の話では、泰山家もこの父方との遠縁にあたるとか言っていました・・・。
 なぜ久慈のような辺境の地に住んでいたかは、大きな疑問ですが、私の目には、波静かな「中世の湊」で、あるいは琉球貿易との関わりがあったかもしれないと想像したりします。
 いずれにしましても、幕末に久慈の田舎郷から江戸にまで出向くというのは、大変にロマンを掻き立てる話ではあります。
 遅くなりまりましたが、貴重なお話有難う御座います。重ねてお礼を致します。

久慈
桐野
Az猫ロメさん、こんにちは。

久慈の港は、島津氏の砂糖積出港のひとつでしたし、白糖工場も造られていますから、現代よりももっと活気のある場所だったと思います。

ちなみに、私の弟が久慈に赴任している時期がありました。

祖父の戸籍
Az猫ロメ
ご無沙汰しております。
 久慈に桐野さんの弟氏が赴任されていたことがあった
そうですが、なにか「ご縁」を感じます。
 ところで、瀬戸内町の役場から祖父の戸籍を取り寄せて
いたので、久しぶりに眺めていたところ、曽祖父、英俊の
妻(エツ)の生年が嘉永4年(1851年)と記載されていること
に気づきました。
 エツは明治5年8月に泰山家に入籍しています。英俊の
生年は記載されていませんが、エツの生年を考慮すると、
ご紹介して頂いた泰池光の長男であっただろう事が予想さ
れます。

 私が面白く思うのは、この戸籍に妻エツの両親のことが
記載されていることです。「大島郡阿室釜村 福 直静志
と錫(旧字の鍋かも知れません)加那との間の7女とありま
す。
 Google地図で調べたところ芝家の篠川郷の少し先でした。
『えっ!こんなところにも一字姓(福)の人たちが住んでいた
 のだろうか?』と思わず驚きました。

 瀬戸内町役場には、これ以上古い戸籍はないとのことでし
たので、この辺りが限度です。

 それにしても、幕末の頃は維新前夜で国中議論沸騰の時代
だったのではと、つい思い勝ちですが、奄美の地では、平凡
な暮らしが流れていたのではないかと想像してしまいました。

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コメント
この記事へのコメント
こんにちは。興味深く拝読させていただきました。取材の内容をこのブログで見せていただいた限りでは「さつま人国誌」また幕末ネタが多くなりそうですが(苦笑)またそれもよいのではないかと。

奄美はキリスト教(お墓を見ているとどうもカトリックのようですね)信者が多いというのは意外でした。韓国も圧倒的にキリスト教信者の割合が多いらしいですが、歴史的に似たような背景があるとキリスト教の布教はしやすいのかも知れませんね。

私も先日タンカンを頂戴しましたが、意外に皮も剥きやすくて甘いですね。
2009/03/18(Wed) 19:02 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
レンガ
 タンカン、美味しく戴きました。
みなとやの鶏飯は美味しいですよね。
 我が家の鶏飯は、パパイヤの漬け物が入手できない場合、
奈良漬けで代用しています。

 それにしても、耐火レンガは、わざわざイギリスで
作られてから運ばれてきたものなのでしょうか?
それともインドや香港あたりでイギリスの会社が作っていた
ものなのでしょうかね?
建設にあたってはそれなりの資金も必要だったと思います。
興味深いですね。
2009/03/18(Wed) 23:48 | URL  | 岩剣石塁 #qHI8YIeE[ 編集]
キリスト教
ばんないさん、こんにちは。

奄美はキリスト教が目立ちますね。
でも、戦争その他でずっと苦難の道を歩んだようです。

タンカンは、食事のとき、デザートでよく出てきました。
どれもおいしくいただきました。
2009/03/20(Fri) 18:14 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
パパイヤ
岩剣石塁さん、こんにちは。

鹿児島ではいろいろお世話になりました。

鶏飯の具はパインではなく、パパイヤでしたね。
私の勘違いでした。
どっちにしろ、いかにも南国らしい具で楽しいです。

レンガはどうなんでしょうかね。
本国ではなく、香港や上海からの可能性もありますね。
この白糖工場建設には、グラバーも関与・仲介しています。
グラバーは長崎を本拠にして、琉球や香港・上海経由の貿易をしていましたから、レンガもそのルートで仕入れたかもしれませんね。
もう少し調べてみます。
2009/03/20(Fri) 18:19 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
この度は、お誘い頂き有り難うございました。過去から現在まで我が家系では誰も奄美を訪れたことがございませんでした。風説とは異なる資料も見る機会に恵まれ、色々と考えさせられました。今回を機に奄美と黒糖産業について勉強してみようと思います。
2009/03/21(Sat) 10:37 | URL  | 調所 #-[ 編集]
こちらこそ
調所さん、こんにちは。

奄美ではいろいろお世話になりました。
やはり百聞は一見にしかずですね。
現地に行くことの大切さを痛感しました。
また行きたいですね。
2009/03/23(Mon) 10:26 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
久慈の旧家について
 初めまして。還暦近くになり、最近ご先祖のことが知りたくなり、Web検索していたところ、このサイトにたどり着きました。色々とご研究なされているようなので、教えて頂ければ幸いです。
 私の母方の先祖は「泰山」(やすやま)を名乗り、薩摩藩から「奄美五島」の征服を命ぜられ、かの地にやってきたという伝承があるようです。
 私は、もう24,5年近く前になるでしょうか、瀬戸内町に残っていた親族の勧めで、亡き母と共に先祖のお墓の改葬のために奄美の久慈の里にゆきました。
 親族の話によると、泰山本家が祖父の代に奄美を離れて、宮崎に移住したのち、墓は誰も見る人がいなくなったそうです。泰山本家の家長であった英哲が奄美を去ることになった理由は、祖父が建てたカトリック奄美高女の司祭に、久慈にあった旧日本海軍の地図を売ったという誹謗事件が原因でした。(奄美高女の歴史は恐らくご存じでしょう)
 私は、この泰山一族の曾祖父であった英俊のことが気になるのです。この方は、幕末時代に江戸に出向き、今の慈恵医大の前進である「医学塾」に学び、故郷に戻って医業と村長の両方の仕事をこなしていたそうです。
 幕末時代に、奄美の辺境地の「田舎侍」がどうして、江戸に上京できたのだろうか、とても不思議でなりません。
 また、言い伝えでは、剣術のほうも達者だったようで、鹿児島で何らかの「剣術試合」で打ち斃した剣士の縁者が、わざわざ、「仇討」に久慈の里にまでやってきたそうです。偶々、英俊が不在だったので、館内で狼藉を働いていたときの隙をついて、英俊の姉が背後から床の間の隠し穴を通して、槍でこの武士を斃したとのことです。館には、この武士がこの時振り回した刀の跡が屋敷内に残っていたそうです。あまり確かなことは言えませんが、泰山家は瀬戸内では旧家であったと、改葬の際に色々と世話をしてくれた親族の一人は言っておりました。
 久慈の浜は私の目には、日本の「中世の湊」のように見えました。東北地方に「月の浦」という湊がありますが、ふと思い出したものです。何か、ご先祖の出目についてわかることがありましたら、お教え願えないでしょうか。宜しくお願いします。
2009/05/09(Sat) 15:53 | URL  | Az猫ロメ #-[ 編集]
泰山氏?
Az猫ロメさん、はじめまして。

コメント有難うございます。

ご質問をいただきましたが、私は奄美の事情にはくらくて、よくわかりません。

私でわかることを書きますと、
鹿児島県の諸氏をまとめた『鹿児島県姓氏家系大辞典』というのがありますが、そのなかには「泰山」という名字はありません。「安山」はありますが、奄美とは関係なさそうな名字です。

ひとつ考えられるのは、ご実家に「田舎侍」という言い伝えがあるということは、いわゆる藩当局によって、「郷士格」に取り立てられた身分だと思われます。そして、奄美諸島の郷士格身分は帯刀と名字が許されましたが、名字はいわゆる一字名字です。

それで、ご先祖の本来の名字は「泰」だったのではないでしょうか。「泰」という一字名字の郷士格の人物が確実に存在しています。
そして明治になってからか、他の一字名字の家のかなりの部分がそうしたように、二字名字に改姓したと考えられます。

もしそうなら、史料がないわけではありません。
『奄美史料集成』(松下志朗編、南方新社、2006年)に、

「代官初并大嶋郷士格人躰他」

という、郷士格身分の人物についての史料が収録されていまして、その437頁に、次のように書かれています。

一、     右同   泰池光
 右唐通事之御取訳を以、弘化二年巳六月被仰付候

幕末の弘化2年(1845)、泰池光という郷士格の人物が「唐通事」すなわち、中国語通訳に任命されています。
おそらく「泰」家は代々唐通事の家柄だったのでしょう。

唐通事なら、島では相当のインテリですから、島外、しかも江戸への留学も医術の勉強という名目なら、可能だったかもしれません。

ご実家には、上記に関わるような言い伝えはないでしょうか?

とりあえず、私でわかることを書きました。
あまりお役に立てないですが。
2009/05/11(Mon) 23:46 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
お礼が大変遅くなって申し訳ありません。
 泰山氏の話はとても興味を覚えました。「唐通事」と医学との関わりは、ありうるもののように思えます。私の父方のご先祖及び親戚も、どうも中国からの帰化人のようなのです。私の母の話では、泰山家もこの父方との遠縁にあたるとか言っていました・・・。
 なぜ久慈のような辺境の地に住んでいたかは、大きな疑問ですが、私の目には、波静かな「中世の湊」で、あるいは琉球貿易との関わりがあったかもしれないと想像したりします。
 いずれにしましても、幕末に久慈の田舎郷から江戸にまで出向くというのは、大変にロマンを掻き立てる話ではあります。
 遅くなりまりましたが、貴重なお話有難う御座います。重ねてお礼を致します。
2009/12/26(Sat) 12:45 | URL  | Az猫ロメ #-[ 編集]
久慈
Az猫ロメさん、こんにちは。

久慈の港は、島津氏の砂糖積出港のひとつでしたし、白糖工場も造られていますから、現代よりももっと活気のある場所だったと思います。

ちなみに、私の弟が久慈に赴任している時期がありました。
2009/12/26(Sat) 17:16 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
祖父の戸籍
ご無沙汰しております。
 久慈に桐野さんの弟氏が赴任されていたことがあった
そうですが、なにか「ご縁」を感じます。
 ところで、瀬戸内町の役場から祖父の戸籍を取り寄せて
いたので、久しぶりに眺めていたところ、曽祖父、英俊の
妻(エツ)の生年が嘉永4年(1851年)と記載されていること
に気づきました。
 エツは明治5年8月に泰山家に入籍しています。英俊の
生年は記載されていませんが、エツの生年を考慮すると、
ご紹介して頂いた泰池光の長男であっただろう事が予想さ
れます。

 私が面白く思うのは、この戸籍に妻エツの両親のことが
記載されていることです。「大島郡阿室釜村 福 直静志
と錫(旧字の鍋かも知れません)加那との間の7女とありま
す。
 Google地図で調べたところ芝家の篠川郷の少し先でした。
『えっ!こんなところにも一字姓(福)の人たちが住んでいた
 のだろうか?』と思わず驚きました。

 瀬戸内町役場には、これ以上古い戸籍はないとのことでし
たので、この辺りが限度です。

 それにしても、幕末の頃は維新前夜で国中議論沸騰の時代
だったのではと、つい思い勝ちですが、奄美の地では、平凡
な暮らしが流れていたのではないかと想像してしまいました。
2010/06/04(Fri) 11:47 | URL  | Az猫ロメ #-[ 編集]
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