歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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織豊期の研究者である尾下成敏氏から表題の論文をご恵贈いただいた。感謝。
論文名、掲載誌などは以下の通りである。

「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵―信長・秀吉の四国進出過程をめぐって―」 『ヒストリア』214号 大阪歴史学会 2009年3月

尾下氏は信長死後、信雄が織田家の家督を継いだことを明らかにするなど、織田から羽柴への政権移行期の実態解明に関心を持っている研究者である。

尾下論文はタイトル通り、秀吉の淡路・阿波への進出のプロセスを検討したもので、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)も批判されている。

それは、天正9年(1581)の秀吉の淡路出兵が阿波まで進出したものかどうか、関連の秀吉文書数点の年次を検討したもので、『黒田家文書』の同9年説を否定し、同10年と結論づけるものである。

私や藤田達生氏は『黒田家文書』に従って、同9年として議論していたが、その前提を根底から覆されたことになる。

じつをいえば、『黒田家文書』の年次比定を疑ってかかったほうがよいのではないかと、以前、このブログでも指摘したことはあった。ここです。
私は黒田孝高が当該時期に鳥取城攻めに出陣していることが証明できれば、天正9年説は成立しないという感触をもっていたが、そのままにしていた。尾下論文は私の素朴な疑問(だから、天正13年という誤解もあり)と異なり、秀吉関連文書を実証的に検討したものであり、一本取られたという感じである。

拙著での記述が尾下論文によって批判されたわけだが、じつはむしろ有難く、拙論を主張するにあたって、かえって状況はクリアになったと感じている。

それはどういうことかといえば、尾下論文によって天正9年に秀吉の阿波進出がなかったことが明らかになったわけで、それにより、四国をめぐる秀吉と光秀の対立・抗争が本能寺の変の背景にあるという見方が否定されることになったからである。
つまり、阿波の帰属を中心とする四国問題に関しては、信長の政策転換と明智家中のそれへの反発という構図がはっきりと浮き彫りになった、別の言い方をすれば、秀吉という「夾雑物」が除去されてクリアになったと感じている。

同時に、このことは派生的に三好秀次の養子入りの時期にも影響を与えるはずである。秀次の養子入りは信長存命中にはありえない可能性が非常に高くなったと思われる。尾下論文によれば、天正10年9月頃から秀吉が阿波に出兵し、三好と長宗我部の抗争に三好支援という形で介入していることが明らかになったわけで、秀次の養子入りもこれと関連していると見るべきだろう。

批判とともに、多くの示唆やヒントを与えていただいた尾下氏に改めて御礼申し上げる。

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【2009/04/11 13:19】 | 信長
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尾下論文
板倉丈浩
こんばんは。
この論文、私も興味深く読みました。

>阿波の帰属を中心とする四国問題に関しては、信長の政策転換と明智家中のそれへの反発という構図がはっきりと浮き彫りになった

尾下氏は結論部分で「この出来事が惟任光秀の政治的立場を悪くし、彼をして本能寺の変に駆り立てさせたとも考えられない」とわざわざ書いているところから見ると、四国問題と本能寺をリンクさせる考え方には否定的ですね。
天正8年の織田政権が長宗我部氏と伊予西園寺氏の停戦を試みた可能性を指摘し、かかる政策が長宗我部氏の反発を招いたのではないかと考えておられるようです。

>秀次の養子入りは信長存命中にはありえない可能性が非常に高くなった

尾下論文のもう一つの重要な指摘として、天正8年段階で秀吉が既に淡路に進出しており、天正9年の出兵前に三好一族の安宅氏を支配下に置いていたということがあります。
となると、羽柴・三好の密接な関係は本能寺前にそうであってもおかしくないのではないでしょうか?

私見
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは、

忙しくて返事が遅くなりました。

尾下氏が「四国問題と本能寺をリンクさせる考え方には否定的」というご指摘の部分ですが、秀吉の阿波進出が天正9年とする前提を否定する趣旨で書かれたもので、光秀VS秀吉という構図では、光秀の政治的立場が悪くなったという結論は導けないという意味で、間接的ながら、藤田説への批判ではないかと考えています。

次に秀次の養子入りの件ですが、天正8年に秀吉が淡路に進出したと断定できるか疑問ですね。淡路の野口某が秀吉に従ったということとと、秀吉が淡路に進出したというのは必ずしもイコールではないと思います。
また天正8年、教如派の牢人衆が勝瑞城を占拠しており、どうやら三好存保らはこれに加担しているようです。彼らを元親が撃退しているということは、元親は織田方として行動しており、このとき、秀吉が三好方と通じるというのは、元親への利敵行為になりますから、不自然ではないでしょうか。
翌9年、秀吉が淡路に進出しますが、その後、淡路に駐屯したのはどうやら池田元助の軍勢のようで、秀吉は淡路の領国化に積極的ではなく、制海権の確保に主要な関心が向けられており、領国化を志向するのは信長死後ではないでしょうか。
また安宅氏を支配下に置いたことが阿波三好氏と密接な関係になるというわけでもないと思います。
同9年から、三好康長の阿波進出、元親の反織田化の傾向が表れまるのはたしかですが、かといって、秀吉が三好を積極的に支援したという史料は見出せないように思えますが。
まあ、秀次がその時期に三好の養子になったというのがその根拠ということであれば、循環論法であり、私には手がつけられません。

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この記事へのコメント
尾下論文
こんばんは。
この論文、私も興味深く読みました。

>阿波の帰属を中心とする四国問題に関しては、信長の政策転換と明智家中のそれへの反発という構図がはっきりと浮き彫りになった

尾下氏は結論部分で「この出来事が惟任光秀の政治的立場を悪くし、彼をして本能寺の変に駆り立てさせたとも考えられない」とわざわざ書いているところから見ると、四国問題と本能寺をリンクさせる考え方には否定的ですね。
天正8年の織田政権が長宗我部氏と伊予西園寺氏の停戦を試みた可能性を指摘し、かかる政策が長宗我部氏の反発を招いたのではないかと考えておられるようです。

>秀次の養子入りは信長存命中にはありえない可能性が非常に高くなった

尾下論文のもう一つの重要な指摘として、天正8年段階で秀吉が既に淡路に進出しており、天正9年の出兵前に三好一族の安宅氏を支配下に置いていたということがあります。
となると、羽柴・三好の密接な関係は本能寺前にそうであってもおかしくないのではないでしょうか?
2009/04/22(Wed) 01:39 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
私見
板倉丈浩さん、こんにちは、

忙しくて返事が遅くなりました。

尾下氏が「四国問題と本能寺をリンクさせる考え方には否定的」というご指摘の部分ですが、秀吉の阿波進出が天正9年とする前提を否定する趣旨で書かれたもので、光秀VS秀吉という構図では、光秀の政治的立場が悪くなったという結論は導けないという意味で、間接的ながら、藤田説への批判ではないかと考えています。

次に秀次の養子入りの件ですが、天正8年に秀吉が淡路に進出したと断定できるか疑問ですね。淡路の野口某が秀吉に従ったということとと、秀吉が淡路に進出したというのは必ずしもイコールではないと思います。
また天正8年、教如派の牢人衆が勝瑞城を占拠しており、どうやら三好存保らはこれに加担しているようです。彼らを元親が撃退しているということは、元親は織田方として行動しており、このとき、秀吉が三好方と通じるというのは、元親への利敵行為になりますから、不自然ではないでしょうか。
翌9年、秀吉が淡路に進出しますが、その後、淡路に駐屯したのはどうやら池田元助の軍勢のようで、秀吉は淡路の領国化に積極的ではなく、制海権の確保に主要な関心が向けられており、領国化を志向するのは信長死後ではないでしょうか。
また安宅氏を支配下に置いたことが阿波三好氏と密接な関係になるというわけでもないと思います。
同9年から、三好康長の阿波進出、元親の反織田化の傾向が表れまるのはたしかですが、かといって、秀吉が三好を積極的に支援したという史料は見出せないように思えますが。
まあ、秀次がその時期に三好の養子になったというのがその根拠ということであれば、循環論法であり、私には手がつけられません。
2009/04/29(Wed) 13:47 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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