歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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4月14日(火)夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。

今回から新規のシリーズが始まる(隔週で全5回)。
初回のこの日は表題のタイトルで行った。
新たに受講された方もお見えだった。

四侯会議は薩摩藩の主導の下に組織されたものである。
小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが松平春嶽、山内容堂、伊達宗城をそれぞれ説得して上京させるまでを確認する。
四侯会議の重要な課題は兵庫開港と長州寛典であることは論をまたないが、もうひとつ朝廷人事(とくに議奏)が裏の課題としてあったことも付け加える。
孝明天皇他界に伴う特赦により、前年の列参運動や禁門の変での親長州派、和宮降嫁のときの四奸などが謹慎を解かれて、朝廷内部における力関係に変化が生じていた。それを一言でいえば、親一会桑派の後退と王政復古派の進出である。薩摩藩が朝廷人事に介入しようとしたのは、そうした力関係の変化に乗じてのものだった。

なお、ひとつ説明し忘れた用語があるので、補足しておきたい。

仮建(あるいは仮建所)

である。
レジュメに収録した『続再夢紀事』慶応元年(1865)10月5日条は、徳川慶喜が安政条約の勅許を得たことが書かれていたが、そのなかに朝廷が勅許すべきか否かを諸藩に諮問しようとした一節で、「俄に薩・因・備・土・芸・筑・越・肥後・久留米・会津・柳川・津・桑名等の藩々にて国事関係の士を宮中仮建所に召し出され」云々という記事がある。
この「仮建所」のことである。
おそらくほとんどの人が何のことかわからないと思うが、禁裏御所の清涼殿に隣接する公卿之間の一番手前の板敷の狭い空間である。
公卿之間は参内する公家控えの間で、幕末には諸侯も詰めた。
3つに区切られた畳の間と板敷によって構成されている。清涼殿に近い一番奥が「公卿の間」(虎の間)でもっとも格式が高い(三位以上の公卿が控える)。次が「殿上人の間」(鶴の間)、その次が「諸大夫の間」(桜の間)で、この3つの空間が畳の間。
一番手前が板敷の間で、ここが仮建所である。いわゆる諸藩士身分の者が禁裏御所内で唯一出入りできる場所。他の3間とくらべて畳がないことから一番格式が低いスペースだということはご理解いただけるだろう。彼らはここに呼び出されて、朝廷の両役(武家伝奏や議奏)などから意見を徴される仕組みになっていた。
昨年、京都御所内部を見学したとき、撮影した写真があるので載せておきます。
仮建




右奧が公卿の間で、左端の白い案内板の裏側の板間が「仮建」である。
慶応3年暮れ、王政復古政府が樹立されたものの、諸藩士身分が出入りできるのは仮建までだから、当初、政府は否が応でも公家たちが主導権を握っていた。
禁裏御所における伝統と空間秩序を打破しようとしたのが大久保利通で、大坂遷都論はその弊習打破が目的だったとされる。
故・高橋秀直氏の論考「禁裏御所の政治空間と大坂遷都問題」(『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館)に仮建の説明があります。ご参考までに。

今回もレジュメが多かったが、あまり時間を超過せずに終えることができた。
次回は四侯会議を本格的に見ていく予定です。

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【2009/04/18 00:02】 | てらこや
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こんにちは
黒田裕樹
「四侯会議」についてはあまり存じ上げませんので、今回のブログ上のご講義でしっかり勉強させていただきたいと思います。
宜しくお願い致します。

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こんにちは
「四侯会議」についてはあまり存じ上げませんので、今回のブログ上のご講義でしっかり勉強させていただきたいと思います。
宜しくお願い致します。

クリックさせていただきます!
2009/04/18(Sat) 16:55 | URL  | 黒田裕樹 #qvcTopkk[ 編集]
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2009/04/19(Sun) 10:48 |   |  #[ 編集]
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