歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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NHK大河ドラマ「天地人」第16回「武田家の娘」

たまたま観ました。
御館の乱がほぼ終息した時点で、景勝が兼続を家老にすると言い出し、他の家老である吉江宗信、直江信綱もそれを支持する場面がありました。

この時点で、兼続が家老職に就任したかどうかは微妙ですね。
信綱が急死して、兼続が直江家を継いだのちならおかしくないですが。

兼続の文書が初めて登場するのは、天正8月(1580)8月15日、佐藤庄左衛門、皆川式部丞にそれぞれ宛てた景勝の朱印状の奉者として署名したものです。奉書として別に書かれたものではなく、兼続が書いたものに、景勝が承認した印として朱印を捺したものです。この時期の上杉氏の文書としては珍しい様式です。

いわば、取次や奏者としての役割ですが、この時期、景勝の判物・書状・朱印状に奉書形式で署名しているのは、現存している史料の中では兼続だけです。その点を重視すれば、兼続の景勝側近としての格別の地位が推定されますが、かといって、家老職かといえるかどうか。
もっといえば、この時期、上杉家の大名権力の構成要素として、明確な家老制があったのかどうか、よくわかりません。評定衆的な面と取次・奏者的な面が混同されているようにも思えます。

他国の大名かその取次から上杉家に宛てられた書状の宛所は家格的に一門や家老クラスになることが多いです。
翌9年3月10日、武田勝頼の書状は河田長親に宛てられています。同年4月20日、信長の側近菅屋長頼の書状は須田満親・上条宜順・山崎秀仙宛てです。

もっとも、上杉一門の上条宜順が同9年に兼続に宛てた書状3点の書止文言はいずれも「恐惶謹言」で、敬意を表しています。
これは直江信綱急死以前の書状ですから、兼続が上杉一門の上条氏からも敬意を表されるのは、やはり特殊な地位というべきかもしれません。それが家老職だとは限りませんが。
ひとつ考えられるとすれば、景勝は兼続を家老にしたかったかもしれませんが、兼続の若さだけでなく、樋口家の上杉家中における地位があまり高くないことから不可能だった。その代わり、景勝の近習衆として取り立てられる奏者としての最高、格別の地位にしたというのが、上杉家では珍しい奉書の奉者として表れたといえるかもしれません。

なぜ、兼続が景勝に急速に重用されるようになるのでしょうね?
ドラマであったように、御館の乱や武田氏との外交関係にどの程度貢献したかは現存する史料では確認できません。
やはり景勝と兼続の個人的な「親密さ」が大きく作用したのではないかという気がするのですが。
養父謙信が河田長親を重用したケースと似ているのではないでしょうか。

余談ですが、山本圭演じる吉江宗信。彼は謙信の最晩年(天正5年頃)、出家入道しています。しかし、ドラマではまだ俗体でしたね。

兼続とお船の仲を疑っていた直江信綱が急に物分かりがよくなり、最後、兼続の側から立ち去るシーンが幽霊風でどうもおかしいと思ったら、案の定、毛利秀広に斬殺されてしまいました。お船の再縁の伏線でしたね。

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【2009/04/20 00:18】 | 天地人
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 なんか、本日の大河ドラマ終了後ぐらいからぐぐっとアクセスが増えていたようですが...
2009/04/20(Mon) 01:32:20 |  旅じゃ.com
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