歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第104回
―奄美侵略計画の頓挫―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

掲載曜日が変わったので、どうもまだ更新のペースがつかめません。
それはさておき、表題の連載3回目です。
なかなか島津軍が琉球を攻めないで、グダグダ感がつづいております。
もっと先を急げと言われそうですが、何といいますか、このグダグダのプロセスにも意味があるんじゃないかと思っています。

島津氏が琉球侵攻を決断するまで、豊臣、徳川の歴代中央政権との対立があると同時に、ある種の依存関係にもありました。
とくに、島津氏が琉球を「与力」とするのに成功するのは、豊臣政権が朝鮮侵略のために諸大名に課した全国的な軍役体制に包摂できたからです。島津氏は転んでもただでは起きなかったわけですね。
つまり、島津氏は単独では琉球を「与力」にするのは困難があったのですが、豊臣政権の力を借りてそれを実現できたわけで、中央政権との関係は対立しながらも、依存し利用するという二面性をもっていたことになると思います。

また、先んじていえば、島津氏の琉球の位置づけが豊臣政権時代の「与力」から、徳川幕府時代に「附庸」になるのも、さらに支配の度合が進み、幕藩制の知行制のなかに琉球を組み込むのに成功することを意味しているのではないかと思います。
島津氏の知行高が豊臣政権時代は56万~62万石程度だったのが、徳川幕府時代(秀忠期)に72万石になるのは、琉球分が加味されたからにほかなりません。

まあ、そうしたプロセスがあり、それを促進する梃子となったのが慶長14年(1609)の琉球侵攻だろうと思います。

次回は、いよいよ島津忠恒の家久への改名から、琉球侵攻が準備されるあたりを書きたいと思っています。

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【2009/04/20 23:22】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。
連載終了までじっくり待って、まとめて感想を書こうかなと思ったのですが、ちょっと気になることがありまして。

今日のこちらの補足を見て思ったのですが、桐野さんは島津氏がいつから琉球を支配(沖縄の人から見たら「侵略」ですかね)しようという野心を持ったか、その辺まで目処とか仮説を立てられてられるのかな、と感じたのですが。
もし今後のネタにする気がないのであれば(爆)お差し支えのない範囲でご教示賜りたく。

後、愚問になりますが、豊臣時代の検地後の「56~62万石」も琉球侵攻後の「72万石」も実体を反映してない(実収はその半分程度?)というのが通説ですが、それに関してはいかがお考えでしょうか。

めど?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

めどかどうかわかりませんが、島津氏が琉球侵攻できると思うようになった理由は比較的単純ではないかと思っています。

つまり、数百キロ南に離れた外洋にある琉球を軍船で渡海できるかどうか、その経験の有無だろうと思っています。要は朝鮮出兵の経験をしたことが自信となり、外洋遠征を可能にしたのはないでしょうか。
ですから、時期的に言えば、秀吉死後というか、朝鮮陣からの帰国後でしょうね。
また琉球侵攻を主導したのが、義弘・家久父子、樺山久高など、いずれも朝鮮渡海経験者であることもそれに照応しているのではないかと思っています。

島津氏の表高についてですが、籾高であり、実際の生産高を必ずしも反映していないのはたしかでしょう。それは島津氏に限ったことではなく、奥州伊達氏もそうで、貫高を機械的に石高に変換しただけですしね。

豊臣政権は統一的な軍役を賦課するために、全国の大名領国を石高制で把握したかっただけで、実態を反映しているかどうかは二の次だったのでしょう。
籾高だろうと何だろうと、島津氏の豊臣政権時代と徳川時代との表高の違いは琉球分の有無(奄美諸島も含む)であることに変わりはありませんね。

故郷の歴史
市川
こんにちは。
さつま人国誌など、いつも桐野先生の島津氏に関わる話は読ませてもらってます。地元の人間としてとても勉強になります。
今回は鹿児島だけでなく、沖縄の人にとってもまさに重大事だった琉球出兵ですね。
関ヶ原から数年しか経っていないのにまたどこかと戦争をしようとする島津氏の底力といいますか、老いても盛んな義久兄弟のエネルギーはすごいと思います。

琉球を利用して明と接触しようとする幕府と、その仕事を請け負った島津。そしてこれまでの地位を保とうとした琉球……といった感じで現在のところよろしいでしょうか?
記事を見て思ったのですが、義久は表面では幕府と距離を置いたり、弟や娘婿と対立しているように見えますが、裏ではそれらを利用して琉球に働きかけていたという可能性もあるのではないでしょうか。
「あまり自分に逆らうと、弟とかが暴発するかもよ」
のような。
私自身、義久は優れた武将だと思っていますから、彼は彼なりに周囲を利用し、時期を読んでいたのではないでしょうか(娘婿さんだけには負けた気がしますが)。

質問なのか感想なのかわからなくなった感じですみません。
これからも楽しみに読ませていただきます。頑張ってください。

島津義久
桐野作人
市川さん、こんばんは。

なかなか鋭い見方をされますね。
義久については、ご指摘のような面もあったと思います。
何となく、容疑者を落とす刑事たちの分業(こわもてと温情の使い分け)といいますか、硬軟を使い分けて、こちらの要求を呑ませてしまおうというのかもしれませんね。
ただ、義久だけなら、琉球派兵まで決断できたかどうかはわかりませんね。

ご意見有難うございました。
これからもよろしくお願いします。


ばんない
こんばんは。私の愚問に対して昨晩即答されてくださっていたようで、大変申し訳ございませんでした。

島津氏が琉球侵攻をするきっかけとなったのは朝鮮出兵ではないか、朝鮮出兵によって外洋まで軍を派遣できる自信がついたからじゃないか、というのが桐野さんの考えということであっていますでしょうか。
実は、以前から不思議に思っていたことがあるんですが、島津氏は外洋に面した領土を持っている割には「水軍」が存在している様子を感じられないのです。島津尚久が「海賊の大将だった」という説もあるようですし、「海賊に相応の武装させればその当時の水軍になりますよ」というお話も以前どこかで聞いたように思うのですが、やはり組織だった「水軍」というのとは違うように感じます。そういう問題点?の様な物が朝鮮出兵などで解決?していき、琉球侵攻への一因となっていったのでしょうか。

また、最初に
>島津氏がいつから琉球を支配(沖縄の人から見たら「侵略」ですかね)しようという野心を持ったか、
という問いかけを書いたのは、桐野さんが
>薩琉関係において、強気に出始めるのは、やはり日新斎系島津氏以後になってからで、
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-615.html
と書かれていた物の、「さつま人国志」を読む限りでは島津忠良(日新斎)、貴久の代ではそういう「強気」というのを感じさせる史料がないように感じたので、ちょっともやもやした物を感じておりました。「さつま人国志」を拝見した限りでは島津義久の頃に「琉球侵攻」という野心がでてきたのか、という風にもとれます。
また、今回のコラムによりますと、当初は「琉球への出兵」ではなく「奄美への出兵」と史料では書かれているようですが、途中で目的が過大化したというか変質していったのでしょうか?あ、これこそ次回以降のネタかもしれませんね(汗)

後、島津義久と義弘が琉球侵攻について「演劇」していたという説はおもしろいと思いますが、義久にそれだけの演技力があれば、秀吉が九州に攻めてきたとき、島津氏はあそこまで悲惨な負け方になってなかったんじゃないかという気が・・・(苦笑)。

・・・今、見直すと文章力がないのでなんかうまく考えが書けてない(爆)。やはりこの問題はいろいろな点で難しいですね。乱文ご容赦ください。


話は変わって、石高について
>豊臣政権は統一的な軍役を賦課するために、全国の大名領国を石高制で把握したかっただけで、実態を反映しているかどうかは二の次だったのでしょう。
やっぱりそうだったんですね(苦笑)。ご教示ありがとうございます。ただ江戸時代になっても相変わらず実高が名目石高に遙かに及ばない島津氏に対して、伊達氏は実収100万石を越えてたともいわれてますね・・・。土地条件が主な原因でしょうが、悲しい。



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この記事へのコメント
こんばんは。
連載終了までじっくり待って、まとめて感想を書こうかなと思ったのですが、ちょっと気になることがありまして。

今日のこちらの補足を見て思ったのですが、桐野さんは島津氏がいつから琉球を支配(沖縄の人から見たら「侵略」ですかね)しようという野心を持ったか、その辺まで目処とか仮説を立てられてられるのかな、と感じたのですが。
もし今後のネタにする気がないのであれば(爆)お差し支えのない範囲でご教示賜りたく。

後、愚問になりますが、豊臣時代の検地後の「56~62万石」も琉球侵攻後の「72万石」も実体を反映してない(実収はその半分程度?)というのが通説ですが、それに関してはいかがお考えでしょうか。
2009/04/20(Mon) 23:46 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
めど?
ばんないさん、こんばんは。

めどかどうかわかりませんが、島津氏が琉球侵攻できると思うようになった理由は比較的単純ではないかと思っています。

つまり、数百キロ南に離れた外洋にある琉球を軍船で渡海できるかどうか、その経験の有無だろうと思っています。要は朝鮮出兵の経験をしたことが自信となり、外洋遠征を可能にしたのはないでしょうか。
ですから、時期的に言えば、秀吉死後というか、朝鮮陣からの帰国後でしょうね。
また琉球侵攻を主導したのが、義弘・家久父子、樺山久高など、いずれも朝鮮渡海経験者であることもそれに照応しているのではないかと思っています。

島津氏の表高についてですが、籾高であり、実際の生産高を必ずしも反映していないのはたしかでしょう。それは島津氏に限ったことではなく、奥州伊達氏もそうで、貫高を機械的に石高に変換しただけですしね。

豊臣政権は統一的な軍役を賦課するために、全国の大名領国を石高制で把握したかっただけで、実態を反映しているかどうかは二の次だったのでしょう。
籾高だろうと何だろうと、島津氏の豊臣政権時代と徳川時代との表高の違いは琉球分の有無(奄美諸島も含む)であることに変わりはありませんね。
2009/04/21(Tue) 00:31 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
故郷の歴史
こんにちは。
さつま人国誌など、いつも桐野先生の島津氏に関わる話は読ませてもらってます。地元の人間としてとても勉強になります。
今回は鹿児島だけでなく、沖縄の人にとってもまさに重大事だった琉球出兵ですね。
関ヶ原から数年しか経っていないのにまたどこかと戦争をしようとする島津氏の底力といいますか、老いても盛んな義久兄弟のエネルギーはすごいと思います。

琉球を利用して明と接触しようとする幕府と、その仕事を請け負った島津。そしてこれまでの地位を保とうとした琉球……といった感じで現在のところよろしいでしょうか?
記事を見て思ったのですが、義久は表面では幕府と距離を置いたり、弟や娘婿と対立しているように見えますが、裏ではそれらを利用して琉球に働きかけていたという可能性もあるのではないでしょうか。
「あまり自分に逆らうと、弟とかが暴発するかもよ」
のような。
私自身、義久は優れた武将だと思っていますから、彼は彼なりに周囲を利用し、時期を読んでいたのではないでしょうか(娘婿さんだけには負けた気がしますが)。

質問なのか感想なのかわからなくなった感じですみません。
これからも楽しみに読ませていただきます。頑張ってください。
2009/04/21(Tue) 16:24 | URL  | 市川 #-[ 編集]
島津義久
市川さん、こんばんは。

なかなか鋭い見方をされますね。
義久については、ご指摘のような面もあったと思います。
何となく、容疑者を落とす刑事たちの分業(こわもてと温情の使い分け)といいますか、硬軟を使い分けて、こちらの要求を呑ませてしまおうというのかもしれませんね。
ただ、義久だけなら、琉球派兵まで決断できたかどうかはわかりませんね。

ご意見有難うございました。
これからもよろしくお願いします。
2009/04/21(Tue) 21:47 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。私の愚問に対して昨晩即答されてくださっていたようで、大変申し訳ございませんでした。

島津氏が琉球侵攻をするきっかけとなったのは朝鮮出兵ではないか、朝鮮出兵によって外洋まで軍を派遣できる自信がついたからじゃないか、というのが桐野さんの考えということであっていますでしょうか。
実は、以前から不思議に思っていたことがあるんですが、島津氏は外洋に面した領土を持っている割には「水軍」が存在している様子を感じられないのです。島津尚久が「海賊の大将だった」という説もあるようですし、「海賊に相応の武装させればその当時の水軍になりますよ」というお話も以前どこかで聞いたように思うのですが、やはり組織だった「水軍」というのとは違うように感じます。そういう問題点?の様な物が朝鮮出兵などで解決?していき、琉球侵攻への一因となっていったのでしょうか。

また、最初に
>島津氏がいつから琉球を支配(沖縄の人から見たら「侵略」ですかね)しようという野心を持ったか、
という問いかけを書いたのは、桐野さんが
>薩琉関係において、強気に出始めるのは、やはり日新斎系島津氏以後になってからで、
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-615.html
と書かれていた物の、「さつま人国志」を読む限りでは島津忠良(日新斎)、貴久の代ではそういう「強気」というのを感じさせる史料がないように感じたので、ちょっともやもやした物を感じておりました。「さつま人国志」を拝見した限りでは島津義久の頃に「琉球侵攻」という野心がでてきたのか、という風にもとれます。
また、今回のコラムによりますと、当初は「琉球への出兵」ではなく「奄美への出兵」と史料では書かれているようですが、途中で目的が過大化したというか変質していったのでしょうか?あ、これこそ次回以降のネタかもしれませんね(汗)

後、島津義久と義弘が琉球侵攻について「演劇」していたという説はおもしろいと思いますが、義久にそれだけの演技力があれば、秀吉が九州に攻めてきたとき、島津氏はあそこまで悲惨な負け方になってなかったんじゃないかという気が・・・(苦笑)。

・・・今、見直すと文章力がないのでなんかうまく考えが書けてない(爆)。やはりこの問題はいろいろな点で難しいですね。乱文ご容赦ください。


話は変わって、石高について
>豊臣政権は統一的な軍役を賦課するために、全国の大名領国を石高制で把握したかっただけで、実態を反映しているかどうかは二の次だったのでしょう。
やっぱりそうだったんですね(苦笑)。ご教示ありがとうございます。ただ江戸時代になっても相変わらず実高が名目石高に遙かに及ばない島津氏に対して、伊達氏は実収100万石を越えてたともいわれてますね・・・。土地条件が主な原因でしょうが、悲しい。

2009/04/21(Tue) 23:32 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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