歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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一昨日23日(木)、表題のツアーの講師をつとめる。
中日文化センター主催、中日旅行会挙行の企画。
前夜から名古屋駅前に宿泊した。

早朝8:00に名古屋駅前を出発。
定員ほぼいっぱいの方が集合。
中には講座で見知った方も。

10:00過ぎ、洛中に入る。
当初の予定では、最初に丹波亀山城に行き、明智光秀になったつもりで山陰道から洛中に入るコースを考えてきた。
しかし、洛中から亀山城までの一般道の移動が、事前の下見でかなり時間がかかることが判明。昼食時間に影響することから、コースが若干変更になった。

まず旧本能寺跡に行く。
ここで用意した資料をみなさんに見ていただく。
A4で18頁もある立派なもの(爆)。
関連史料として、織田方の『信長公記』、明智方の『本城惣右衛門覚書』、第三者の『イエズス会日本年報』をその場で読んだが、少し時間超過。
添乗員から先を促される。
やはり史料を読むのは思いのほか時間を取られる。

その後、蛸薬師通りを東に数百メートル進み、南蛮寺跡の案内板を見学。
本能寺との距離を実際に体感してもらい、イエズス会関係史料の記事にある「わが聖堂」というのが同寺のことであり、本能寺のすぐ近くで見聞したことが臨場感をもって書かれていることを感じてもらう。

その後、室町通りを北上する。
これは本能寺と、信忠の宿所となった妙覚寺、そして戦場となった二条御所との距離感をつかんでもらうため。
室町通りが当時の洛中で、上京と下京を結ぶメインストリートであったことを説明。

御池通りまで出て、そのまま北上し、民家の前にある「二条殿御池」の標石を見学。道路の西側がかつて妙覚寺だったことを説明(現在は寺の内に移転)。
二条殿御池




そのまま、二条御所跡に移動。
かつては龍池小学校だったが、廃校になってマンガミュージアムになっている。
二条殿の標石の前で、また史料を読む。
二条殿の成り立ちを『老人雑話』で確認し、小池があったことを確認。
これが現在の御池通の名前の由来になったことを説明。
天正4年(1576)、信長が摂関家の二条殿を移転させ、ここに「二条御新造」を造営し、同7年、誠仁親王に譲った経緯も説明。
そして、二条御所合戦で、信忠がどのように奮戦したかを『惟任謀反記』で読む。

午前の部はここまでで、大徳寺に移動して昼食。
大徳寺に総見院があるのだが、今回はカット。

午後からは、新本能寺に行く。
信長や一門・家来たちの供養塔を見学したのち、同寺会館で折よく「本能寺と信長展」を開催していたので、これを見学する。
資料にも載せた本能寺宛ての禁制や条々の実物が展示してあったのもタイムリー。
信長の「天下布武」朱印状が新旧揃っていたので、その違いを説明。

その後、バスに乗り、いよいよ丹波亀山城をめざす。
途中、七条通を通ってもらい、丹波口にある「これより洛中」の標石を車中から見学。山陰道を進んだ明智軍がここから洛中に乱入したことを語る。
ルートが逆になるが、その後も、桂川、沓掛、老ノ坂など、史料に出てくる地名を確認し、それを資料で読みながら進む。

亀山城に着いたのは16:00近くで、予定より大幅に遅れた。
亀山城跡は現在、宗教法人「大本」の所有地になっている。
事前に拝観をお願いしてあったので、全員でお祓いを受けてから本丸区域に入る。
ここの天守台石垣は立派である。
もっとも、昭和初期に積み直された可能性があり、当時のままではないだろう。
参加者は全員、亀山城見学は初めてだったそうで、みなさん興味深げに見学していた。
ここを選んでよかったと思った次第。
亀山城




その後、光秀の最期の地になったとされる小栗栖に移動。
これまた一般道が混んでいて、予定より1時間以上遅れることになった。
しかも、景観がかなり変わっていて、「明智籔」の標石の場所をすぐ特定できず、ウロウロする。
近所で遊んでいた子どもたちに連れて行ってもらった。申し訳ない。
明智籔




小栗栖は現在、「おぐりす」と現地では読んでいるようだが、『明智軍記』には「おぐるす」とルビが振ってあることを説明する。
また、光秀最期の地が本当にここであったか不明であることも付け加える。当時の一次史料には「醍醐ノ辺」とか「山科」とか書かれており、具体的な場所まで特定できていなかった。「小栗栖」が登場するのは元禄年間の『明智軍記』からであることも説明した。

以上で、所定の日程を終了する。
日帰りツアーにしては高い代金だっただけに、みなさんに満足していただいたことを祈るばかりである。

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【2009/04/25 20:50】 | 中日文化センター
トラックバック(0) |

とても行きたかったです。
NAO4@吟遊詩人
当日、参加させていただこうと前々から思っていたのですが、どうしても都合がつかず、あきらめました。
史料を読みながら、「明智光秀の実際の行路を辿る」なんて、贅沢な企画です。また是非類似の企画ございましたら、ご紹介ください。

>「小栗栖」が登場するのは元禄年間の『明智軍記』からである
そうなんですか。なるほど、お教えいただき、ありがとうございます。

小栗栖
ハンク
おはようございます。初めてコメントを書きます。「小栗栖」のことは、いわゆる「太田牛一旧記」には「おごろす」となっていたような気がするのですが。

亀山城
びわこ
桐野さん、こんにちは。

亀山城が光秀のお城だったと知らなかった時代(子どもの頃・・・)、あの天主台ではよく遊びました。
いつのころからか、聖地となって、あの石垣脇の石段からは立ち入り禁止になったのですけど。

あの天主台に上る一段下の削平地に大きな銀杏の木があったと思うのですが。。。
非常に懐かしいです。

またよろしく
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

次回機会があれば、また告知しますので、よろしかったら、ご参加下さい。

小栗栖について異論もあるようです。次のコメントをご参照下さい。

太田牛一旧記
桐野作人
ハンクさん、初めまして。

「太田牛一旧記」の中味をご存じとは、どうやら私の近辺におられる方のようですね(笑)。

同書に載っているとは気づかず、迂闊でした。改めて見てみますと、

「伏見より廿町北山そひにおごろすとて小里」云々

とあるのを確認しました。
「おごろす」が小栗栖なら、太田牛一の段階(慶長年間後期)には小栗栖説が存在したことになりますね。
牛一『信長記』には光秀の最期まで描かれておりませんが、その後の調査で判明したのでしょうね。

もっとも、方角的には少しおかしいような。
小栗栖は伏見の東であり、北ではありませんね。
単なる方角の間違いなのか、もしかして「おごろす」は小栗栖ではないのか?
謎は尽きません。

亀山城
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

もしかして亀山城あたりでお生まれになったか、子どもの頃過ごされたのでしょうか。

その後は、光秀ではなく三成のほうに関心が向いたのですね。
意外な事実で驚きました(笑)。

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コメント
この記事へのコメント
とても行きたかったです。
当日、参加させていただこうと前々から思っていたのですが、どうしても都合がつかず、あきらめました。
史料を読みながら、「明智光秀の実際の行路を辿る」なんて、贅沢な企画です。また是非類似の企画ございましたら、ご紹介ください。

>「小栗栖」が登場するのは元禄年間の『明智軍記』からである
そうなんですか。なるほど、お教えいただき、ありがとうございます。
2009/04/27(Mon) 02:16 | URL  | NAO4@吟遊詩人 #laIirjiw[ 編集]
小栗栖
おはようございます。初めてコメントを書きます。「小栗栖」のことは、いわゆる「太田牛一旧記」には「おごろす」となっていたような気がするのですが。
2009/04/27(Mon) 10:08 | URL  | ハンク #-[ 編集]
亀山城
桐野さん、こんにちは。

亀山城が光秀のお城だったと知らなかった時代(子どもの頃・・・)、あの天主台ではよく遊びました。
いつのころからか、聖地となって、あの石垣脇の石段からは立ち入り禁止になったのですけど。

あの天主台に上る一段下の削平地に大きな銀杏の木があったと思うのですが。。。
非常に懐かしいです。
2009/04/28(Tue) 05:12 | URL  | びわこ #-[ 編集]
またよろしく
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

次回機会があれば、また告知しますので、よろしかったら、ご参加下さい。

小栗栖について異論もあるようです。次のコメントをご参照下さい。
2009/04/29(Wed) 13:50 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
太田牛一旧記
ハンクさん、初めまして。

「太田牛一旧記」の中味をご存じとは、どうやら私の近辺におられる方のようですね(笑)。

同書に載っているとは気づかず、迂闊でした。改めて見てみますと、

「伏見より廿町北山そひにおごろすとて小里」云々

とあるのを確認しました。
「おごろす」が小栗栖なら、太田牛一の段階(慶長年間後期)には小栗栖説が存在したことになりますね。
牛一『信長記』には光秀の最期まで描かれておりませんが、その後の調査で判明したのでしょうね。

もっとも、方角的には少しおかしいような。
小栗栖は伏見の東であり、北ではありませんね。
単なる方角の間違いなのか、もしかして「おごろす」は小栗栖ではないのか?
謎は尽きません。
2009/04/29(Wed) 14:06 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
亀山城
びわこさん、こんにちは。

もしかして亀山城あたりでお生まれになったか、子どもの頃過ごされたのでしょうか。

その後は、光秀ではなく三成のほうに関心が向いたのですね。
意外な事実で驚きました(笑)。
2009/04/29(Wed) 14:09 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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