歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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朝倉五代

越前朝倉氏の本拠だった一乗谷にある福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館が表題の史料集を04年3月に刊行した。
先日、友人から聞くまで知らなかったので、急ぎ購入。

越前朝倉氏は一乗谷に入った初代孝景から五代100年以上にわたって北陸に君臨した戦国大名である。元亀四年(1573)、五代義景が織田信長に滅ぼされたため、その発給文書がそれほど残存しているとは思っていなかったが、意外と多いのに驚いた。収集に尽力された関係者の努力に多謝。
以下は当主ごとの発給文書の点数。奉行人奉書なども含めた点数である。

初代孝景(1428-81)  43点
二代氏景(1449-86)  26点
三代貞景(1473-1512) 43点
四代孝景(1493-1548) 83点
五代義景(1533-73)  268点


個人的にはやはり五代義景の文書に注目する。
ざっと一覧して気づいたのは、義景は元亀元年正月(1570)から印判状(黒印状)も併用するようになっていることだ。
花押だけでなく印判の登場は、大名権力の何らかの画期を示している。この年からちょうど織田信長との対決が始まっているけれど、単なる偶然なのだろうか。

変わった文書といえば、薩摩島津氏に宛てた文書が2点あることである。
1点(157号)は義景が島津義久に宛てたもの(7月23日付)。内容もなかなか興味深く、「琉球渡海勘合之儀」、つまり、琉球王国との貿易について、島津義久が同意してくれたことに謝意を表したもの。越前の朝倉氏が琉球と貿易をしていたという事実にまず驚かされる。年次は永禄10年(1567)とされている。

もう1点(175号)は、義景の側近、半井明宗が薩摩島津家の3人の老中、伊集院忠金(のち忠棟)・村田経定・川上久朗に宛てた書状写し(4月28日付)である。これは主君義景の書状の副状として出されたものである。このときの義景書状は現存していないようだ。
内容は、これも朝倉側が「琉球御勘合」について島津義久の取り計らいに感謝するというもの。
同書の編者はこの書状の年次を永禄12年(1569)に比定しているが、疑問である。宛所の一人、川上久朗は同11年2月に戦傷死しているから、永禄10年以前でなければならない。

とすれば、先の義久宛て義景書状との関連が想起される。半井明宗書状は義景書状の前段階のもので、やはり永禄10年ではないだろうか。
なお、この半井明宗書状は『鹿児島県史料 旧記雑録附録』に収録されている(1017号)。同史料の編者は年次比定をせずに、年次未詳文書にしている。

分厚い史料集ながら、お値段も手頃。朝倉氏に関心のある方はどうぞ。

朝倉氏五代の発給文書
(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料1)
編集・発行:福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
発行年:2004年3月
定価:2.000円(送料340円とともに現金書留で)

*詳しくはここへお問い合わせ下さい。

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【2007/01/14 00:33】 | 戦国織豊
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