歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第105回
―島津家久、派兵を決断―

昨日、連載が更新になっていましたが、お知らせするのをうっかりしていました。

左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は表題のその4です。
グダグダ感がつづいております。
それは400年前の島津家中も同様だったと思います。
強硬派と自重派の綱引きで、容易に結論が出ませんでした。

その突破口は外部の権威にありました。
忠恒は上京して大御所家康に拝謁し、偏諱授与により「家久」と改名します。
これは幕府が家久を後援することを宣言したようなもので、これにより、島津家中で家久が主導権を握ったともいえましょう。
家久は琉球問題に限らず、後継者問題(=夫人亀寿問題)についても、幕府の権威をかりて解決しようとします。それは家中に隠然たる勢力をもつ舅義久(正確には龍伯)を克服するためでした。

琉球問題も結局、幕府の支援がなければ、決断できなかったといえましょう。

もっとも、記事にも書いたように、家久と幕府の間でも温度差がありました。幕府は琉球使節が来てくれさえすればOKでした。
問題はその手段です。説得か強制か……。
家康は日明国交回復を念願しているので、その朝貢国である琉球に武力派兵するのは、友好を唱えながら軍事力を発動するわけですから、気が進みませんでした。
その見切りは誰がどのような形でするのか。

それは家久の決断次第になったわけですが、幕府との温度差を家久はどのようにクリアしたのか、さらに解明する必要があるかもしれません。琉球に再度来聘を要請したが、拒絶されたというだけで、幕府が納得したのかどうか。琉球側の対応のしかたも考えないといけないですね。

かつて、十数年前、「琉球の風」という半年だけの大河ドラマがありました。
あのとき、琉球王朝の三司官の一人で実力者の謝名親方を演じた江守徹の頑固さを思い出します。彼がやはりキーパースンでしょうか。

次回はいよいよ出兵です。

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【2009/04/28 11:35】 | さつま人国誌
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隠知行
ばんない
こんにちは。

「紙屋氏によれば、この頃、島津氏の領国では11万8000石もの隠知行(おんちぎょう〔領地隠し〕)が発覚していた。(中略)つまり、家久は内政問題の解決を外征に求めたのである。」
隠し田の問題解決方法がなぜ外征につながるのかが、ちょっとこの文章でははっきりしないのですが・・・。たぶん私の空頭では理解できないだけだと思うのですが、もうちょっと詳しく説明してくださるとうれしく存じます。

それと、山本博文氏は義久は死ぬまで権力を保持していたという考えのようですが、私個人が「旧記雑録後編」を読んだ感想ですが、やはりこの慶長11年を境に発言力を失った印象が否めません。うろ覚えの記憶ですが、この前年あたりに義久は本気で東上しようとして病気で断念する”事件”があったと思うのですが、これもターニングポイントになったように思われます。

蛇足ながら、家康の偏諱「家」は最上家親ももらってますね。まさか山形の大名と琉球侵攻は関係がないと思いますが(苦笑)


隠知行
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

これはまた難しい質問を……。

私は紙屋説を紹介しただけなんですが、たしかに「隠知行」が何を意味するのか、その糺明方法があるのか、たしかに疑問ですね。

まず素朴な疑問としては、石田三成の文禄検地は12万石近い隠知行を見逃すほど、ずさんではないはずです。

あくまで私の個人的な思いつきですが、数字の近似性でいえば、文禄検地のとき、給人加増分として125.308石が未給分で留保されました。これは朝鮮出兵の恩賞分として留保されたともいわれます。

しかし、慶長4年(1599)にになると、そのうちの8万数千石がすでに給人すなわち家臣たちの本知高に繰り入れられています。
それは正式な給付だったのか、なしくずし的な取得(要するに既成事実化)だったのかよくわかりません。
忠恒=家久はこの留保分を朝鮮に出征した自分の直臣に給付しようとしましたが、配当奉行の伊集院幸侃に拒否されています。これが幸侃上意討ちの遠因の一つともいわれています。
朝鮮で苦労した家臣に給付されないで、藩内に残っていた連中が分け取りしたのなら、家久が怒る理由は十分あるように思います。

家久は琉球出兵の軍役賦課において、この留保分も家臣に賦課しようとしたのかどうか、またそれがうまくいったのかどうかわかりません。
出征した家臣は兵員・兵粮を負担していますが、出征しなかった家臣は銀供出という形で軍役負担しています。その銀供出の際、分け取られた留保分をいくらかなりとも回収したと考えられるのかどうか。

それ以上はわかりませんね。
実際のところ、隠知行糺明はあまりうまくいかず、琉球から割譲させた奄美諸島の蔵入地化により補填したとも考えられます。出兵後、ただちに内検しているのも蔵入地化の欲求を感じさせますが。

不勉強でよくわかりません。

家康の「家」授与の件、ご指摘のとおり、最上もありましたね。私としては、ほかにも事例がないわけではなかったというのは承知していたので、「珍しい」としました。唯一ではないという含意のつもりでした。


ばんない
こんにちは。丁寧な御回答ありがとうございます。謎の部分が多くて、かなり難しい問題のようですね。
鹿児島藩自体の収入不足を解消するために外征して奄美占領→蔵入地化、の流れとか考えは理解できます。でもそれで家臣の慢性的収入不足に対する不満が解消するかと言えば、蔵入地はあくまで藩主直轄地なので家臣の不満解消にはつながらないと思うのです。それとも現代の戦争でもありがちな話ですが、外征の高揚感で家臣達の不満をごまかそうとしたのかどうか。

偏諱「家」の件ですが、真意は了解しておりました。お気を悪くされたのであれば、大変申し訳ございませんでした。
さて、琉球問題を抱えていた島津忠恒に「家久」は分かるのですが、最上に「家親」が謎ですね。最上家が名族・斯波家の分家であることとか、家督問題の絡みでしょうかね。

慶長国絵図・郷帳
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

例の「隠知行」の件ですが、紙屋敦之氏『幕藩制国家の琉球支配』に少し説明があったのを失念しておりましたので、改めてご紹介します。

それによれば、慶長10年(1605)、幕府が島津氏に国絵図と郷帳の作成を命じ、翌11年に郷帳が完成し、幕府に提出されました。
その過程で、隠知行が発覚したようです。私は隠知行を、給人が表高とは別に内々の知行をもち、軍役ほか諸役の賦課を逃れていると解していたのですが、紙屋氏によれば、そうではないようです。

「郷帳作成の結果、大名・家臣団(給人)が農民から年貢・諸役の徴集ができない隠知行が11万8.000石あることが判明した」

この隠知行は慶長4年段階の島津氏の知行高60万9.000余石の19・5%にあたるとのこと。
これは百姓が隠れて保有している土地のようですね。その糺明は検地をしないと無理だという気がしますが、琉球出兵でできるのでしょうかね。ともあれ、義弘は忠恒にそのような趣旨の書状を書いています。

すみません。前回は少し趣旨違いでした。


琉球軍の軍装・戦術
岩剣石塁
 「琉球の風」、見覚えがあります。
確か主人公が硫黄島(?)という所で、島津軍を迎え撃つ兵員の調練を
していたような?
 その調練が空手のようなものでした。
 火縄銃、刀槍相手に無謀だと思いましたが、
実際の琉球軍の軍装・戦術はどのようなものだったのでしょうか?
 笠利に上陸した島津軍を迎え撃った軍勢は、琉球から派遣されてきていた
グスクの守備兵だったのでしょうか?
それとも有志の地元民だったのでしょうか?
先日現地で慰霊祭があったようですが。

琉球の風
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

「琉球の風」を少しは覚えておられるようですね。
島津義久は故・室田日出男でした。
尚寧王は沢田研二。
主役は少年隊の東山くん。
琉球の空手名人がショー・コスギでしたね。

このドラマなかなかだったと思います。
琉球側の立場から描いたものでしたが、単なる善悪二元論に立たず、義久は苦悩する人として描かれおり、琉球側に味方する薩摩人も登場しましたね。

それで、笠利の津代湊の戦いですが。
奄美側は大親(ふううや)が三千人の島民を率いて戦ったようですが、すぐ負けてしまい、大親は捕虜になったようです。
大親は琉球王朝から派遣された役人です。奄美本島は7つの間切(行政区画)に分けられ、それぞれの間切に大親が赴任したようです。
ですから、大将は王朝の役人、兵は地元の島民だったということでしょうか。


なるほど
岩剣石塁
 さっそくのご回答、ありがとうございます。
兵力3000とはいえど、平和に暮らしていた
島民主体の兵では、九州一円一→朝鮮と百戦錬磨だった
島津軍に負けてしまって当然だったかもしれませんね。
 次の月曜の朝刊をまた楽しみにしております。



ばんない
こんばんは。いろいろと調べて下さったようで恐れ入ります。
私も桐野さんと同じで家臣が賦課逃れのために田畑を隠したものと理解していたのですが、どうもそうじゃないようですね。紙屋氏説のように田を隠していたのが農民となると、その召し上げは検地するしかないはずですが、義弘はその解決をするには琉球に出兵するしかないと言っているのですか。うーむ、何かいろいろと不審な点が残りますね。

それと横レスになり大変恐縮なのですが、琉球侵攻時の琉球の武装についてですが、奄美の状況は存じませんが、本島では南蛮渡りの大砲を実装していたという史料があるようです。
以下のブログの受け売りですが…。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2007/11/post_08c5.html
ご参考になれば。失礼いたします。

はぐれ知行?
桐野作人
桐野@徳之島です。

義弘が指弾する「隠知行」。さらに補足訂正です。

紙屋敦之氏が南海日日新聞の400年企画のインタビューで、この問題について説明されていました。
それによれば、島津領国の農村単位である「門」の衰退、鬱続く戦乱や出征のため、給人が軍役を百姓に転嫁するため、百姓は負担に耐えかねて逃亡し、「百姓これなき門屋敷」が増えてしまったそうです。

いわば、逃散、欠落ですが、太閤検地で石盛された田畑を耕す者がいなくなり、その土地からは石高が生まれない。
この状態が「隠知行」を生み出したということらしいですが、どうも紛らわしいですね。

豊臣政権や大名によって正式に把握されている知行地が生産力を失ったのなら、隠れ知行というより、「はぐれ知行」ではないかと思いますが。まあ、義弘が使った言葉なので、しかたないのですね。

となると、義弘のいう「隠知行」の糺明が琉球侵攻によってなされるというのは、おそらく琉球に出征しない在国衆に出銀を課したことを意味するのでしょう。出銀賦課は知行高に応じたものですから、当然、「隠知行」分も例外ではなく、その分も出銀させられたということでしょうね。いずれにしろ、理論的には給人全体にもれなく賦課の網をかけられたことになるのでしょうか。一時的な措置で恒久的ではないですが。
恒久措置は侵攻後の内検に託されたのでしょうね。

誤解を招くネーミング
ばんない
更にいろいろとお調べ下さいましてありがとうございました。

「生産者が居なくなった荒れた元田畑」…なら隠してるわけじゃないですね(苦笑)。しかしそこを「隠知行」と言い切ってしまうところに意味があったのかも知れません。「田畑が荒れるほど百姓も逃げたのもお前ら(=家臣団)個別の責任だ!」とでも言いたかったんでしょうか。家臣にとっては過剰な軍役を課したのは島津氏であって、たまった物じゃなかったのでは、と思いますが。

しかし、在国衆に「隠知行」分も含めて軍費用を負担させるなどで、大名・島津氏としては税収を確保する目処を立てたつもりなのでしょうが、「隠知行」そのものは生産者がいない状態=生産力がないのは変わらないわけで…なんか、変な詐欺にでも引っかかったような気分です(苦笑)。

土地問題は歴史の重要なキーワードなのですが、なかなか実態が見えにくくて、理解も難しいなと感じました。今回はいろいろと御回答下さりありがとうございました。

南蛮渡来
岩剣石塁
 琉球が南蛮渡来の大砲を装備していたことは
知りませんでした。
 それでは刀剣・弓矢だけでなく、より小口径で
扱いやすい鉄砲も装備していた可能性も出てきますね。
弾薬の調達問題上、数は少なかったかもしれませんが。

那覇湾口
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

那覇湾口のグスクに大砲が備えつけてあり、一度は島津軍の軍船を撃退したようですね。

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コメント
この記事へのコメント
隠知行
こんにちは。

「紙屋氏によれば、この頃、島津氏の領国では11万8000石もの隠知行(おんちぎょう〔領地隠し〕)が発覚していた。(中略)つまり、家久は内政問題の解決を外征に求めたのである。」
隠し田の問題解決方法がなぜ外征につながるのかが、ちょっとこの文章でははっきりしないのですが・・・。たぶん私の空頭では理解できないだけだと思うのですが、もうちょっと詳しく説明してくださるとうれしく存じます。

それと、山本博文氏は義久は死ぬまで権力を保持していたという考えのようですが、私個人が「旧記雑録後編」を読んだ感想ですが、やはりこの慶長11年を境に発言力を失った印象が否めません。うろ覚えの記憶ですが、この前年あたりに義久は本気で東上しようとして病気で断念する”事件”があったと思うのですが、これもターニングポイントになったように思われます。

蛇足ながら、家康の偏諱「家」は最上家親ももらってますね。まさか山形の大名と琉球侵攻は関係がないと思いますが(苦笑)
2009/04/28(Tue) 12:59 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
隠知行
ばんないさん、こんにちは。

これはまた難しい質問を……。

私は紙屋説を紹介しただけなんですが、たしかに「隠知行」が何を意味するのか、その糺明方法があるのか、たしかに疑問ですね。

まず素朴な疑問としては、石田三成の文禄検地は12万石近い隠知行を見逃すほど、ずさんではないはずです。

あくまで私の個人的な思いつきですが、数字の近似性でいえば、文禄検地のとき、給人加増分として125.308石が未給分で留保されました。これは朝鮮出兵の恩賞分として留保されたともいわれます。

しかし、慶長4年(1599)にになると、そのうちの8万数千石がすでに給人すなわち家臣たちの本知高に繰り入れられています。
それは正式な給付だったのか、なしくずし的な取得(要するに既成事実化)だったのかよくわかりません。
忠恒=家久はこの留保分を朝鮮に出征した自分の直臣に給付しようとしましたが、配当奉行の伊集院幸侃に拒否されています。これが幸侃上意討ちの遠因の一つともいわれています。
朝鮮で苦労した家臣に給付されないで、藩内に残っていた連中が分け取りしたのなら、家久が怒る理由は十分あるように思います。

家久は琉球出兵の軍役賦課において、この留保分も家臣に賦課しようとしたのかどうか、またそれがうまくいったのかどうかわかりません。
出征した家臣は兵員・兵粮を負担していますが、出征しなかった家臣は銀供出という形で軍役負担しています。その銀供出の際、分け取られた留保分をいくらかなりとも回収したと考えられるのかどうか。

それ以上はわかりませんね。
実際のところ、隠知行糺明はあまりうまくいかず、琉球から割譲させた奄美諸島の蔵入地化により補填したとも考えられます。出兵後、ただちに内検しているのも蔵入地化の欲求を感じさせますが。

不勉強でよくわかりません。

家康の「家」授与の件、ご指摘のとおり、最上もありましたね。私としては、ほかにも事例がないわけではなかったというのは承知していたので、「珍しい」としました。唯一ではないという含意のつもりでした。
2009/04/29(Wed) 18:17 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
こんにちは。丁寧な御回答ありがとうございます。謎の部分が多くて、かなり難しい問題のようですね。
鹿児島藩自体の収入不足を解消するために外征して奄美占領→蔵入地化、の流れとか考えは理解できます。でもそれで家臣の慢性的収入不足に対する不満が解消するかと言えば、蔵入地はあくまで藩主直轄地なので家臣の不満解消にはつながらないと思うのです。それとも現代の戦争でもありがちな話ですが、外征の高揚感で家臣達の不満をごまかそうとしたのかどうか。

偏諱「家」の件ですが、真意は了解しておりました。お気を悪くされたのであれば、大変申し訳ございませんでした。
さて、琉球問題を抱えていた島津忠恒に「家久」は分かるのですが、最上に「家親」が謎ですね。最上家が名族・斯波家の分家であることとか、家督問題の絡みでしょうかね。
2009/04/29(Wed) 18:51 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
慶長国絵図・郷帳
ばんないさん、こんばんは。

例の「隠知行」の件ですが、紙屋敦之氏『幕藩制国家の琉球支配』に少し説明があったのを失念しておりましたので、改めてご紹介します。

それによれば、慶長10年(1605)、幕府が島津氏に国絵図と郷帳の作成を命じ、翌11年に郷帳が完成し、幕府に提出されました。
その過程で、隠知行が発覚したようです。私は隠知行を、給人が表高とは別に内々の知行をもち、軍役ほか諸役の賦課を逃れていると解していたのですが、紙屋氏によれば、そうではないようです。

「郷帳作成の結果、大名・家臣団(給人)が農民から年貢・諸役の徴集ができない隠知行が11万8.000石あることが判明した」

この隠知行は慶長4年段階の島津氏の知行高60万9.000余石の19・5%にあたるとのこと。
これは百姓が隠れて保有している土地のようですね。その糺明は検地をしないと無理だという気がしますが、琉球出兵でできるのでしょうかね。ともあれ、義弘は忠恒にそのような趣旨の書状を書いています。

すみません。前回は少し趣旨違いでした。
2009/04/29(Wed) 20:21 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
琉球軍の軍装・戦術
 「琉球の風」、見覚えがあります。
確か主人公が硫黄島(?)という所で、島津軍を迎え撃つ兵員の調練を
していたような?
 その調練が空手のようなものでした。
 火縄銃、刀槍相手に無謀だと思いましたが、
実際の琉球軍の軍装・戦術はどのようなものだったのでしょうか?
 笠利に上陸した島津軍を迎え撃った軍勢は、琉球から派遣されてきていた
グスクの守備兵だったのでしょうか?
それとも有志の地元民だったのでしょうか?
先日現地で慰霊祭があったようですが。
2009/04/29(Wed) 23:55 | URL  | 岩剣石塁 #-[ 編集]
琉球の風
岩剣石塁さん、こんにちは。

「琉球の風」を少しは覚えておられるようですね。
島津義久は故・室田日出男でした。
尚寧王は沢田研二。
主役は少年隊の東山くん。
琉球の空手名人がショー・コスギでしたね。

このドラマなかなかだったと思います。
琉球側の立場から描いたものでしたが、単なる善悪二元論に立たず、義久は苦悩する人として描かれおり、琉球側に味方する薩摩人も登場しましたね。

それで、笠利の津代湊の戦いですが。
奄美側は大親(ふううや)が三千人の島民を率いて戦ったようですが、すぐ負けてしまい、大親は捕虜になったようです。
大親は琉球王朝から派遣された役人です。奄美本島は7つの間切(行政区画)に分けられ、それぞれの間切に大親が赴任したようです。
ですから、大将は王朝の役人、兵は地元の島民だったということでしょうか。
2009/04/30(Thu) 16:35 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
なるほど
 さっそくのご回答、ありがとうございます。
兵力3000とはいえど、平和に暮らしていた
島民主体の兵では、九州一円一→朝鮮と百戦錬磨だった
島津軍に負けてしまって当然だったかもしれませんね。
 次の月曜の朝刊をまた楽しみにしております。
2009/05/01(Fri) 00:49 | URL  | 岩剣石塁 #-[ 編集]
こんばんは。いろいろと調べて下さったようで恐れ入ります。
私も桐野さんと同じで家臣が賦課逃れのために田畑を隠したものと理解していたのですが、どうもそうじゃないようですね。紙屋氏説のように田を隠していたのが農民となると、その召し上げは検地するしかないはずですが、義弘はその解決をするには琉球に出兵するしかないと言っているのですか。うーむ、何かいろいろと不審な点が残りますね。

それと横レスになり大変恐縮なのですが、琉球侵攻時の琉球の武装についてですが、奄美の状況は存じませんが、本島では南蛮渡りの大砲を実装していたという史料があるようです。
以下のブログの受け売りですが…。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2007/11/post_08c5.html
ご参考になれば。失礼いたします。
2009/05/01(Fri) 01:38 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
はぐれ知行?
桐野@徳之島です。

義弘が指弾する「隠知行」。さらに補足訂正です。

紙屋敦之氏が南海日日新聞の400年企画のインタビューで、この問題について説明されていました。
それによれば、島津領国の農村単位である「門」の衰退、鬱続く戦乱や出征のため、給人が軍役を百姓に転嫁するため、百姓は負担に耐えかねて逃亡し、「百姓これなき門屋敷」が増えてしまったそうです。

いわば、逃散、欠落ですが、太閤検地で石盛された田畑を耕す者がいなくなり、その土地からは石高が生まれない。
この状態が「隠知行」を生み出したということらしいですが、どうも紛らわしいですね。

豊臣政権や大名によって正式に把握されている知行地が生産力を失ったのなら、隠れ知行というより、「はぐれ知行」ではないかと思いますが。まあ、義弘が使った言葉なので、しかたないのですね。

となると、義弘のいう「隠知行」の糺明が琉球侵攻によってなされるというのは、おそらく琉球に出征しない在国衆に出銀を課したことを意味するのでしょう。出銀賦課は知行高に応じたものですから、当然、「隠知行」分も例外ではなく、その分も出銀させられたということでしょうね。いずれにしろ、理論的には給人全体にもれなく賦課の網をかけられたことになるのでしょうか。一時的な措置で恒久的ではないですが。
恒久措置は侵攻後の内検に託されたのでしょうね。
2009/05/01(Fri) 17:18 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
誤解を招くネーミング
更にいろいろとお調べ下さいましてありがとうございました。

「生産者が居なくなった荒れた元田畑」…なら隠してるわけじゃないですね(苦笑)。しかしそこを「隠知行」と言い切ってしまうところに意味があったのかも知れません。「田畑が荒れるほど百姓も逃げたのもお前ら(=家臣団)個別の責任だ!」とでも言いたかったんでしょうか。家臣にとっては過剰な軍役を課したのは島津氏であって、たまった物じゃなかったのでは、と思いますが。

しかし、在国衆に「隠知行」分も含めて軍費用を負担させるなどで、大名・島津氏としては税収を確保する目処を立てたつもりなのでしょうが、「隠知行」そのものは生産者がいない状態=生産力がないのは変わらないわけで…なんか、変な詐欺にでも引っかかったような気分です(苦笑)。

土地問題は歴史の重要なキーワードなのですが、なかなか実態が見えにくくて、理解も難しいなと感じました。今回はいろいろと御回答下さりありがとうございました。
2009/05/02(Sat) 20:07 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
南蛮渡来
 琉球が南蛮渡来の大砲を装備していたことは
知りませんでした。
 それでは刀剣・弓矢だけでなく、より小口径で
扱いやすい鉄砲も装備していた可能性も出てきますね。
弾薬の調達問題上、数は少なかったかもしれませんが。
2009/05/04(Mon) 08:44 | URL  | 岩剣石塁 #-[ 編集]
那覇湾口
岩剣石塁さん、こんばんは。

那覇湾口のグスクに大砲が備えつけてあり、一度は島津軍の軍船を撃退したようですね。
2009/05/04(Mon) 19:57 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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