歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨28日夜、小学館古文書塾「てらこや」の講座に出講。
小松帯刀と幕末薩摩藩」シリーズ第6クールの2回目。
今回のタイトルは表題のとおり。

前回、英国公使パークス一行の伏見―大津通行が思わぬ波紋を呼び、朝廷人事にまで影響を与えたことを確認する。主に越前藩の『続再夢紀事』を読む。

夷人が洛中に近づいたことが、攘夷派を刺激し、激派が2人の「平公家」の所に押しかける。
最初は「因備薩三藩」の脱藩浪士という情報だったが、のちに土佐脱藩士2人と備前士2人だと判明。
いずれにしろ、薩摩が話題になっている点がポイント。

平公家」2人は滋野井重在・公寿父子と鷲尾隆聚のこと。
この下級公家が二条摂政や近衛家に駆け込んで、幕府寄りの両役(武家伝奏・議奏)4人(広橋・六条・久世・野宮)の罷免を要求する。その理由は、夷人の洛中近くの通行を幕府から知らされながら黙認したというもの。
攘夷激派の圧力に動揺した二条摂政は要求通りに4人を罷免してしまう。

その一方、薩摩藩も四侯会議で「公論」を貫徹するには、幕府寄りの両役がいては不都合と、小松帯刀が「朝廷御匡正」=人事刷新を要求していた。小松の主張は攘夷激派の下級公家の要求と見事に平仄が合っていた。

これが偶然なのか、それともひそかに連携したものか?
会津藩の秋月悌次郎は薩摩、なかんずく「小松帯刀の計らひ」だと主張する。
彼によれば、小松はパークス一行に京師見物をけしかけながら、一方で大原重徳らに攘夷論を唱えて兵庫開港の不可を申し入れるという表裏策を使ったという。事実とすれば、小松はなかなかの策士だということになるが。

結局、越前藩は攘夷激派に薩摩藩関係者はいないことを確認したうえで、薩摩藩が黒幕ではないという結論を出した。

個人的な意見としては、滋野井公寿はのちに赤報隊に担がれた公家、鷲尾隆聚は土佐陸援隊に担がれて高野山挙兵をした公家。だから、赤報隊や陸援隊関係者との関わりもあるかもしれないと述べた。
陸援隊は薩摩藩討幕派と密接な関係があることから、この一件に薩摩藩がまったく無関係とは言いきれないという感触をもった。

あとで受講生の方からメールを頂戴した。
それによれば、田中光顕『維新風雲回顧録』に、この時期、陸援隊が岩倉の警護をしており、岩倉が彼ら浪士たちを使って中山忠能・正親町公菫・滋野井実在・鷲尾隆聚と緊密に連絡を取り合っていたことが書かれているそうである。
岩倉が連絡を取った公家の中に、この一件に関わった2人の公家が含まれている。岩倉具視や陸援隊の関与もあったかもしれない。

西郷に関しては、四侯会議に臨む直前の島津久光宛ての建言書2点を読んだ。
西郷が久光に対して、長州処分、五卿問題、兵庫開港という「三ヶ条の御難題」をどのように徳川慶喜に突きつけ、解決するか、その方策を細かくレクチャーしているのが興味深かった。

文久・元治年間までは久光が西郷や大久保に対して情報や見識において優越していたが、慶応3年になると、その関係が逆転している感じである。
大名の役割が終わりつつあることを感じさせた。

四侯会議までのプロセスを前クールから詳しく追っている。
それというのも、四侯会議は薩摩藩、とりわけ、小松・西郷・大久保の発起と周旋によるもので、薩摩藩としては乾坤一擲の大勝負と位置づけていたことを強調したかったことと、その敗北により、薩摩藩が討幕挙兵へと突き進む重大な契機となったことを確認したかったからである。
そのような趣旨を述べて、講座を終えた。

終了後、受講者のみなさんに感想を聞くと、興味深く聴いていただいたことがわかった。

次回はいよいよ四侯会議本番、慶喜VS久光の頂上決戦をやります。

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【2009/04/29 23:20】 | てらこや
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