歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第106回
―島津軍船、山川湊に集結―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、渡海する島津軍の編成の特徴と、出航時の様子などを書いてみました。
ひとつ疑問なのは、渡海前年の9月、島津家久が定めた掟書では、渡海軍の総数は1.500人でした。ところが、実際は3.000人が渡海しています。

総大将の樺山久高は課せられた軍役より1、2割増しの兵員を動員しています。また、南下途中で種子島氏や七島衆(トカラ列島)なども加わっていますが、それを含めても倍増まではいかないと思います。
考えられるのは、一所衆(外様門閥家)の肝付兼篤が副将として新たに加わっていることが確認できるので、一所衆の何家かの参陣があったとすれば、数が合うかもしれませんが、それでも具体的な数字は不明です。

あと、島津家中が「三殿」(義久・義弘・家久)ごとに家臣団が別々に編成されていることのよそよそしさを反映した逸話として、「新納忠元勲功記」の記事があります。
それによれば、総大将樺山以下主だった武将たちが祇園洲から出航するとき、惜別の宴が張られたようです。そのとき、総大将の樺山が遠慮して、副将ながら年長の平田増宗に主座を譲ったところ、老将新納忠元が、樺山に「あなたが年少でも総大将なのだから、真ん中に坐られよ」と、わざわざ樺山を主座に坐らせたという一件です。

国分方(義久)と鹿児島方(家久)の間の微妙な関係を表していて、とても面白い逸話なのですが、残念ながら、今回採用しませんでした。
なぜなら、樺山の方が平田より6歳年長だからです。

でも、この勲功記は比較的正確な史料ですから、わざわざ書いたのには何らかの理由があるかもしれません。考えられるとしたら、国分方の老中のほうが鹿児島方や加治木方(義弘)の老中より、格式が高かったのかもしれません。だから、樺山が年少の平田に気を遣ったのかもしれないですね。

今回使った写真は鹿児島市の春日神社の境内にある水軍港跡の石碑です。
3月の鹿児島取材の折、撮影したものです。岩剣石塁さんにはお世話になりました。
春日神社のある場所はやや内陸で、稲荷川からも少し離れていますが、それでも、戸柱橋には近いので、石碑はこの神社に建てられたのかもしれません。

次回は、島津軍と奄美方との戦闘を書く予定です。

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【2009/05/04 19:50】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。先日は込み入った質問に御回答下さり誠にありがとうございました。

今回の指摘で初めて気が付いたのですが、確かに平田増宗の方が樺山久高より年下ですね…(『本藩人物誌』参照)。ちょっと意外でした。

琉球侵攻の派兵は、なんやかんやドタバタしながらも家久(忠恒)の予想以上の兵が集まったんですね。たしかこの6年後の大坂の陣ではうまく集まらずに派兵に至れなかったようですが。この両戦争の間に何か差でもあったんでしょうか。

モチベーションの違い?
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

琉球出兵の兵数が増えたのは、やはり所領獲得と掠奪のうまみがあったからではないでしょうか。

その点、大坂の陣は所領獲得が望めませんしね。
夏の陣は、外様大名は出陣免除ですし、冬の陣も形だけの出陣でよかったはずです。

海岸線
岩剣石塁
 江戸時代前期の海岸線は、今の石橋公園~祇園之洲公園
ラインよりさらに陸地側の、10号線側や日豊本線付近
だったのではないでしょうか?
http://kokomail.mapfan.com/receivew.cgi?MAP=E130.34.15.3N31.36.5.0&ZM=11&CI=R
 あの時U氏もおっしゃっていましたが、昔の稲荷川は、
今の稲荷川の水位より高かったらしいです。
滑川も以前そうだとおっしゃっていました。
 そうすると、春日神社の場所でも実際に水軍基地が
あった可能性が出てきます。
 U氏から稲荷川河口へ先生をお連れしようという
提案がありましたが、後のお約束の時間もありましたし、
あの大雨でしたので、実現できず、心残りでした。

現金
ばんない
こんばんは。即答ありがとうございました。
やっぱりそうでしょうね…なんとなく予想してはいましたが…その範囲内でした(トホホ)。略奪はともかくとして、所領獲得はどうなったのでしょう。それは今後の連載の中で触れられることになるのでしょうか。

大坂の陣は出陣免除だったんですか?山本博文氏の『島津義弘の賭け』では動員が遅れたことから家康には謀反の疑いはかけられ、細川氏には監視されると、まあさんざんな書きようだったのでそう思いこんでいたのですが。違ったのですね。御回答ありがとうございました。

春日神社と稲荷川
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

当時、稲荷川の水位が高いというか、川幅が広かったというのはありえたかもしれませんね。そうであれば、春日神社は稲荷川沿いに立地していたかもしれません。
そもそも、祇園洲は稲荷川河口に自然に形成された中州だと思うのですが、幕末までに埋め立てが進んだと思われ、当時と比べてだいぶ姿を変えているかもしれませんね。

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コメント
この記事へのコメント
こんにちは。先日は込み入った質問に御回答下さり誠にありがとうございました。

今回の指摘で初めて気が付いたのですが、確かに平田増宗の方が樺山久高より年下ですね…(『本藩人物誌』参照)。ちょっと意外でした。

琉球侵攻の派兵は、なんやかんやドタバタしながらも家久(忠恒)の予想以上の兵が集まったんですね。たしかこの6年後の大坂の陣ではうまく集まらずに派兵に至れなかったようですが。この両戦争の間に何か差でもあったんでしょうか。
2009/05/05(Tue) 01:30 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
モチベーションの違い?
ばんないさん、こんにちは。

琉球出兵の兵数が増えたのは、やはり所領獲得と掠奪のうまみがあったからではないでしょうか。

その点、大坂の陣は所領獲得が望めませんしね。
夏の陣は、外様大名は出陣免除ですし、冬の陣も形だけの出陣でよかったはずです。
2009/05/05(Tue) 12:33 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
海岸線
 江戸時代前期の海岸線は、今の石橋公園~祇園之洲公園
ラインよりさらに陸地側の、10号線側や日豊本線付近
だったのではないでしょうか?
http://kokomail.mapfan.com/receivew.cgi?MAP=E130.34.15.3N31.36.5.0&ZM=11&CI=R
 あの時U氏もおっしゃっていましたが、昔の稲荷川は、
今の稲荷川の水位より高かったらしいです。
滑川も以前そうだとおっしゃっていました。
 そうすると、春日神社の場所でも実際に水軍基地が
あった可能性が出てきます。
 U氏から稲荷川河口へ先生をお連れしようという
提案がありましたが、後のお約束の時間もありましたし、
あの大雨でしたので、実現できず、心残りでした。
2009/05/05(Tue) 22:12 | URL  | 岩剣石塁 #-[ 編集]
現金
こんばんは。即答ありがとうございました。
やっぱりそうでしょうね…なんとなく予想してはいましたが…その範囲内でした(トホホ)。略奪はともかくとして、所領獲得はどうなったのでしょう。それは今後の連載の中で触れられることになるのでしょうか。

大坂の陣は出陣免除だったんですか?山本博文氏の『島津義弘の賭け』では動員が遅れたことから家康には謀反の疑いはかけられ、細川氏には監視されると、まあさんざんな書きようだったのでそう思いこんでいたのですが。違ったのですね。御回答ありがとうございました。
2009/05/06(Wed) 00:28 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
春日神社と稲荷川
岩剣石塁さん、こんばんは。

当時、稲荷川の水位が高いというか、川幅が広かったというのはありえたかもしれませんね。そうであれば、春日神社は稲荷川沿いに立地していたかもしれません。
そもそも、祇園洲は稲荷川河口に自然に形成された中州だと思うのですが、幕末までに埋め立てが進んだと思われ、当時と比べてだいぶ姿を変えているかもしれませんね。
2009/05/07(Thu) 00:38 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
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