歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第107回
―奄美本島を数日で制圧―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回からいよいよ島津軍が海路南下します。
以前から疑問に思っていたのは、記事にも書いたように、島津の軍勢の数が前年の法度のときとくらべて倍増している点です。
半年ほどの間に、1500人から3000人に増えたのはなぜなのか?
ちなみに、3000人は信頼できるいくつかの史料が一致していますから、間違いないところだと思います。
『旧記雑録後編』などを見ても、必ずしも納得できる理由が見出せません。
家久もしくは義弘あたりから、その種の指示が出ていないからです。

ひとつの可能性として考えられるのは、記事でも書いたように、一所衆の参陣です。これは当初、構想になかったのではないかと思います。
一所衆は藩政時代のいわゆる「一所持」(いっしょもち)につながる有力な一門や外様衆のことです。
参陣した一所衆として、肝付、北郷(ほんごう、のち都城島津家)、種子島の三家の家譜によって、その兵数まで概算で確認できます。

念のためにいえば、この肝付氏は衰退した本家ではなく、戦国期、加治木のあたりを領し、島津宗家の老中もつとめた肝付兼演の系統です。出征した兼篤は兼演の孫にあたります。ちなみに、幕末期の肝付尚五郎はこの家の人で、のちの小松帯刀です。
肝付家は伊集院幸侃の三男を養子に迎えて跡継ぎにする予定でしたが、幸侃上意討ち、庄内の乱のため、養子縁組を解消し、当主兼寛の庶弟だった兼篤が家督を相続したといういきさつがあります。

ほかにも、一所衆では禰寝、喜入、町田、伊集院などがいますが、どうだったのかよくわかりません。

考えてみれば、豊臣政権時代から関ヶ原合戦までの変動で、一所衆も①別家・絶家、②衰退したり、③当主が幼少だったりする家が多いですね。
たとえば、①だと、垂水家は以久の系統が佐土原島津家となって独立していますし、権勢を振るった伊集院幸侃家は滅亡しています。②は当主が関ヶ原で討死した入来院家、有信が義久の老中となった山田家、③は秀吉の命で自害した歳久の日置家は孫の常久は幼少です。
ですから、まとまった兵を動員できる一所衆は決して多くないことがわかります。

それで、次の疑問はこれらの一所衆やトカラ列島の七島衆を合わせても、数字上は3000人にとても届かないことです。せいぜい2000人ちょっとです。
当初の1500人の軍役を課せられた諸家では、1~2割程度人数を上乗せして出陣していますが、それを加算しても、3000人には届きません。

私は兵数の倍増をもたらした理由のひとつとして、これまで指摘されていない点があると思っています。それは新知や恩賞を目当てに参陣した下級武士たちが加わっているからだと思っています。断片的ですが、そのことを裏づけるのではないかと思われる史料的な根拠もあります。
この点については、琉球本島への侵攻あたりで書こうかと思っています。しかも、彼らの存在が琉球本島での掠奪・狼藉をひどくした一因ではないかと考えています。

次回は、先日訪問した徳之島での戦いや島民たちの動向について書いてみたいと思います。

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【2009/05/11 22:30】 | さつま人国誌
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ばんない
連載拝見しましたが、いよいよ山にかかってきたという感じですね。また、前回までこちらのコラムで話題になっていた話を更に深く解説して下さったような内容で興味深く読みました。

>「琉球入ノ記」には、副将の平田増宗が樺山に加勢を申し出たが、樺山は適当に追い払うから必要ないと断わったという。
こちらのコラムを見ていたせいもあるのでしょうが、この一行をニヤニヤしながら読んでしまいました。この平田が後に暗殺されて、それに中村半次郎の先祖が関わっていると言う話があって、「さつま人国志」の最初のころに戻る…のですが、最初の頃の連載、webからは削除されてしまったんですね…。

Re: 削除されてますね
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

平田増宗はご存じのとおり、非業の最期を遂げたため、家の史料が残っていません。
彼が日記を書いていたら、上井覚兼日記に優るとも劣らない史料だったと思いますし、琉球侵攻についても何か記録を遺していたかもしれませんね。

拙コラム、私も改めて確認してみましたが、前半部分はもう載っていないようですね。
やはり100回を超えると、容量的に難しいのでしょうか。
あるいは、読みたかったら、刊本を読めということかもしれません(爆)。


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この記事へのコメント
連載拝見しましたが、いよいよ山にかかってきたという感じですね。また、前回までこちらのコラムで話題になっていた話を更に深く解説して下さったような内容で興味深く読みました。

>「琉球入ノ記」には、副将の平田増宗が樺山に加勢を申し出たが、樺山は適当に追い払うから必要ないと断わったという。
こちらのコラムを見ていたせいもあるのでしょうが、この一行をニヤニヤしながら読んでしまいました。この平田が後に暗殺されて、それに中村半次郎の先祖が関わっていると言う話があって、「さつま人国志」の最初のころに戻る…のですが、最初の頃の連載、webからは削除されてしまったんですね…。
2009/05/16(Sat) 12:42 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
Re: 削除されてますね
ばんないさん、こんにちは。

平田増宗はご存じのとおり、非業の最期を遂げたため、家の史料が残っていません。
彼が日記を書いていたら、上井覚兼日記に優るとも劣らない史料だったと思いますし、琉球侵攻についても何か記録を遺していたかもしれませんね。

拙コラム、私も改めて確認してみましたが、前半部分はもう載っていないようですね。
やはり100回を超えると、容量的に難しいのでしょうか。
あるいは、読みたかったら、刊本を読めということかもしれません(爆)。
2009/05/17(Sun) 11:24 | URL  | 桐野作人 #-[ 編集]
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