歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨16日午後、表題の講座に出講。
場所はJR三鷹駅前の同大学のサテライト教室です。

テーマは「大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康」。
毎週土曜日開催の全10回講座です。

先週9日が第1回でした。今回は、

第2回:御館の乱―景勝と景虎の抗争―

謙信の死による家督問題で、景勝と景虎の双方が何を大義名分にしたのかを見て、どちらかといえば、景虎が後継者に擬せられていた可能性があり、その意味では、景勝の春日山城本丸占拠は一種のクーデターであり、家督継承者としての正統性が景虎より欠落していたゆえの行動ではないかと指摘しました。

天正3年(1575)正月、上杉謙信が長尾喜平次に宛てた2点の書状があります。これは、謙信が喜平次に、上杉名字・弾正少弼の官途・景勝の名乗りという三点セットを与えたものです。
これは謙信の文書原本ではなく、写しだというのが曲者で、景勝が自分の家督継承の正統性を主張するために、自分で作成したものだという説もあります。
もっとも、景虎自身が御館の乱のはじめに、景勝のことを「少弼」と呼んでいるので、景勝がその頃までに弾正少弼の官途を名乗っていたのはほぼ間違いなく、となると、この三点セットは謙信存命中に実際に景勝に与えられていたのではないかと思われます。

講座終了後、受講者の方から、この写真版の写しと、景勝がのちに嫡男定勝(通称:喜平次)に宛てた書状の写真版を持参されていて、ともに「喜平次」の字がそっくりなので、謙信書状は景勝自身が写したものではないかと指摘されました。わざわざ持参していただき、有難うございました。

講座のなかで、春日山と御館をめぐる合戦がどこで戦われたのかについて、春日山・御館周辺の地図を示して、景勝の感状に見える大場・八幡・居多浜などの地名がいずれも御館に近いことから、景勝方優勢、景虎方劣勢だったのはないかと説明しました。
その典拠となる感状もレジュメに掲載しておけばよかったというのが反省点でした。

これは個人的な疑問ですが、前関東管領の上杉憲政と景虎一子道満丸が景勝方に殺害された一件は一次史料では確認できないのでしょうかね? 勉強不足のためか、管見のかぎり見当たりませんでした。
『越佐史料』には記事があるようですが未見です。一次史料なんでしょうかね? また景勝の伝記史料『景勝公一代略記』にも記事があるようですが、これは米沢市立図書館所蔵の謄写本のようです。
一次史料が残っていなかったとしたら、やはり勝者の景勝側に都合が悪い事件だったせいでしょうね。
この一件について、詳しい情報をご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

あと、解説の補足です。
レジュメに載せた、河田禅忠(長親)が栗林某(政頼か)に宛てた書状(7月27日付)。景虎が武田勝頼の和睦仲介を不承不承受け容れたのではないかとする一節ですが、

仍 三郎殿御和睦之儀、従甲陣被取候、併依難題被仰放旨、尤無御余儀奉存候、雖然、入眼之筋目被聞召届、御国御安全奉念候、(後略)

このうち、「」の字、東国戦国史の史料によく出てくる言葉であることは承知していたのですが、「する」ではなく「つくろう」と読んだほうがいいと思います。読みがとっさに思い浮かばず、失礼しました。
「取り刷う」=「取り繕う」と、ほとんど同じ意味だと思いますが、この場合は斡旋するとか、取り計らうというニュアンスでしょうか。

次回は、いよいよ直江兼続の登場です。
あと2回くらいでドラマの進行に追いつくかも知れません。

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【2009/05/17 10:28】 | 武蔵野大学社会連携センター
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上杉憲政
板倉丈浩
こんばんは。
憲政・道満丸の最期ですが、一次史料はなさそうですね。
『景勝公一代略記』以外では『越後古実聞書』『米沢地名選』等に記述があるようですが、これらは憲政を殺害した2人の武士が不幸な末路を遂げたというエピソードがメインです。

参考文献:冨田勝治「上杉憲政の発給文書について」(『関東中心戦国史論集』名著出版)

あと、「刷」の字は「あつかふ」と読むので、取刷=取扱=仲裁でいいんじゃないでしょうか。


桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

いろいろご教示感謝です。

「刷」ですが、以前、東国の戦国史に関する論文か何かで「つくろう」と解説したのを見た覚えがあったのですが、「あつかう」もありましたか。
意味的にはこちらのほうがよさそうですね。
有難うございます。

あつかう? つくろう?
御座候
山田邦明『戦国のコミュニケーション』によると、『色葉字類抄』では「ツクロウ」、『温故知新書』では「アツカウ」と読んでいるとのことです。戦国時代の書状では「調停」の意味で用いることが多いようです。

御礼
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

「刷」についてのご教示感謝です。
「つくろう」の読みも間違いではなかったわけですね。
意味としては「扱」「口愛」と同じのようですね。
日国にも立項されていないので、どうしたものかと思っていました。
山田さんの著作は購入した覚えがあるのですが、見当たりません(泣)。
『色葉字類抄』『温故知新書』は中世の辞書のようですね。影印本はあっても活字にはなっていないようで。『節用集』などど似たような辞書でしょうか。
このあたりまで調べる必要があるとは、奥が深いですね。


いろは
御座候
『伊呂波字類抄』なら『復刻日本古典全集』で活字化されていますけどね・・・

御礼
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

遅くなりましたが、ご教示多謝です。
活字になっているんですね。勉強不足で知りませんでした。

家督
御館
「伊呂波手本」から「手紙の書き方」(意訳)、
二番目の兵力保持の景勝に対し、
兵力もほとんど無く役付きも不明な三郎影虎が、なぜ景勝と家督を争う対等な相手なのかという疑問をいつも持ちます。
景勝に同情します。
 人質からの養子で謙信の姪をめとる身分となったのは上条政繁だっていますし、
信濃から庇護を求めて来た村上義清の子息・国清(後の山浦景国)も謙信は養子にしている。
それら養子の中でも三郎景虎は保護された形で一番権力が低い。
 本当にいつも疑問です。
上杉家中内での上田長尾家臣団の数と力の台頭に危機感や不満を持っていた家臣達が、
三郎景虎を担ぎ上げたにすぎないと思いますが。
だからこそ「不慮の事」という他大名宛ての景勝書状が残るのではないですか。
直江信綱などの謙信の側近は景勝側に付きましたよね。

景虎
桐野
御館さん、初めましてでしょうか?

景虎と景勝の抗争については、ご指摘のとおりでしょうね。
やはり上田衆が実権を握るのを容認できない勢力、古志上田衆や揚北衆が多い気がしますが、彼らが景虎を担いだのは間違いないところでしょうね。

ただ、景虎の権力は小さいかもしれませんが、地位は高いと思いますし、バックに北条氏がおり、しかも上野衆の多くが景虎の味方だったことを考えると、なかなか侮れない勢力だったと思います。

しかし、北条氏が三国峠を越えられなかったのと対照的に、川中島口から武田勝頼が景勝の味方をしたために、勢力バランスが崩れたんでしょうね。



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この記事へのコメント
上杉憲政
こんばんは。
憲政・道満丸の最期ですが、一次史料はなさそうですね。
『景勝公一代略記』以外では『越後古実聞書』『米沢地名選』等に記述があるようですが、これらは憲政を殺害した2人の武士が不幸な末路を遂げたというエピソードがメインです。

参考文献:冨田勝治「上杉憲政の発給文書について」(『関東中心戦国史論集』名著出版)

あと、「刷」の字は「あつかふ」と読むので、取刷=取扱=仲裁でいいんじゃないでしょうか。
2009/05/17(Sun) 21:42 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
板倉丈浩さん、こんにちは。

いろいろご教示感謝です。

「刷」ですが、以前、東国の戦国史に関する論文か何かで「つくろう」と解説したのを見た覚えがあったのですが、「あつかう」もありましたか。
意味的にはこちらのほうがよさそうですね。
有難うございます。
2009/05/18(Mon) 18:24 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
あつかう? つくろう?
山田邦明『戦国のコミュニケーション』によると、『色葉字類抄』では「ツクロウ」、『温故知新書』では「アツカウ」と読んでいるとのことです。戦国時代の書状では「調停」の意味で用いることが多いようです。
2009/05/20(Wed) 00:16 | URL  | 御座候 #-[ 編集]
御礼
御座候さん、こんにちは。

「刷」についてのご教示感謝です。
「つくろう」の読みも間違いではなかったわけですね。
意味としては「扱」「口愛」と同じのようですね。
日国にも立項されていないので、どうしたものかと思っていました。
山田さんの著作は購入した覚えがあるのですが、見当たりません(泣)。
『色葉字類抄』『温故知新書』は中世の辞書のようですね。影印本はあっても活字にはなっていないようで。『節用集』などど似たような辞書でしょうか。
このあたりまで調べる必要があるとは、奥が深いですね。
2009/05/20(Wed) 08:49 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
いろは
『伊呂波字類抄』なら『復刻日本古典全集』で活字化されていますけどね・・・
2009/05/23(Sat) 20:07 | URL  | 御座候 #-[ 編集]
御礼
御座候さん、こんばんは。

遅くなりましたが、ご教示多謝です。
活字になっているんですね。勉強不足で知りませんでした。
2009/05/30(Sat) 00:33 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
家督
「伊呂波手本」から「手紙の書き方」(意訳)、
二番目の兵力保持の景勝に対し、
兵力もほとんど無く役付きも不明な三郎影虎が、なぜ景勝と家督を争う対等な相手なのかという疑問をいつも持ちます。
景勝に同情します。
 人質からの養子で謙信の姪をめとる身分となったのは上条政繁だっていますし、
信濃から庇護を求めて来た村上義清の子息・国清(後の山浦景国)も謙信は養子にしている。
それら養子の中でも三郎景虎は保護された形で一番権力が低い。
 本当にいつも疑問です。
上杉家中内での上田長尾家臣団の数と力の台頭に危機感や不満を持っていた家臣達が、
三郎景虎を担ぎ上げたにすぎないと思いますが。
だからこそ「不慮の事」という他大名宛ての景勝書状が残るのではないですか。
直江信綱などの謙信の側近は景勝側に付きましたよね。
2010/05/08(Sat) 06:08 | URL  | 御館 #KVSV0Bf2[ 編集]
景虎
御館さん、初めましてでしょうか?

景虎と景勝の抗争については、ご指摘のとおりでしょうね。
やはり上田衆が実権を握るのを容認できない勢力、古志上田衆や揚北衆が多い気がしますが、彼らが景虎を担いだのは間違いないところでしょうね。

ただ、景虎の権力は小さいかもしれませんが、地位は高いと思いますし、バックに北条氏がおり、しかも上野衆の多くが景虎の味方だったことを考えると、なかなか侮れない勢力だったと思います。

しかし、北条氏が三国峠を越えられなかったのと対照的に、川中島口から武田勝頼が景勝の味方をしたために、勢力バランスが崩れたんでしょうね。

2010/05/08(Sat) 21:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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