歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第108回
―徳之島島民、激しく抵抗―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

琉球侵攻一件の連載ももう7回目になります。
ようやく徳之島の戦いまで漕ぎ着けましたが、まだ琉球本島での戦い、尚寧王の大和連行やその後の琉球仕置などがまだ残っています。最終的には10回を超えるかもしれません。

今回は、先日訪れた徳之島での戦いを書きました。
実際に現地を踏査したので、少しは地に足が着いたレポートになっているのではと思っていますが。

とくに、講演会での弓削政己氏の講演資料には教えてもらうところが大でした。
徳之島の戦いについての新史料は、琉球遠征に参陣した肝付家の史料「肝付家文書」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二』所収)です。

この史料によって、遠征軍の一翼だった肝付兼篤の出兵の様子がある程度わかります。とくに従来、秋徳湊の戦いが強調されてきましたが、肝付勢が先行して徳之島東北端と西岸に着岸し、とくに西岸の湾屋で戦闘をしていることはあまり知られていませんでした。

【以下の4行は後筆の追加です】
そうそう、この湾屋の港は徳之島空港のすぐ近く(南)だったので、折良く撮影してきました。
島津軍の侵攻から250年後、一人の大男がここから上陸しました。西郷吉之助です。西郷が上陸したという痕跡が写真にわずかに残っています。ご覧下さい。
西郷橋





もっとも、このとき、肝付勢は兼篤の本船1艘と従者の軍船7艘(これは西岸湾屋に着岸)だと書かれていますが、山川を出航した時点では、兼篤の本船を含めて3艘のはずですから、数が合いません。七島衆などの船も紛れ込んでいたのでしょうか。

島津軍を迎え撃った徳之島島民ですが、その指導者の「佐武良兼」(さぶらかね)が「粟粥」を敵の膝に撒けと叫んでいるのが興味深いですね。
粟粥は奄美諸島においては、悪霊退散の儀式に使われる呪術的な意味あいがありました。ユタかノロが使ったものでしょうか?

東アジアにその武勇が知られた「鬼石曼子」は名前からして「悪鬼」のようですが、やっぱり粟粥では勝てなかったですねえ。
でも、彼らが大真面目に粟粥で島津軍を撃退しようと考えた、その精神世界には興味があります。

次回はいよいよ沖縄本島の戦いになりそうです。

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【2009/05/18 17:51】 | さつま人国誌
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粟粥
ばんない
こんにちは。
粥かけは一種のまじないだったということですが、熱い粥を足にぶっかけたら、やけどしてそれなりに戦闘妨害にはなるかも知れませんね。効かなかったようですが。

古代日本に類似の習慣がないかと思ってちょっと調べたのですが、パッと出てこないですね。もしかしたら中国など大陸から伝来の風習でしょうか。それとも東南アジアなど南方渡来の風習なんでしょうか?

粟粥
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

遅レスですみません。

粟粥については、徳之島で近年紹介された史料に興味深いことが書かれているそうです。
それによれば、このとき、島津軍将兵の膝に粟粥を浴びせて火傷させようとしたのではなく、島津軍が来襲したとき、ちょうど朝食時間帯で、島民が粟粥の食べかけを残したまま、あわてて逃げたので、島津軍が残っていた粟粥を食べて元気になったという、現実的な話になっています。

この史料、「三家録」といい、幕末期に成立した史料らしいです。まあ、この説明のほうが納得しやすいですけどね。


ばんない
こんばんは。
なるほどそちらの方が現実味がありますね。当時の徳之島はそんなに豊かな島でもなかったでしょうし、貴重な食料を武器に使うというのはちょっと考えにくいです。
でも徳之島が一番激戦だったという事実とあまりにそぐわないので脚色されたんでしょうか?それはそれで興味深いものが背景にありそうですね。




-
>やっぱり粟粥では勝てなかったですねえ。

じゃあ何なら勝てるんですかねぇ。数は薩摩の方が上。離れても近づいても薩摩の方が上。私は機関銃持たせたら勝てると思いますねぇ。でもそんなもの17世紀にはありませんしねぇ。
使えるものは何でも使うのは当たり前だと思いますがねぇ。もしくは速攻土下座するか。王府みたいに(笑)

>まあ、この説明のほうが納得しやすい

あなたの思考回路に納得できませんねぇ。琉球入ノ記とは全然別の話になっちゃってるじゃないですか?熱した粥をかけるのは上田城攻防戦でやってるらしいですねぇ。あと熱した油をかけるのは世界中でやってますねぇ。ユダヤ戦記には、かけた本人による詳しい記述がありますねぇ。
ま、薩摩兵が熱した粥をかけられても火傷しない鉄の皮膚をもっているというなら話は別ですがねぇ。


-
>貴重な食料を武器に使うというのはちょっと考えにくいです。

あれ?貴重な農耕器具を武器に使うのは考えられるんですか?ここで使わなかったらどうせ敵に食われるorこっちが死んで食う必要もなくなるってわかってます?もっと真剣に考えましょうよ。

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この記事へのコメント
粟粥
こんにちは。
粥かけは一種のまじないだったということですが、熱い粥を足にぶっかけたら、やけどしてそれなりに戦闘妨害にはなるかも知れませんね。効かなかったようですが。

古代日本に類似の習慣がないかと思ってちょっと調べたのですが、パッと出てこないですね。もしかしたら中国など大陸から伝来の風習でしょうか。それとも東南アジアなど南方渡来の風習なんでしょうか?
2009/05/23(Sat) 14:18 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
粟粥
ばんないさん、こんばんは。

遅レスですみません。

粟粥については、徳之島で近年紹介された史料に興味深いことが書かれているそうです。
それによれば、このとき、島津軍将兵の膝に粟粥を浴びせて火傷させようとしたのではなく、島津軍が来襲したとき、ちょうど朝食時間帯で、島民が粟粥の食べかけを残したまま、あわてて逃げたので、島津軍が残っていた粟粥を食べて元気になったという、現実的な話になっています。

この史料、「三家録」といい、幕末期に成立した史料らしいです。まあ、この説明のほうが納得しやすいですけどね。
2009/05/30(Sat) 00:32 | URL  | 桐野作人 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。
なるほどそちらの方が現実味がありますね。当時の徳之島はそんなに豊かな島でもなかったでしょうし、貴重な食料を武器に使うというのはちょっと考えにくいです。
でも徳之島が一番激戦だったという事実とあまりにそぐわないので脚色されたんでしょうか?それはそれで興味深いものが背景にありそうですね。

2009/05/30(Sat) 19:24 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
>やっぱり粟粥では勝てなかったですねえ。

じゃあ何なら勝てるんですかねぇ。数は薩摩の方が上。離れても近づいても薩摩の方が上。私は機関銃持たせたら勝てると思いますねぇ。でもそんなもの17世紀にはありませんしねぇ。
使えるものは何でも使うのは当たり前だと思いますがねぇ。もしくは速攻土下座するか。王府みたいに(笑)

>まあ、この説明のほうが納得しやすい

あなたの思考回路に納得できませんねぇ。琉球入ノ記とは全然別の話になっちゃってるじゃないですか?熱した粥をかけるのは上田城攻防戦でやってるらしいですねぇ。あと熱した油をかけるのは世界中でやってますねぇ。ユダヤ戦記には、かけた本人による詳しい記述がありますねぇ。
ま、薩摩兵が熱した粥をかけられても火傷しない鉄の皮膚をもっているというなら話は別ですがねぇ。
2014/01/19(Sun) 16:10 | URL  |  #-[ 編集]
>貴重な食料を武器に使うというのはちょっと考えにくいです。

あれ?貴重な農耕器具を武器に使うのは考えられるんですか?ここで使わなかったらどうせ敵に食われるorこっちが死んで食う必要もなくなるってわかってます?もっと真剣に考えましょうよ。
2014/01/19(Sun) 16:26 | URL  |  #-[ 編集]
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