歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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昨夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。

特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」第6シリーズの第3回。
今回のテーマは表題のとおり。

この間、数度にわたって、四侯会議の前段のいきさつを見てきたが、今回ようやく本番に入る。
それでも、その前に朝廷の人事問題に触れざるをえなかった。
これは英国公使パークス一行の京師近辺の通行をきっかけに、攘夷派の少壮公家の脅迫に屈した摂政二条斉敬が通行を黙認した佐幕派の両役(議奏、武家伝奏)4人を罷免したのに伴い、その後任を誰にするかという、朝廷、幕府、薩摩の駆け引きである。

とくに薩摩藩では、この一件を四侯会議の成否に関わる重要な案件だと位置づけて、大久保一蔵が中心となり、朝廷筋(二条摂政や近衛家、有栖川宮など)へ猛烈な運動を展開していた。

今回、強調したかったのは、それまで薩摩藩と一心同体といってよかった近衛忠煕・忠房父子が薩摩藩強硬派(小松・西郷・大久保)に反発し、距離を置きはじめたことである。
近衛父子は大久保の強烈な働きかけに弱り果て、越前藩の松平春嶽や中根雪江に泣きつき、薩摩藩を説得してくれるよう依頼するほどだった。
薩摩藩では一会桑寄りの二条摂政を忌避しており、その更迭が無理なら、関白同等の内覧に近衛忠房をあてようとしていたようである。
しかし、忠房は一種の「恐怖体質」、性格的に弱い人で、もし内覧になったら、薩摩藩の要求に耐えきれなくなり、パニックを起こすのが明らかだったから、内覧就任を回避したいと考えていたという。

大久保あたりが策定した新しい両役人事案は旧長州系尊攘派、のち討幕の密勅に署名する王政復古派で固めた、あまりに露骨なものだった。とくに中御門経之・大原重徳という激派公家を両役に押しこもうとしていた。近衛家は、この人事案を受け容れれば、逆に徳川慶喜が罷免された4人の復職を要求してくるから、幕府と薩摩の板挟みになるのは目に見えている。
それに、中御門・大原の2人は故・孝明天皇からも激しく忌避された人物であり、到底この人事案は受け容れられないとして拒んだ。
二条摂政もまた、2人の排除は孝明天皇の「御遺勅」であるとして、近衛父子と同じ意見だった。

そのため、薩摩藩もごり押しできず、結局、正親町三条実愛・徳大寺実則・長谷信篤の3人という穏当な人事で妥協した。このうち、正親町三条はのちの討幕の密勅の署名者の1人である。

人事問題が決着したところで、慶応3年(1867)5月14日、二条城に四侯(久光・春嶽・容堂・宗城)が登城して、慶喜との間で会議を開く。
議題は兵庫開港と長州処分の2点。
慶喜は兵庫開港を重視し、四侯は長州処分を先にすべきだと主張する。

慶喜はすでに4カ国の公使に兵庫開港(1868年1月1日を期して)を約束してしまっており、何としてもこの件で四侯から同意を取りつけたうえで、勅許を得ようという目論見だった。

対する四侯側は、長州処分を解決して国内統一を果たしたうえで、兵庫開港に臨むべきだという意見で、優先順位が重要だという立場だった。
これは長州寛典によって、長州藩の復権を実現すると同時に、重要政策における最終的な意志決定を幕府から四侯を初めとする諸侯会議に移そうという試みでもあった。

要は、来るべき新政体のありようとその主導権の争奪戦だったのである。

今回は四侯会議のいきさつを、いちばん詳しい越前藩の『続再夢紀事』を中心に見ていった。
これによれば、慶喜と四侯の間で、春嶽がコーディネーターというか、議事進行役的な立場にあることがわかる。四侯の他の3人が外様なのに対して、春嶽は親藩で慶喜に近いことから当然の役回りにみえる。
もっとも、四侯会議の行く末は春嶽の胸先三寸にかかっていたように思える。つまり、優先順位で対立する両者の間で、春嶽が妥協点を提起し、事実上、慶喜に味方するのである。

次回はそのあたりを見ていきたいと思う。

今回は『続再夢紀事』のなかに面白い記述があった。
ひとつは、久光の性格のことで、久光は酒を呑まず「寡言」(無口)であること。慶喜が久光とサシで会談するのは気詰まりだと告白しているのが面白い。

もうひとつは、のちの薩摩藩討幕派の台頭の徴候がすでに表れていること。近衛忠煕は「昔の長は今の薩なり」と述べ、いまの薩摩藩はまるで文久年間の長州藩のようだと忌避している。とくに「薩の市蔵輩(大久保)」。
また、中根雪江と原市之進(慶喜側近)の会談でも、小松と大久保が「姦雄」として警戒されている。しかも、2人の性格の違いまで評されている。面白いので紹介する。

「原云う、薩藩中、小松帯刀は能く世とともに変化する所あれども、大久保一蔵は頑然動かず、ついには天下の害を惹き起すべし、中根云う、いかにも帯刀・一蔵は姦雄なり、故にこの姦雄をして手を空しくせしめられざれば、天下は治まらざるべし」

小松と大久保はともに「姦雄」だけど、性向は異なる。
小松は融通無碍、大久保は頑固一徹という評価らしい(笑)。
同時代人の人物評として無視できない。

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【2009/05/20 10:07】 | てらこや
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お公家さん達
ばんない
去年は大河関連かこちらのブログも維新ネタが多かったのですが、今年は琉球侵攻という重くてきついネタが続いているので、たまに出てくる維新ネタが新鮮に感じられます。特に今回のような「会議で揉めている」とかのレベルは、本当に和やかでほんわかするように感じられます(違)

それにしても、お話を聞いている限りでは、近衛家と鹿児島藩主導部(いわゆる強硬派)との不和とか、久光と慶喜の性格の不一致とか、結構個人的な感情がこれからの歴史を動かしていったようにも見えますね。

>近衛親子
近衛忠熙の筆跡というのを数年前に黄檗の木幡神社で見たことがあるのですが、そんな繊細な人というイメージではなかったですね。東京遷都後もなかなか京都から動かなかった人でしたっけ。後にアジア派の頭として台頭する近衛篤麿や徳川家達夫人になった泰子の養育は忠熙によるもののようですね。泰子は後に息子の夫人になった正子(島津忠義の娘)との折り合いが悪かったことが関係者の本に出てきますが、祖父と鹿児島藩の折り合いが悪くなったこととかが影を落としているのかなとも感じました。
忠房の方は早くに死んでしまったためか、なかなか情報が乏しい人で、性格の弱い人という話は関心を持って読ませていただきました。

>大原重徳
大河ドラマ『翔ぶが如く』でちょっとだけ出てきてましたね。ドラマの好々爺のイメージが強すぎて、そんな過激派公家とは知りませんでした(爆)

>徳大寺実則
西園寺公望の実兄ですね。この人の娘が後に島津忠重の夫人になってますが、こういうところからの縁だったんでしょうか。

>長谷信篤
19代島津家当主・島津光久の後妻を出した平松家の親戚ですね。この人選とは全く関係なさそうですが。

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お公家さん達
去年は大河関連かこちらのブログも維新ネタが多かったのですが、今年は琉球侵攻という重くてきついネタが続いているので、たまに出てくる維新ネタが新鮮に感じられます。特に今回のような「会議で揉めている」とかのレベルは、本当に和やかでほんわかするように感じられます(違)

それにしても、お話を聞いている限りでは、近衛家と鹿児島藩主導部(いわゆる強硬派)との不和とか、久光と慶喜の性格の不一致とか、結構個人的な感情がこれからの歴史を動かしていったようにも見えますね。

>近衛親子
近衛忠熙の筆跡というのを数年前に黄檗の木幡神社で見たことがあるのですが、そんな繊細な人というイメージではなかったですね。東京遷都後もなかなか京都から動かなかった人でしたっけ。後にアジア派の頭として台頭する近衛篤麿や徳川家達夫人になった泰子の養育は忠熙によるもののようですね。泰子は後に息子の夫人になった正子(島津忠義の娘)との折り合いが悪かったことが関係者の本に出てきますが、祖父と鹿児島藩の折り合いが悪くなったこととかが影を落としているのかなとも感じました。
忠房の方は早くに死んでしまったためか、なかなか情報が乏しい人で、性格の弱い人という話は関心を持って読ませていただきました。

>大原重徳
大河ドラマ『翔ぶが如く』でちょっとだけ出てきてましたね。ドラマの好々爺のイメージが強すぎて、そんな過激派公家とは知りませんでした(爆)

>徳大寺実則
西園寺公望の実兄ですね。この人の娘が後に島津忠重の夫人になってますが、こういうところからの縁だったんでしょうか。

>長谷信篤
19代島津家当主・島津光久の後妻を出した平松家の親戚ですね。この人選とは全く関係なさそうですが。
2009/05/23(Sat) 14:05 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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