歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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このところ、講座関係の記事が書けなかったので、日記風に書き留めておきます。

5月30日(土)天晴れ

昼前、JR三鷹駅前の武蔵野大学生涯学習講座に出講のため外出。
某線に乗ったが、うっかりしていたのか、反対側のホームから乗車したみたいで、下北でようやく逆方向に乗ったことに気づく。
いかん、いかん。
時間に余裕をもって出てきたからよかったけど、危ないところだった。

講座は早、4回目。
今回のタイトルは「上杉家滅亡の危機―織田信長の侵攻―」
全10回のうち、いちばん守備範囲に近いところだと思う。

天正10年(1582)、上杉景勝と直江兼続が四面楚歌、内憂外患の状態にあったことを、いろんな史料で解説。
個人的には、滅亡直前の武田氏との同盟も、じつはギクシャクしていたというあたりが売りだったのだけど。上杉方がひそかに安土に使者を送って、和睦を模索していたことがわかる。そして、武田勝頼側近の跡部勝資がそれを察知していて、上杉方に皮肉を述べているのが面白い。

いちばん力を入れたのは、明智光秀が使者を送ってきたことを記した、河隅忠清書状。
拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)でも触れたことがある。
先日の大河ドラマでも、この書状が取り上げられていて、兼続が「誰に馳走すればいいんだ」と訳のわからないことを口走っていたが、この書状にある文言をほぼ忠実にしゃべっていたのが印象的だった。
もちろん、誰が誰に馳走するかわからないような手紙を光秀が書くはずがないだろうと、内心、ツッコミを入れていたけど……。

しかし、ドラマではこの書状が本能寺の変の前に到着していたという説を採用していた。
今回の講座では、そういう見方が成立しないことを詳しく説明した。
この書状は原本がなく、写しが2種類ある。それが収録されている『歴代古案』と『覚上公御書集』を示して、両者の間で、宛所、日付、文言の違いがあることなどを解説した。
まあ、光秀の使者が織田軍に囲まれている魚津城に着いたとすること自体、不自然だし、さらに、天神山に在陣して魚津城にいない須田満親がその知らせを受けたということがもっとおかしい。常識的に考えたら、本能寺の変以前に光秀の使者が来るはずがないんだけどね。

講座終了後、そのまま電車に乗れば、明治大学で開かれる明治維新史学会の例会に間に合うのがわかっていた。しかも、今回の報告が有馬新七あたりだったので、拝聴したかったが、下記のレジュメ作りのため、泣く泣く断念。
あとで、参加した方に聞くと、二次会がなかなか面白かったそうだ。


6月2日(火)天晴れ

岡山空港を15:00前に飛び、羽田から神保町の「てらこや」教室まで直行。
レジュメは事前にPDFファイルで送付しておいたから、すでに机の上に並べてあった。

今シリーズは「小松帯刀と幕末薩摩藩」第6クール。
今回は4回目で、慶応3年(1867)5月の四侯会議のつづき。

二条城での徳川慶喜と四侯の一度目の会議が物別れに終わってから、仕切り直しと第2回会議のあたりについて、越前藩の史料である『続再夢紀事』と『越前藩幕末維新公用日記』を中心に読む。

今回は土佐の山内容堂の動きが焦点だった。
病中の容堂は松平春嶽を呼び出して「一の密事」を打ち明ける。
容堂は朝廷と幕府が別々に会議を開くと、その間を周旋するときに「姦人」が策動する余地があるので、朝幕が一緒に会議を開けばよいと主張して、春嶽の合意を取りつける。
四侯会議が慶喜との対立ばかりではなく、公議政体を公家と諸侯で仕切り、陪臣とくに激派の藩士を排除しようとする側面をもっていることも強調する。

四侯のなかで、いちばん損な役回りになったのは島津久光。
容堂と春嶽が「一の密事」を媒介にひそかに結託したが、そのことを久光と伊達宗城には打ち明けていない。すでに四侯の間でも綻びと色分けの違いが生じていた。
西郷吉之助が久光に建言書を提出している。西郷は、長州処分と兵庫開港の順番が大事であること、また長州寛典こそが世論の趨勢であることを説き、その重要性を噛んでふくめるように久光にレクチャーしている。それも読んだ。かつて久光が西郷を忌避していた様子はうかがえない。久光は西郷のアドバイスに従っている。

実際、『続再夢紀事』のなかで、久光の話した内容が詳しく書かれていたが、西郷の建言書と同一の文言がいくつか出てくることから、久光は西郷のレクチャーに忠実に話したことがわかる。このあたり、面白い。

慶喜との会見では、彼と四侯の対立を調整しようと、春嶽が長州処分と兵庫開港を同時に取り組んだらよいのではと提案すると、久光と宗城が思わず賛成してしまった部分に思わず笑ってしまった。

四侯のなかでも、久光が次第に孤立していく趨勢が読み取れた。
次回は四侯会議の空中分解と、それを受けた薩摩藩の動向を押さえるつもり。

なお、『越前藩幕末維新公用日記』に、京都御所の清涼殿の一角にある公卿の間(あるいは諸大夫の間)の「仮建」が出てきたので、京都御所の略図と近年京都御所見学したときの写真を提示して、解説する。
公卿・公家・諸大夫が控える三間(虎の間・鶴の間・桜の間)が畳の間で、壁や屏風があるのに対して、陪臣(藩士層)の控えの間である「仮建」は狭い板の間で、吹きさらしの粗末な部屋であることを説明。
京都御所空間における厳然たる身分格差が視覚的に表現されており、王政復古政変はこの差別的な身分構造をも解体する意図があったのである。

講座終了後、いつも二次会をやるが、今回は岡山調査の疲れもあったので遠慮した。受講生のみなさん同士で行かれたようである。

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【2009/06/04 23:08】 | 日次記
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