歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第111回
―島津軍、首里城に迫る―

連載が更新になりました。
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このテーマも連載が10回目になりました。
当初、5、6回のつもりでいたのですが、奄美、徳之島と取材を重ねたこともあり、情報が格段に増えたことが長くなった一因です。

考えてみれば、近世初期のこの一件が最終的な島津氏の領国形成となり、その後、77万石という代名詞(実際は72万余石ですが)の発祥にもなっています。
77万石のなかに奄美や琉球分の知行高が含まれていることを知る人はそれほどいないのではないか、また知っていても、なぜそうなったか経緯を知る人は少ないのではないでしょうか。

今回は島津軍がついに首里城に迫ったところを書きました。
戦闘が激しかったのは那覇周辺で、首里城はそれほどではなかったかもしれません。ただ、史料があまり残っていないので、詳しいことはわかりません。

那覇港口で、琉球側の石火矢が火を噴き、島津軍の軍船を沈没させたことが「琉球入ノ記」に書かれています。これはトカラ列島の七島衆の影佐という人物によって書かれたといわれていますから、ほぼ史実だと思います。
ただ、この記録は時系列の混乱があるのかと、私は思い込んでいました。というのは、このとき、王府側の砲撃を避けようとしたのか、島津軍は那覇港ではなく、運天から上陸したと書かれていたからです。

運天といえば、今帰仁の近くにある港がいちばん有名です。
私はてっきりそこだと思い込んでしまったのですが、それなら、島津軍は最初から那覇に押し寄せてきたことになり、通説と食い違います。
それで考えたのですが、どうも今帰仁の近くではなく、那覇の近くに同名の運天という地名がある、あるいはあったのではないかという気がするのですが、現在のところ、発見できていません。
もしご存じの方がおいでなら、ご教示いただければ幸いです。

前回、島津軍の総大将樺山久高が今帰仁で、琉球王府側との和睦交渉に応じず、会談は那覇でやると告げました。そのことは那覇まで戦闘がつづくということを意味します。
なぜ樺山が交渉に応じなかったのか、その理由がよくわかりません。

渡海直前、島津家久が樺山に琉球侵攻の基本方針を定めた五カ条の「」を与えています(『旧記雑録後編四』545号)。
その第一条には次のように書かれています。

「一、琉球よりあつかいを入れ候はば、異儀(異議)なくその筋に談合あるべき事」

家久は琉球側が「あつかい」(口+愛)、つまり和睦を申し入れてきたら、すぐさま応じて談合するように命じています。これは、家久がもともと短期間の作戦を想定していたので、長期戦にしないための措置でした。
ところが、樺山は家久の命に背いています。
琉球王府側の使節には、三司官の一人、名護親方や高僧がいました。交渉相手としての資格を十分備えています。
樺山が主命に逆らってまで和平を拒絶した理由がよくわかりません。

・琉球側が時間稼ぎをするように見えた。
・那覇・首里に近づかないと、有利な形での和平が結べない。たとえば、首里城を開城させられないと意味がない。
・今後のためにも、島津軍の武威を示して、琉球王府や人民を威圧しておくべきだ。

いろいろ考えられますが、そんな事情でもあったのでしょうかね?

そのあたりの答えが見えるのが、島津軍の首里城占領のような気がします。
それは次回に書く予定です。

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【2009/06/08 13:03】 | さつま人国誌
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>これはトカラ列島の七島衆の影佐という人物によって書かれたといわれていますから、ほぼ史実だと思います。

(爆笑)影佐ってのをそこまで信用する理由はなんですか?喜安日記、渡海日々記、肝付兼篤書状と矛盾しまくりじゃないですかwww
まあ琉球入ノ記がデタラメってのを認めちゃったら、奄美の3000人とか、久米村城の3000人とか、那覇港の石火矢とか、琉球軍(失笑)の見せ場が一切合財なくなっちゃいますからねぇ。ほぼ史実(笑)と信じたい気持ちは分かりますがねぇwwwでもそんなのがいたら喜安や肝付兼篤や市来孫兵衛が揃いも揃って見逃すなんてありえませんからwww

>樺山が主命に逆らってまで和平を拒絶した理由がよくわかりません。

おいおいwww「那覇で談合しよう」って返答してるじゃないですかwww樺山譜中には「信用できなかったが、命じられたとおりに許容させた」と明記してあるしwww
今帰仁で停止しなきゃあなた的には和平にならないんですかぁ~?そんな条件は家久は一切つけてませんよねぇ。今帰仁で止まったら飯はどうするんですかぁ?北部なんて木の葉しかありませんよ?

よっぽど薩摩を戦争大好きな事にしたいんですねぇ。実際には数年にわたる平和維持の努力を完全無視して実力行使を招いたのは琉球側でしょ?

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この記事へのコメント
>これはトカラ列島の七島衆の影佐という人物によって書かれたといわれていますから、ほぼ史実だと思います。

(爆笑)影佐ってのをそこまで信用する理由はなんですか?喜安日記、渡海日々記、肝付兼篤書状と矛盾しまくりじゃないですかwww
まあ琉球入ノ記がデタラメってのを認めちゃったら、奄美の3000人とか、久米村城の3000人とか、那覇港の石火矢とか、琉球軍(失笑)の見せ場が一切合財なくなっちゃいますからねぇ。ほぼ史実(笑)と信じたい気持ちは分かりますがねぇwwwでもそんなのがいたら喜安や肝付兼篤や市来孫兵衛が揃いも揃って見逃すなんてありえませんからwww

>樺山が主命に逆らってまで和平を拒絶した理由がよくわかりません。

おいおいwww「那覇で談合しよう」って返答してるじゃないですかwww樺山譜中には「信用できなかったが、命じられたとおりに許容させた」と明記してあるしwww
今帰仁で停止しなきゃあなた的には和平にならないんですかぁ~?そんな条件は家久は一切つけてませんよねぇ。今帰仁で止まったら飯はどうするんですかぁ?北部なんて木の葉しかありませんよ?

よっぽど薩摩を戦争大好きな事にしたいんですねぇ。実際には数年にわたる平和維持の努力を完全無視して実力行使を招いたのは琉球側でしょ?
2014/01/19(Sun) 16:21 | URL  |  #-[ 編集]
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