歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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武田晴信の官途から、息子の勝頼の官途を思い出したので、少し書いてみたい。

武田晴信の官途名が大膳大夫だったことは間違いない。少なくとも晴信本人が「大膳大夫晴信」と名乗った書状が存在するからである。

問題は左京大夫である。管見のかぎり、一次史料で確認できないが、父信虎も祖父信縄も左京大夫を名乗っているから、晴信が名乗ったとしても決しておかしくない。
柴辻俊六氏も典拠を示されていないが、元服と同時にそう名乗ったと、一度は書かれているからには何らかの根拠があるのだろう。不勉強ゆえ、典拠をご存じの方がおいでなら、ご教示願えたらと思う。

これから以降は、私の憶測です。

晴信はおそらく、元服と共に左京大夫を名乗った可能性が高いと思う。柴辻俊六氏によれば、信虎は当初左京大夫の官途を名乗っていたが、天文六年(1537)から陸奥守と受領名を名乗っているという(『戦国人名辞典』)。天文六年は晴信が元服した翌年だから、信虎が晴信に左京大夫を譲って、自分は陸奥守を名乗ったのではないか。そうでなければ、この時期に官途を変えたきっかけが考えにくい。
その後、晴信は左京大夫から大膳大夫へと官途名を変えたわけだが、その契機はおそらく信虎追放ではないだろうか。

で、問題は武田勝頼である。
勝頼は諏訪四郎から武田四郎と名乗りを変えたことは知られるが、官途名を名乗っていたことは、ほとんど知られていないのでないだろうか。

しかも、その官途は二種類あり、左京大夫と大膳大夫である。
たとえば、山科言経の『言経卿記』天正十年三月二十二日条には、武田氏が滅亡し、勝頼・太郎信勝・左馬助信豊の首級が京都に送られてきたことを述べた部分で、勝頼を「武田左京大夫」と記している。
また、上杉景勝宛ての勝頼書状(年次未詳)で、勝頼は「大膳大夫勝頼」と署名している(『戦国遺文 武田氏編』第五巻、3680号)。
なお、『上杉家文書』にもう一点、勝頼が大膳大夫を名乗った書状が収録されていた記憶があるが、号数を探せないでいる。勝頼が大膳大夫を名乗った文書が少なくとも2点存在する。

では、勝頼は左京大夫と大膳大夫をどのように名乗ったのか。同時に名乗ったということはありえない。どちらかが先で、もう一方が後のはずである。

それを考える手がかりを与えてくれるのは、丸島和洋氏の論文である。
「武田勝頼と信勝」 『戦国遺文月報』5、2004年4月

丸島氏は、天正七年(1579)末に、勝頼の嫡男太郎信勝が元服したのに伴い、勝頼は家督を信勝に譲って隠居した可能性が高いと、まことに興味深い指摘をしている。
それと同時に、武田家中の有力な一門や重臣に対して、受領(国司名)が授与されている。たとえば、武田信豊は左馬助から相模守へ、穴山信君は玄蕃頭から陸奥守へ、跡部勝資は大炊助から尾張守へ、内藤昌月は修理亮から大和守へ、真田昌幸は喜兵衛から安房守へ、という具合である。

勝頼の官途に戻れば、信勝への家督譲渡と隠居に伴い、官途名を左京大夫から大膳大夫へと変更したのではないかと思われる。
左京大夫が先であると考える理由は、第一に、信縄・信虎・晴信の三代が左京大夫をまず名乗ったと考えられ、勝頼もその慣例に従ったものと思われること。第二に、大膳大夫の官途は『上杉家文書』に遺されていることから、天正六年(1578)の御館の乱以降、両家の友好関係が結ばれてからだと思われる。したがって、上記で紹介した景勝宛ての勝頼書状の年次も、隠居後であり、天正八年以降ではないだろうか。
(なお、丸島氏は、勝頼の隠居は信玄の有名な遺言に従ったのではなく、信勝が織田家の血を引いていることから、信長との和睦を成功させるのが目的だったのではないかと、興味深い指摘をしている)

では、山科言経が天正十年に勝頼の官途を左京大夫だと記したことは官途が前後して矛盾するように思えるが、そうではないと思う。
勝頼の左京大夫の官途は、おそらく信玄の在世中、つまり、将軍義昭が京都に健在だった元亀年間に、信玄が後継者とした勝頼のために官途を要請したので、それが公家社会では知られていた可能性が高く、言経はそれを記したのである。同時に、そのとき勝頼は叙爵した可能性もあるだろう。

一方、大膳大夫の官途は天正七年末以降の名乗りであり、信長が支配する朝廷に願い出れば拒絶されるのは明らかだったから、勝頼が武田家歴代の慣例に従って僭称したものと思われる。したがって、言経が知るはずもなかった、と考えられよう。

なお、上記の丸島和洋氏に、勝頼の官途についての論文「武田「四郎」勝頼と「大膳大夫」勝頼」というのがあると思われる。それにそのあたりの経緯も書かれている可能性があることを付け加えておきたい。
というのも、この丸島論文は『武田氏研究』第24号(2001年)に収録されていると、私は備忘にメモしているのだが、同誌24号にはその論文は収録されておらず、同誌の前後の号にも見当たらない。私が粗忽にも何か勘違いして誤記したらしい。国会図書館の雑誌データベースでもヒットしない。
どなたか、この論文の収録誌・刊行年などをご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。
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【2007/01/16 01:35】 | 戦国織豊
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板倉丈浩
こんばんは。
信玄が「左京大夫」と呼ばれているのは『為和集』という歌集で、冷泉為和が天文8年8月に甲府に招かれた時の記事のようです(『私家集大成』第7巻・中世Ⅴ上)。
柴辻俊六氏は左京大夫は従四位下相当官だからこれは誤記だとしていますが(『武田信玄合戦録』p28)、今谷明氏『戦国大名と天皇』によれば、左京大夫は戦国武将に濫授された官で、他ならぬ武田信虎が大永元年4月に「従五位下・左京大夫」に正式に叙任されているようですので、信玄が任官していてもおかしくはないような気がします。
『勝山記』の信虎追放記事で、信玄のことを「武田大夫殿様」と呼んでますので、左京だか大膳だかわかりませんが、天文十年六月の時点で○○大夫と称していたのは間違いないようです。

武田左京大夫
桐野
板倉丈浩さん

おおっ、晴信の左京大夫名乗り、ちゃんと典拠があったのですね。立派な一次史料です。
これによれば、晴信が家督を継ぐ前に左京大夫を名乗っていたのは明らかですね。私の推論が裏づけられたように思います。
ご教示有難うございます。

柴辻氏の解釈はおかしいです。戦国時代、官位相当制は形骸化しており、左京大夫は従四位下でなければ云々というのはほとんど空論です。
そうした予断によって、一次史料の記事を否定するのはいかがかと。
なるほど、柴辻氏の書かれたものが前後で食い違っている理由がわかりました。

大膳大夫については、遅くとも永禄初年には名乗っています。ちゃんと調べれば、まだ遡れると思います。
その画期は、おそらく天文10年(1541)の信虎追放による家督相続だと思うんですけどね。


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この記事へのコメント
こんばんは。
信玄が「左京大夫」と呼ばれているのは『為和集』という歌集で、冷泉為和が天文8年8月に甲府に招かれた時の記事のようです(『私家集大成』第7巻・中世Ⅴ上)。
柴辻俊六氏は左京大夫は従四位下相当官だからこれは誤記だとしていますが(『武田信玄合戦録』p28)、今谷明氏『戦国大名と天皇』によれば、左京大夫は戦国武将に濫授された官で、他ならぬ武田信虎が大永元年4月に「従五位下・左京大夫」に正式に叙任されているようですので、信玄が任官していてもおかしくはないような気がします。
『勝山記』の信虎追放記事で、信玄のことを「武田大夫殿様」と呼んでますので、左京だか大膳だかわかりませんが、天文十年六月の時点で○○大夫と称していたのは間違いないようです。
2007/01/16(Tue) 03:29 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
武田左京大夫
板倉丈浩さん

おおっ、晴信の左京大夫名乗り、ちゃんと典拠があったのですね。立派な一次史料です。
これによれば、晴信が家督を継ぐ前に左京大夫を名乗っていたのは明らかですね。私の推論が裏づけられたように思います。
ご教示有難うございます。

柴辻氏の解釈はおかしいです。戦国時代、官位相当制は形骸化しており、左京大夫は従四位下でなければ云々というのはほとんど空論です。
そうした予断によって、一次史料の記事を否定するのはいかがかと。
なるほど、柴辻氏の書かれたものが前後で食い違っている理由がわかりました。

大膳大夫については、遅くとも永禄初年には名乗っています。ちゃんと調べれば、まだ遡れると思います。
その画期は、おそらく天文10年(1541)の信虎追放による家督相続だと思うんですけどね。
2007/01/16(Tue) 11:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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