歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
昨20日午後から、武蔵野大学生涯学習講座に出講。
場所は三鷹のサテライトキャンパスである。

大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康」というタイトルの講座(全10回)も、もう7回目となった。
今回は「直江状」を検討した。

すでに拙稿でも書いたが、「直江状」の原本は現存しないものの、それとおぼしき直江兼続の書状があったことは疑いえない。
写本・版本や軍記物への転載という形で、多数の「直江状」が伝来している。それらを子細に見てみると、少なくない異同がある。そのため、「直江状」=偽文書説が説得力をもった時期もあった。
しかし、後世の意図的な加筆もないわけではないが、それを割り引いても、「直江状」のコアな部分がもつ迫真性と、当時の状況を的確に描写している点は否定しがたい。

レジュメでは、歴代古案本、承応三年版本(東京大学総合図書館蔵)、関原軍記大成本という性格の異なる3点の「直江状」を用意し、上杉家の歴代古案本を中心に読みながら、3点の相互の異同を確認して、なぜそれが生じたのか考察した。

直江状」は16カ条で構成されるのが正本ではないかと思うが、なかには14カ条、15カ条のものもある。そのなかで大きな異同は、歴代古案本や上杉御年譜本など上杉家所蔵のものに共通している第11条の欠落である。
これは、「直江状」が書かれるきっかけとなった相国寺長老の西笑承兌書状の一条と対応した部分であり、本来は存在したと見た方がよい。上杉家諸本でそれが欠落しているのは、条末尾にある「一笑々々」という文言に嘲笑のニュアンスが感じられ、のちに上杉家が徳川将軍家を慮って削除したのではないかと推定しておいた。妥当かどうかはわからない。

もうひとつは、関原軍記大成本など軍記物に共通して、追而書(追伸)があることをどう考えるかである。これも軍記物によって多少文言が異なるが、兼続が「会津に下って来れるなら来てご覧なさい」という挑発的な態度を示しているのは不自然で、後世、面白おかしく創作されたのではないかと述べた。これは先行研究でもすでに指摘されている。

直江状」の実在を傍証するもののひとつとして、上杉景勝が安田能元ら重臣5人に宛てた書状を取り上げた。
これもじつは、文案は兼続が作成したのではないかと述べた。「直江状」にある第一何々、第二何々という表記のしかたが同じだからである。

「直江状」で、私が個人的に注目しているのは、家康の重臣・榊原康政に言及している点である。これは承兌書状にも、康政を通じて家康に釈明するようにという一節がある。それに対して、兼続が康政は上杉家に対する「御取次」であるにもかかわらず、上杉家に何の「異見」もしないばかりか、堀直政の讒言のみを取り上げるばかりで、取次としての役目を果たしておらず「侍の筋目」を通していないと痛烈に批判している一節が興味深い。

秀吉死後、家康が「天下殿」(豊臣政権執政)となったため、その重臣たちも五奉行同様、諸大名に対する取次役をつとめることになったようである。とくに康政は東国や奥州の大名に対する取次だった形跡がある。たとえば、秋田氏に対しても取次になっている。
豊臣政権における諸大名統制において取次が重要な役割を果たしたことはすでに明らかにされているが、秀吉死後、従来の奉行人・取次のほか、家康の家臣も政権の取次をつとめていることは豊臣政権の取次制が変容し、複雑な経路になっているのではないだろうか。
また、同じ大老同士のはずなのに、上杉家が家康の取次の指導・指南を受けるという関係性があるのなら、家康が豊臣政権において、他の大老と異なる上位の地位にあったことになる。その契機はおそらく前田利家の死だろうが。

またこの書状でわかることとして、もうひとつ重要なのは、「直江状」に激怒した家康が会津出陣を決断したということになっているが、必ずしもそうではなく、双方の間にもう一度、それも複数のルートによる交渉があったこと。それが家康方から上杉方への最後通牒であり、景勝がそれを拒絶したことによって、家康が会津出陣を決断したのではないかと述べた。

直江状」が派手で爽快なために、家康の会津出陣、ひいては関ヶ原合戦の発端として評価されることが多いが、過大評価してはいけないのではないかという私見を述べて、講座を終えた。

次回は、いよいよ関ヶ原合戦に入る予定。

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【2009/06/21 19:19】 | 武蔵野大学社会連携センター
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榊原康政
橋場
康政の件は、「直江状」には「景勝表向の取次」と記されていますね。「表向」は『日葡辞書』によれば「形式上の、名目上の」というニュアンスの様ですが、上杉家はわざわざこういう文言を使っている事で微妙な心境を吐露しており、その心境の上で康政という「取次」役との折衝を主体的に拒否したのではないか、と小生は考えています。その背景につきましては、長くなりますのでまた別の折りに。

背景?
桐野
橋場殿下、こんにちは。

コメント有難うございます。

「表向」について補足していただき、有難うございました。
歴代古案本にはその部分、「景勝衆向之取次」云々とあって、他本と対校して、「景勝表向之取次」と読むべきだろうと注釈したところでした。

この時期における康政の役割はあまり言及されませんが、意外と重要かもしれませんね。私は、康政が東国・奥州方面の取次だろうと書いてしまいましたが、宇喜多家中の内紛を調停したのも康政でした。
考えてみれば、このとき、大谷吉継も奉行として調停していますから、やはり、豊臣政権奉行衆と家康重臣衆という2つのルートで政務が行われていたようですね。

さらにいえば、島津家中の内紛である庄内の乱でも、豊臣奉行衆としては寺沢広高、家康方からは山口直友、また重臣では本多正純だったかも和睦調停に関与していますね。

上杉問題もその例外ではないということでしょうか。

で、「その背景」とやらを聞かねば、殿下の思し召しが伺い知れぬのですが……。

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榊原康政
康政の件は、「直江状」には「景勝表向の取次」と記されていますね。「表向」は『日葡辞書』によれば「形式上の、名目上の」というニュアンスの様ですが、上杉家はわざわざこういう文言を使っている事で微妙な心境を吐露しており、その心境の上で康政という「取次」役との折衝を主体的に拒否したのではないか、と小生は考えています。その背景につきましては、長くなりますのでまた別の折りに。
2009/06/21(Sun) 23:24 | URL  | 橋場 #-[ 編集]
背景?
橋場殿下、こんにちは。

コメント有難うございます。

「表向」について補足していただき、有難うございました。
歴代古案本にはその部分、「景勝衆向之取次」云々とあって、他本と対校して、「景勝表向之取次」と読むべきだろうと注釈したところでした。

この時期における康政の役割はあまり言及されませんが、意外と重要かもしれませんね。私は、康政が東国・奥州方面の取次だろうと書いてしまいましたが、宇喜多家中の内紛を調停したのも康政でした。
考えてみれば、このとき、大谷吉継も奉行として調停していますから、やはり、豊臣政権奉行衆と家康重臣衆という2つのルートで政務が行われていたようですね。

さらにいえば、島津家中の内紛である庄内の乱でも、豊臣奉行衆としては寺沢広高、家康方からは山口直友、また重臣では本多正純だったかも和睦調停に関与していますね。

上杉問題もその例外ではないということでしょうか。

で、「その背景」とやらを聞かねば、殿下の思し召しが伺い知れぬのですが……。
2009/06/22(Mon) 12:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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