歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第112回
―尚寧王の降伏と「無人衆」―

先週は休載でしたが、本日付で連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしていただければ、ご覧になれます。

今回は、いよいよ琉球王朝の尚寧王の降伏です。
島津軍が首里城を占領したわけですが、それまで今帰仁から那覇、首里城周辺では放火や略奪が横行していましたが、首里城中に関しては意外にも秩序が守られました。

兵士たちの略奪を許さず、あくまで王府の財宝を一括して島津軍で没収してしまうために、目録を作成するなど、丁寧な作業が行われました。
城に出入りする者は身体検査までされる厳重さでした。
考えてみれば、首里城の財宝略取こそ、この侵攻の最大の目的だったのかもしれません。
「琉球渡海日々記」は没収した財宝を「薩摩御物」と表現しています。
薩摩人が見たこともないような唐物など、眩いばかりの財宝が大量にあったはずで、おそらくいまも鹿児島のどこかにその一部が伝来・保存されているかもしれません。

もし現存するのなら、400年を機に沖縄県に返還すれば、恩讐を超えて薩琉の和解の一歩になるかもしれませんが、いかがでしょうか?

ところで、分量の関係で記事に書けなかったことを補足します。
今回のキーワードである「無人衆」についてです。
これは、島津軍が渡海する直前、島津家久・惟新(義弘)・龍伯(義久)の三人連署による「琉球渡海之軍衆法度之条々」に出てくる言葉です(『旧記雑録後編四』544号)。その第8条に、

一、相働くべき時、海陸共に惣人数を待ち合わせず、無人衆にて先懸りいたすまじき事

とあります。

無人衆」って何だと、最初思ったのですが、「先懸り」(あるいは「先懸け」)するなと書かれているところを見ると、雑兵や足軽の類だと推測されますが、島津氏の軍制や家臣団編成に即して考えると、「無足衆」が該当するのではないかと思われます。
無足衆」については、記事に書いたとおりです。
無足衆」は知行高が低いために、遠征となると、兵糧自弁に耐えきれません。そのため、一定期間以上の出征になれば、大名蔵入から給付するという軍令が出されています。たとえば、天正4年(1576)の日向高原城攻めや同11年の肥後攻めなどです。

ただ、「無足衆」も知行地五反を境に、五反以上と以下とで軍役や処遇の差がありました。
たとえば、五反に付き、「武用」に役立つ家子・郎党一人を養うことを義務づけています。
となると、五反未満の「無足衆」は従者が一人もおらず、自分だけで従軍することになります。
無人衆」とはまさにそのことで、従者(家子・郎党)が「無人」であることを意味するのではないかと思った次第。

また「無足衆」といえども、手火矢すなわち鉄炮(六匁玉以上)を携行することが義務づけられています。ですから、「足軽衆」が鉄炮を放ちながら、あちこちに放火して回ったという記事は、五反未満の「無足衆」の仕業だと考えられます。

また以前、ブログで島津軍の渡海人数が当初の1500人から3000人に倍増したのはなぜかという疑問を書いたことがありました。ここです。

その回答こそ、「無足衆」の参陣だろうと思っています。
一所衆の参陣だけでは人数が足らないからです。
無足衆」はおそらく志願兵であり、数百人から千人近い人数がいたものと思われます。
彼らの暴走を防ぐため、わざわざ法度で軍紀厳守を定めたのでしょうが、何の役にも立たなかったようです。

次回は、尚寧王の大和連行とその後の琉球・奄美の仕置について書きます。
そろそろ、このテーマも終わりが見えてきました。

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【2009/06/22 13:23】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。つらつらと感じたことを。

>「琉球渡海日々記」は没収した財宝を「薩摩御物」と表現しています。
(中略)
>もし現存するのなら、400年を機に沖縄県に返還すれば、恩讐を超えて薩琉の和解の一歩になるかもしれませんが、いかがでしょうか?
廃仏毀釈でのあの有様を見ていると、鹿児島にある可能性は期待薄だと思いました。その後西南戦争もありましたしね。でも案外と東京辺りのコレクターが持っていそうな感じもしますが。

>「無足衆」
>彼らの暴走を防ぐため、わざわざ法度で軍紀厳守を定めたのでしょうが、何の役にも立たなかったようです。
前回から「(島津)家久が(軍記厳守を命ずる)法度を何度も出した」と言う記述が出ていますが、当の家久自体が、自軍がその法規を守れる可能性をどれくらい信じていたんだろうか?という疑問はあります。朝鮮半島での日本勢の軍紀が乱れていたのを自分の目で見ているはずですし。

軍紀と家久
桐野
ばんないさん、こんにちは。

琉球王朝の財宝は量が膨大なだけに、残っている可能性はあると思うんですけどね。黎明館や尚古集成館なんかどうなんでしょうか?
また廃仏毀釈の対象になるとも思えません。戦災や火災の可能性はありますね。

島津氏については、中納言家久と同名の中務大輔家久は豊後府内のキリシタン施設を徹底的に破壊したという「前科」がありますしねえ。朝鮮半島でも相当の狼藉があったと思います。

ただ、家久が侵攻後、軍紀を守った家臣をわざわざ嘉賞しているのは事実です。



”薩摩御物”
ばんない
こんばんは。コメントへの返答ありがとうございます。

”薩摩御物”の行方なんですが、尚古集成館の公式HPにこう書いてあるのが気になります
「島津家に伝わっていた古文書以外の美術品や工芸品などの資料も、厖大な数にのぼると推測されますが、やはり、人災・天災などで失われた資料も少なくありません。さらに、昭和3年に東京美術倶楽部で行われた公爵島津家蔵品の売り立てによって多くの資料が全国各地に散逸してしまいました。」
http://www.shuseikan.jp/shuseikan/shuShimadzu.htm
この昭和3年売り立て会の目録は現在所有しているので見たのですが、パッと見た感じ沖縄産とおぼしき物品は皆無でした。ただ何点か中国の書画があるのでそのうちの何点かが”薩摩御物”だった可能性はあるかと思いますが。
琉球王朝の研究(特に文化面)ははっきり言って島津氏に関する物より進んでそうな印象がありますので、”薩摩御物”に関してもすでに先行研究がありそうにも思いますが…。
あとは歴代当主が亡くなるたびにその遺品として寺社に寄贈されて、廃仏毀釈の時にともに消滅、というパターンかな、と考えました。

ところで、先行研究とも関わる話かと思うのですが”薩摩御物”の目録は存在しているのでしょうか?寡聞にしてみたことがないのですが…。

蛇足ですが
>家久が侵攻後、軍紀を守った家臣をわざわざ嘉賞しているのは事実
当然人道的な物ではなくて、自分の命令を聞いたかどうかで褒賞の基準となったと考えられますが、無足衆を押さえられなかった?と桐野さんのコラムでさんざん指摘されている樺山久高のその後の扱いとも関係があるのか気になるところです。



とらひこ
こんにちは。無足衆の話、大変興味深く拝読させていただきました。これまでの研究でも指摘されていなかった新しい知見だと思います。僕も恥ずかしながら「無人衆」という語句にまったく注目していませんでした。侵攻軍の規定人数と実際の人数のギャップについての長年の疑問が氷解しました。

首里城から略奪された宝物ですが、薩摩経由で徳川家に流れたものは確認されています。たとえば徳川美術館蔵の「花鳥七宝繋文密陀絵沈金御供飯」は、島津軍が首里城で略奪し、後に家康へ献上した品であった可能性がきわめて高いとのことです。

御供飯についてはこちらをご参照ください。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-31401-storytopic-6.html

鹿児島での琉球の宝物も見つかるといいですね。実は加世田の資料館に所蔵されている島津忠良の使用品のなかに琉球漆器の椀があるのですが、地元の方はそれが琉球製だと誰も気づいてませんでした。こうした事例がまだまだあるのではないかと思っています。



薩摩御物の目録?
桐野
ばんばいさん、こんにちは。

目録は見たことありませんね。
かなり綿密に作ったはずですが、どうしたことでしょう。

軍令を守った連中ですが、伊地知季安の『南聘紀考』に次のようにあります。

「此役将士頗る律令を犯す、ただ本田親政・市来家繁よく其の令を守る、故にこれを褒賞す」

樺山については、「薩摩御物」をあれだけ持ち帰れば、覚書違反はチャラになったのではないでしょうか。少なくとも罰せられてはいないはずです。


無人衆
桐野
とらひこさん、こんにちは。

琉球史のご専門の方からわざわざコメントいただき恐縮です。

「薩摩御物」はやはり徳川家には残っているのですね。
加世田の資料館にある琉球漆器は、以前、とらひこさんの新聞記事で拝読しました。
日新斎忠良の頃だとすれば、1609年のときではないですね。
でも、由来がわからなくなっているものを含めて、鹿児島にはまだ残っているような気もします。

「無人衆」については、まだ思いつきですので、あまり持ち上げないで下さいませ。
ある特定の集団を指す言葉ではなくて、まず「人」と「足」で用語が違いますし、単に人数が少ないという意味かも知れず(それでも法度の意味は通るような)、まだまだ裏付けをとる必要があります。

いずれにしろ、島津軍が1500人→3000人となった事情が探れたらいいですね。
参戦した門閥層の家譜や書上などをもっと調べたほうがいいかもしれませんね。


ばんない
こんにちは。ばんばいです(爆)冗談です。
”薩摩御物”の目録みたいなもの、桐野さんでもご存じ無いですか…。それが分かれば四散した宝物の研究はもっと進んでたかも知れませんね。しかしそれほど執着したような宝物の目録が無いというのは謎ですね。
あと軍令はやっぱりほとんど守られてなかったようですね…。

とらひこさん、補足ありがとうございます。”薩摩御物”御三家関係にはわずかですが残っているようですね。取りあえず徳川美術館から沖縄に返してもらうのが先でしょうか(苦笑)
ともあれ、島津家から何かある毎に徳川家にかなりの物を献上してますから、そういうところから”薩摩御物”につながるヒントがあるかも知れませんね…私は無理ですが。


無人衆
御座候
藤木久志さんの『雑兵たちの戦場』を彷彿とさせますね。
藤木さんは、雑兵たちは最初から乱取り(略奪)目当てで参戦しており、大名たちも手を焼いていた、と書いていますね。

ただ藤木さんによれば、大名公認の略奪や作戦としての放火もあったようですから、略奪・放火そのものというよりも「勝手に」略奪・放火を行うという命令無視が問題視されたのかもしれませんが。

雑兵たちの戦場
桐野
御座候さん、こんにちは。

ご紹介の藤木久志さんの本には、戦国島津氏の乱取りの記事が多かった印象があります。とくに人取りが。
さすがに海路の奄美・琉球では人取りは難しかったと思いますが、乱取りは相当あったことと思います。

島津氏の軍法規定も狼藉禁止の項目はありますが、中途半端な感じで、現地司令官の裁量に任せられていたかもしれません。司令官公認もしくは黙認・追認の乱取りはかなりあったのでしょうね。

琉球側にも島津側にも史料が少ないのが惜しまれます。


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コメント
この記事へのコメント
こんにちは。つらつらと感じたことを。

>「琉球渡海日々記」は没収した財宝を「薩摩御物」と表現しています。
(中略)
>もし現存するのなら、400年を機に沖縄県に返還すれば、恩讐を超えて薩琉の和解の一歩になるかもしれませんが、いかがでしょうか?
廃仏毀釈でのあの有様を見ていると、鹿児島にある可能性は期待薄だと思いました。その後西南戦争もありましたしね。でも案外と東京辺りのコレクターが持っていそうな感じもしますが。

>「無足衆」
>彼らの暴走を防ぐため、わざわざ法度で軍紀厳守を定めたのでしょうが、何の役にも立たなかったようです。
前回から「(島津)家久が(軍記厳守を命ずる)法度を何度も出した」と言う記述が出ていますが、当の家久自体が、自軍がその法規を守れる可能性をどれくらい信じていたんだろうか?という疑問はあります。朝鮮半島での日本勢の軍紀が乱れていたのを自分の目で見ているはずですし。
2009/06/22(Mon) 19:01 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
軍紀と家久
ばんないさん、こんにちは。

琉球王朝の財宝は量が膨大なだけに、残っている可能性はあると思うんですけどね。黎明館や尚古集成館なんかどうなんでしょうか?
また廃仏毀釈の対象になるとも思えません。戦災や火災の可能性はありますね。

島津氏については、中納言家久と同名の中務大輔家久は豊後府内のキリシタン施設を徹底的に破壊したという「前科」がありますしねえ。朝鮮半島でも相当の狼藉があったと思います。

ただ、家久が侵攻後、軍紀を守った家臣をわざわざ嘉賞しているのは事実です。

2009/06/24(Wed) 16:16 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
”薩摩御物”
こんばんは。コメントへの返答ありがとうございます。

”薩摩御物”の行方なんですが、尚古集成館の公式HPにこう書いてあるのが気になります
「島津家に伝わっていた古文書以外の美術品や工芸品などの資料も、厖大な数にのぼると推測されますが、やはり、人災・天災などで失われた資料も少なくありません。さらに、昭和3年に東京美術倶楽部で行われた公爵島津家蔵品の売り立てによって多くの資料が全国各地に散逸してしまいました。」
http://www.shuseikan.jp/shuseikan/shuShimadzu.htm
この昭和3年売り立て会の目録は現在所有しているので見たのですが、パッと見た感じ沖縄産とおぼしき物品は皆無でした。ただ何点か中国の書画があるのでそのうちの何点かが”薩摩御物”だった可能性はあるかと思いますが。
琉球王朝の研究(特に文化面)ははっきり言って島津氏に関する物より進んでそうな印象がありますので、”薩摩御物”に関してもすでに先行研究がありそうにも思いますが…。
あとは歴代当主が亡くなるたびにその遺品として寺社に寄贈されて、廃仏毀釈の時にともに消滅、というパターンかな、と考えました。

ところで、先行研究とも関わる話かと思うのですが”薩摩御物”の目録は存在しているのでしょうか?寡聞にしてみたことがないのですが…。

蛇足ですが
>家久が侵攻後、軍紀を守った家臣をわざわざ嘉賞しているのは事実
当然人道的な物ではなくて、自分の命令を聞いたかどうかで褒賞の基準となったと考えられますが、無足衆を押さえられなかった?と桐野さんのコラムでさんざん指摘されている樺山久高のその後の扱いとも関係があるのか気になるところです。
2009/06/24(Wed) 19:31 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
こんにちは。無足衆の話、大変興味深く拝読させていただきました。これまでの研究でも指摘されていなかった新しい知見だと思います。僕も恥ずかしながら「無人衆」という語句にまったく注目していませんでした。侵攻軍の規定人数と実際の人数のギャップについての長年の疑問が氷解しました。

首里城から略奪された宝物ですが、薩摩経由で徳川家に流れたものは確認されています。たとえば徳川美術館蔵の「花鳥七宝繋文密陀絵沈金御供飯」は、島津軍が首里城で略奪し、後に家康へ献上した品であった可能性がきわめて高いとのことです。

御供飯についてはこちらをご参照ください。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-31401-storytopic-6.html

鹿児島での琉球の宝物も見つかるといいですね。実は加世田の資料館に所蔵されている島津忠良の使用品のなかに琉球漆器の椀があるのですが、地元の方はそれが琉球製だと誰も気づいてませんでした。こうした事例がまだまだあるのではないかと思っています。

2009/06/25(Thu) 10:03 | URL  | とらひこ #WaX/Ljjs[ 編集]
薩摩御物の目録?
ばんばいさん、こんにちは。

目録は見たことありませんね。
かなり綿密に作ったはずですが、どうしたことでしょう。

軍令を守った連中ですが、伊地知季安の『南聘紀考』に次のようにあります。

「此役将士頗る律令を犯す、ただ本田親政・市来家繁よく其の令を守る、故にこれを褒賞す」

樺山については、「薩摩御物」をあれだけ持ち帰れば、覚書違反はチャラになったのではないでしょうか。少なくとも罰せられてはいないはずです。
2009/06/26(Fri) 16:48 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
無人衆
とらひこさん、こんにちは。

琉球史のご専門の方からわざわざコメントいただき恐縮です。

「薩摩御物」はやはり徳川家には残っているのですね。
加世田の資料館にある琉球漆器は、以前、とらひこさんの新聞記事で拝読しました。
日新斎忠良の頃だとすれば、1609年のときではないですね。
でも、由来がわからなくなっているものを含めて、鹿児島にはまだ残っているような気もします。

「無人衆」については、まだ思いつきですので、あまり持ち上げないで下さいませ。
ある特定の集団を指す言葉ではなくて、まず「人」と「足」で用語が違いますし、単に人数が少ないという意味かも知れず(それでも法度の意味は通るような)、まだまだ裏付けをとる必要があります。

いずれにしろ、島津軍が1500人→3000人となった事情が探れたらいいですね。
参戦した門閥層の家譜や書上などをもっと調べたほうがいいかもしれませんね。
2009/06/26(Fri) 16:55 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんにちは。ばんばいです(爆)冗談です。
”薩摩御物”の目録みたいなもの、桐野さんでもご存じ無いですか…。それが分かれば四散した宝物の研究はもっと進んでたかも知れませんね。しかしそれほど執着したような宝物の目録が無いというのは謎ですね。
あと軍令はやっぱりほとんど守られてなかったようですね…。

とらひこさん、補足ありがとうございます。”薩摩御物”御三家関係にはわずかですが残っているようですね。取りあえず徳川美術館から沖縄に返してもらうのが先でしょうか(苦笑)
ともあれ、島津家から何かある毎に徳川家にかなりの物を献上してますから、そういうところから”薩摩御物”につながるヒントがあるかも知れませんね…私は無理ですが。
2009/06/26(Fri) 18:17 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
無人衆
藤木久志さんの『雑兵たちの戦場』を彷彿とさせますね。
藤木さんは、雑兵たちは最初から乱取り(略奪)目当てで参戦しており、大名たちも手を焼いていた、と書いていますね。

ただ藤木さんによれば、大名公認の略奪や作戦としての放火もあったようですから、略奪・放火そのものというよりも「勝手に」略奪・放火を行うという命令無視が問題視されたのかもしれませんが。
2009/08/20(Thu) 09:35 | URL  | 御座候 #vWEeux/c[ 編集]
雑兵たちの戦場
御座候さん、こんにちは。

ご紹介の藤木久志さんの本には、戦国島津氏の乱取りの記事が多かった印象があります。とくに人取りが。
さすがに海路の奄美・琉球では人取りは難しかったと思いますが、乱取りは相当あったことと思います。

島津氏の軍法規定も狼藉禁止の項目はありますが、中途半端な感じで、現地司令官の裁量に任せられていたかもしれません。司令官公認もしくは黙認・追認の乱取りはかなりあったのでしょうね。

琉球側にも島津側にも史料が少ないのが惜しまれます。
2009/08/20(Thu) 16:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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