歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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うっかりしてました。
先週16日(火)で、小学館アカデミー「てらこや」の講座第6クールが終了しました。

最終回は、四侯会議の最終段階と結末をやりました。やはり越前藩の史料『続再夢紀事』がいちばん詳しいので、これを中心に見ていく。
とくに慶応3年(1867)5月23日から翌日にかけての朝議の経過が面白かった。これには、朝廷側から二条摂政はじめ、親王・摂関家・大臣・両役、幕府側から将軍慶喜はじめ、松平容保・同定敬と老中2人、それに四侯側からは松平春嶽だけが出席した。春嶽も当初欠席するといっていたが、慶喜からのたび重なる督促により、渋々参内した。

最終局面で面目躍如だったのは慶喜である。朝廷よりの沙汰書をもらうまでは帰らないと徹夜で粘り、ついに沙汰書を手に入れた。当面、慶喜が四侯を制したのである。

しかし、四侯側も勅許と勅命の違いにこだわり、大成委任論による幕府主導の勅許を否定し、あくまで朝廷主導の朝議に基づく勅命という形を実現したのは、その後の公議政体に発展する足がかりになったのではないかと思う。

また公家の間からも、重要な議題なので、惣参内すべきだという意見が出され、実際にそうなったようである。一時期の列参運動を想起させるが、二条摂政が参内を認めただけで、発言権はないと制止したために大きな動きにはならかった。

あとで、受講生の方から、『嵯峨実愛日記』を送っていただき、この惣参内を提案したのが、記主で議奏の正親町三条実愛だったことがわかる。
正親町三条はのちに討幕の密勅を作成した一人。このとき、薩摩藩と示し合わせたかどうか不明だが、明らかに慶喜をはじめとする幕府勢力を牽制する動きだろう。

一方、四侯の申し合わせをはぐらかした慶喜に対して、島津久光は抗議の意味で欠席戦術を採用した。薩摩藩は周旋活動に限界を感じはじめていた。
すでに四侯会議のうちに、江戸から登ってきた土佐藩討幕派の代表である乾退助(のち板垣~)をひそかに小松帯刀邸に招き入れて、討幕的な薩土盟約を結んでいた。

次クールは、2つの薩土盟約あたりから入り、薩摩藩討幕派の形成を中心に検討することになりそう。
興味のある方はおいで下さい。


再掲ですが、告知しておきます。

小学館アカデミー「てらこや」
特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」7月講座受講生募集中。


このシリーズも第7クールに突入。全5回です。
時期は慶応3年(1867)半ば、四侯会議の挫折から薩摩藩討幕派の形成へという重要な時期に入ります。
薩摩藩内の路線闘争、2つの薩土盟約、そして大政奉還へと進む時期を取り上げます。

主催者のサイトはここです。申込方法や問い合わせなど、確認できます。
ただし、まだ更新されていません。

日時:7/14,7/28,8/25,9/8,9/15の午後7時から
    原則として隔週開催ですが、今期はお盆を挟むため、多少変則的です。
最寄り駅:都営新宿線・半蔵門線「神保町」駅、JR「御茶の水」「水道橋」駅
    地図はここにあります。

東京、関東方面で関心のある方は受講してみませんか。

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【2009/06/24 19:28】 | てらこや
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