歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第113回
―尚寧王、苦難の大和抑留―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、首里城占領後の尚寧王について書きました。
大和に連行され、薩摩→駿府→江戸と、あちこち引き回されます。

徳川幕府からは異国の王として遇されますが、その実態は、琉球が島津氏の領国に組み入れられたばかりか、奄美諸島は島津氏に割譲させられるなど、屈辱的なものでした。
尚寧王の無念さが察せられます。

なお、分量の関係で書けませんでしたが、三司官の一人、謝名親方の動向は興味深いですね。
謝名は福建人の血を引き、明国にも留学したことがあることから、親明派であり、対島津強硬派でもありました。ですから、島津軍の侵攻に対しては、主戦派として戦い、捕虜になってしまいます。
謝名の名は薩摩でも有名だったようで、「喜安日記」によれば、色の黒い6尺の大男で、謝名を見ようと見物人が押しかけたといいます。
もっとも、薩摩側から見たら、謝名は悪名として残っており、それは史料での表記にも示されています。たとえば、

琉球入ノ記:「虫+也」那
西藩野史:蛇名


という具合で、謝名の名前に「蛇」の付く字を当てています。
蛇が何を表象するかは明らかですから、島津側は謝名を「琉球征伐」に反抗した悪逆の人物と位置づけているわけですね。

薩摩に連行された謝名ですが、それでもまだ島津氏に抵抗する気概を失っていませんでした。
謝名は尚寧王主従とは別に、城下に監禁されたようです。「琉球入ノ記」には城下の下納屋町の桶屋折田嘉兵衛宅に押し込められたとあります。
その謝名はひそかに「反間」の密書を長崎の唐人に預けました。その内容は不明ですが、島津氏の琉球侵略の様子を詳細に書いたものではなかったかと推定されています。あるいは明軍の琉球来航を要請していたかもしれません。
監禁状態の謝名になぜそのようなことが可能だったのかよくわかりませんが、謝名がまだ抵抗精神を失っていなかったことはたしかです。

「反間」の密書が島津方にも知られると、島津家久は先手を打つべく、尚寧王の弟具志上王子尚宏らに急遽、帰国を命じ、謝名の密書が明側に渡らないよう手配させました。結果として、明側に渡るのを阻止したようです。

その後、尚寧王の帰国に際して、琉球王府側は島津側から起請文を強制されます(『旧記雑録後編四』862号)。それは、

①琉球が往古から島津氏の「附庸」(属国)であったこと
②豊臣秀吉の軍令に従わなかったから、島津氏の征伐を招いたのであり、その非は琉球側にあること
③帰国を許されたうえ、知行を与えられることは家久公の「御厚恩」であること

この3カ条を認めよという屈辱的な条件でした。
尚寧王はじめ、王族・三司官や廷臣たちはしかたなく、これに署名しましたが、謝名だけは頑として署名を拒否し、ついに斬首されてしまいます。

謝名の評価は現在の沖縄でも難しい面があるようですが、個人的には、筋を通した愛国者ではないかと思います。

一方、島津方が琉球側に強制した起請文が、その後既成事実化し、それが島津家の正史にまで反映しました。さらにいえば、そうした歴史観が鹿児島にはいまなお残っているように思います。
歴史は勝者のそれであることを痛感させられます。

ところで、謝名はどこで処刑され、その墓はどこにあるのでしょうか?
先日、徳之島に行ったとき、同島に謝名の供養墓があると仄聞しましたが……。
もし何かご存じの方がおいでなら、ご教示のほどを。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2009/06/29 12:21】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック