歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
武蔵野大学生涯学習講座
大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康

この講座も先週の11日(土)で最終回(10回目)だった。
毎週土曜日開催で、一気に駆け抜けた感じです。

最終回のテーマは表題のとおり。
関ヶ原敗戦後の戦後処理と米沢転封の過程を追い、さらに兼続の2人の子ども、大和守勝吉と平八景明のことを主に触れました。

とくに勝吉は本多正信の二男であり、兼続の婿養子という形になっています。
勝吉の存在が幕藩体制初期における上杉家の安全保障に役立ったことなどを話す。
勝吉はのち、加賀前田家に仕官して本多政重と名乗るのは周知のこと。

とにかく興味深い人物ですね。
まず、その仕官歴です。
将軍秀忠の乳母の子を斬って出奔してから、

大谷吉継→宇喜多秀家→前田利長→小早川秀秋(中止)→福島正則→直江兼続(養子)→前田利長・利常

という具合に、転々と主家を変えています。
いかにも、戦国期の武将らしい処世ですね。

次に、勝吉が上杉景勝の養子になったかもしれないという説があること。
典拠は『加賀藩史稿』にある本多政重譜です。

「初め景勝子無し、政重の名冑たるを以て養いて子と為し、其れをして後を承けしめんと欲す、是に於て先づ兼続の女を養ひ、之を政重に配す」

これを読むかぎり、勝吉が景勝の養子となり、兼続の一女(於松)を景勝の養女にして政重に娶せるつもりだったと読めます。しかし、その後に次のような記述があります。

「勝吉乃ち直江氏を冒し、大和と称し、又安房と改称し、名を勝吉と更む」

景勝の養子になるはずだったのに、いつの間にか直江名字になってしまいます。その間に景勝の養子話が解消されたのでしょうか? そのきっかけは喜平次定勝の誕生でしょうか。

勝吉の「勝」は景勝からの一字拝領だと思われること、兼続には幼少で病弱とはいえ、すでに実子平八がいたことを考えると、兼続が屋上屋を重ねるように勝吉を養子にする必要はないように思われることなどから、景勝の養子入りはそれなりに現実味のあった話なのでしょうか?

なお、勝吉と於松の間に生まれた子を景勝の養子にするという説もあるようですが、上記からはそのようには読み取りにくいように思われます。もっとも、於松を景勝の養女とするならありえるかもしれません。
果たして、どこまで信憑性のある話なんでしょうね?
誇り高い上杉家が、家康の子ならともかく、本多家の庶子を跡継ぎにするとは考えにくい気もしますが……。

これで今期講座は終了しましたが、秋期講座として、以下の講座をやる予定でいます。
よろしかったら、受講してみませんか。

【1】講座名
太田牛一『信長記』を読む

【2】講義概要
 織田信長の伝記として有名な『信長記』(別名:信長公記)をテキストにして読みながら、信長の人間像や事績を探ります。今期は信長の上洛以前の青年期を叙述した「首巻」を読みます。「大うつけ」と呼ばれた少年時代から、弟信勝や他の織田一門との闘争を通じて尾張統一をなし遂げるまで、関連史料を使いながら読みます。父信秀の葬儀、斎藤道三との出会い、桶狭間合戦など有名な出来事も取り上げます。

【3】開講日・時間(15:00~16:30)、各回の講義内容
1 10/14(水) 織田氏と父信秀の時代
2 10/27(水) 「大うつけ」信長
3 11/11(水) 斎藤道三との出会い
4 11/25(水) 初陣・赤塚合戦
5 12/09(水) 弟信勝との戦い
6 01/13(水) 信長、初めての上洛
7 01/27(水) 桶狭間合戦
8 02/10(水) 松平元康との同盟
9 02/24(水) 稲葉山落城
10 03/10(水) 足利義昭を迎える

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
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【2009/07/15 17:26】 | 武蔵野大学社会連携センター
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御高著に対する雑感&質問
惟宗
はじめまして!偶然、このブログサイトを発見?して、改めて桐野さんの博学ぶりに驚嘆しております。
さて、ご高著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)を拝見し、個人的興味のある長宗我部氏と土佐一條氏について、織田権力との関係性を論じられた箇所について、雑感を…。桐野さんは、秋澤繁氏論文を活用され、大津御所体制説を肯定的に捉えておられますが、桐野さんも指摘されている通り、「戦国大名長宗我部氏に対していささか過小評価ではないかという気がする」(同書75頁)のです。土佐一條氏については、朝倉慶景氏の研究を始め、市村高男氏、石野弥栄氏等の研究がありますが、権威としての存在である土佐一條氏=京都一條内基の影響力が、中央の政治的思惑があるとはいえ、権力たる長宗我部元親にとって、実質的な土佐及び四国統一過程において、どれだけ影響があったのでしょうか?
これは関東の古河公方足利氏と後北条氏の擬制的主従関係にとても類似しています。信長が果して大津御所体制を内包、利用することで、元親を統制する必要があったのか?なぜ、直接的な上位権力として、元親を統制するだけの実力がありながら、兼定以降、幡多郡を中心とする領域支配権を失い、伝統的権威にすきない土佐一條氏を梃子にしなければならなかったのか、大津御所体制の必要性が、いまひとつ理解できませんので、桐野さんのお考えをお聞かせ願えればと思い、重箱の隅をつついた雑感を寄せさせて頂きました。
今後さらなるご健筆をお祈りします。長々と失礼しました。

大津御所体制と長宗我部氏
桐野
惟宗さん、はじめまして。

ハンドルかご本名か存じませんが、島津氏ゆかりの方でしょうか?

さて、拙著を詳しく読んでいただき、有難うございます。
大津御所体制と長宗我部氏の評価は難しいところですが、拙著でも触れていますが、天正5年頃、土佐幡多郡にある妙顕寺の末寺の寺領に長宗我部氏が替地を与えるという一件が、妙顕寺を通じて織田政権に訴えられています。結局、元親は織田政権の奉行人の裁定に従って、寺領を返還せざるを得ませんでした(拙著177~78頁)。

この一件などを見ると、土佐国の寺社の訴訟が本寺を通じて織田政権に持ち込まれて解決が図られ、長宗我部氏がその裁定に従わざるを得ないという構図がうかがえます。
となると、公家とくに摂関家も同様ではないかと思われます。
摂関家自体はそれほど力はありませんが、信長に庇護される存在であり、その訴訟があれば、信長は動きます。
大津御所体制も一条氏が織田政権を背後にしていたからこそ、長宗我部氏の上位たりえたのだと思います。

ですから、元親が大津御所体制を解体したことは、土佐一条氏の否定であり、それはひいては摂関家一条氏の否定につながり、織田政権が定めた秩序体制への反抗ととられてもおかしくないと思います。
もっとも、反抗から叛逆まではまだ距離があるように思いますが……。
史料上では、一条氏が信長に訴え出たという確たる証拠は見出せておりません。そのあたりがはっきりすると、大津御所体制への評価も定まるような気がします。


大津御所体制雑感、質問への回答御礼
惟宗
桐野さん、拙い質問に対するご丁寧な回答ありがとうございます。
惟宗は私の本姓ですが、分家の一族が熊野別当につながる系譜らしいです。
さて、お説理解致しました。ただ、真静寺所蔵文書の理解は、桐野さんも指摘なされているように、大津御所体制の背後に存在した、一條内基を通じて信長に裁定を願い出たものか否か、史料的裏付けがほしい所ですね。当時の幡多郡支配は元親実弟の吉良親貞であり、幡多郡の土地割譲元親に降った旧一條系の土豪にあつく、その他は元親の直轄領に編入されていたにもかかわらず、織田権力の直接介入が散見されないのは不明です。この、大津御所問題の深化は、一條と長宗我部の問題に止まらない意義あるものと考えております。この問題については、土佐一條氏を戦国公家大名と捉えるか否かという問題も含め、いずれ文章化を考えておりますので、勉強になりました。ありがとうございます。

ご健闘を
桐野
惟宗さん、こんにちは。

大津御所体制と長宗我部氏の関係を本格的に研究されているのですね。
よい成果があがることをお祈りします。

ありがとうございます!
惟宗
桐野さん、こんばんは!

大津御所体制と長宗我部氏ひいては、中央の織豊権力との問題は荷の重いテーマですが…(笑)
桐野さんのご教示を活かす事ができたらと思います。色々ありがとうございました!

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御高著に対する雑感&質問
はじめまして!偶然、このブログサイトを発見?して、改めて桐野さんの博学ぶりに驚嘆しております。
さて、ご高著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)を拝見し、個人的興味のある長宗我部氏と土佐一條氏について、織田権力との関係性を論じられた箇所について、雑感を…。桐野さんは、秋澤繁氏論文を活用され、大津御所体制説を肯定的に捉えておられますが、桐野さんも指摘されている通り、「戦国大名長宗我部氏に対していささか過小評価ではないかという気がする」(同書75頁)のです。土佐一條氏については、朝倉慶景氏の研究を始め、市村高男氏、石野弥栄氏等の研究がありますが、権威としての存在である土佐一條氏=京都一條内基の影響力が、中央の政治的思惑があるとはいえ、権力たる長宗我部元親にとって、実質的な土佐及び四国統一過程において、どれだけ影響があったのでしょうか?
これは関東の古河公方足利氏と後北条氏の擬制的主従関係にとても類似しています。信長が果して大津御所体制を内包、利用することで、元親を統制する必要があったのか?なぜ、直接的な上位権力として、元親を統制するだけの実力がありながら、兼定以降、幡多郡を中心とする領域支配権を失い、伝統的権威にすきない土佐一條氏を梃子にしなければならなかったのか、大津御所体制の必要性が、いまひとつ理解できませんので、桐野さんのお考えをお聞かせ願えればと思い、重箱の隅をつついた雑感を寄せさせて頂きました。
今後さらなるご健筆をお祈りします。長々と失礼しました。
2009/07/18(Sat) 18:28 | URL  | 惟宗 #nQriN1oY[ 編集]
大津御所体制と長宗我部氏
惟宗さん、はじめまして。

ハンドルかご本名か存じませんが、島津氏ゆかりの方でしょうか?

さて、拙著を詳しく読んでいただき、有難うございます。
大津御所体制と長宗我部氏の評価は難しいところですが、拙著でも触れていますが、天正5年頃、土佐幡多郡にある妙顕寺の末寺の寺領に長宗我部氏が替地を与えるという一件が、妙顕寺を通じて織田政権に訴えられています。結局、元親は織田政権の奉行人の裁定に従って、寺領を返還せざるを得ませんでした(拙著177~78頁)。

この一件などを見ると、土佐国の寺社の訴訟が本寺を通じて織田政権に持ち込まれて解決が図られ、長宗我部氏がその裁定に従わざるを得ないという構図がうかがえます。
となると、公家とくに摂関家も同様ではないかと思われます。
摂関家自体はそれほど力はありませんが、信長に庇護される存在であり、その訴訟があれば、信長は動きます。
大津御所体制も一条氏が織田政権を背後にしていたからこそ、長宗我部氏の上位たりえたのだと思います。

ですから、元親が大津御所体制を解体したことは、土佐一条氏の否定であり、それはひいては摂関家一条氏の否定につながり、織田政権が定めた秩序体制への反抗ととられてもおかしくないと思います。
もっとも、反抗から叛逆まではまだ距離があるように思いますが……。
史料上では、一条氏が信長に訴え出たという確たる証拠は見出せておりません。そのあたりがはっきりすると、大津御所体制への評価も定まるような気がします。
2009/07/18(Sat) 22:02 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
大津御所体制雑感、質問への回答御礼
桐野さん、拙い質問に対するご丁寧な回答ありがとうございます。
惟宗は私の本姓ですが、分家の一族が熊野別当につながる系譜らしいです。
さて、お説理解致しました。ただ、真静寺所蔵文書の理解は、桐野さんも指摘なされているように、大津御所体制の背後に存在した、一條内基を通じて信長に裁定を願い出たものか否か、史料的裏付けがほしい所ですね。当時の幡多郡支配は元親実弟の吉良親貞であり、幡多郡の土地割譲元親に降った旧一條系の土豪にあつく、その他は元親の直轄領に編入されていたにもかかわらず、織田権力の直接介入が散見されないのは不明です。この、大津御所問題の深化は、一條と長宗我部の問題に止まらない意義あるものと考えております。この問題については、土佐一條氏を戦国公家大名と捉えるか否かという問題も含め、いずれ文章化を考えておりますので、勉強になりました。ありがとうございます。
2009/07/19(Sun) 00:37 | URL  | 惟宗 #nQriN1oY[ 編集]
ご健闘を
惟宗さん、こんにちは。

大津御所体制と長宗我部氏の関係を本格的に研究されているのですね。
よい成果があがることをお祈りします。
2009/07/19(Sun) 16:54 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございます!
桐野さん、こんばんは!

大津御所体制と長宗我部氏ひいては、中央の織豊権力との問題は荷の重いテーマですが…(笑)
桐野さんのご教示を活かす事ができたらと思います。色々ありがとうございました!
2009/07/19(Sun) 18:41 | URL  | 惟宗 #nQriN1oY[ 編集]
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