歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

少し時間が空いたが、14日(火)夜、小学館アカデミー「てらこや」の講座に出講したことをば。

今回から「小松帯刀と幕末薩摩藩7」の新たなクールが始まりました。

前回まで「四侯会議」のプロセスと結末をしつこくやったので、受講者のみなさんには多少食傷気味だったかもしれませんが、今回から新展開になります。

四侯会議の結末に対して、もっとも顕著な反応を示したのは薩摩藩と一部公家衆です。
とくに、あまり知られていない公家衆の動向に注意を払いました。

四侯会議とセットになって、議奏と武家伝奏の選任という朝廷人事問題がありましたが、そのとき、薩摩藩が候補者として推薦したのが大原重徳と中御門経之、そして正親町三条実愛です。
三者とも、文久年間は親長州の激派公家として鳴らした連中です。
とくに前二者については、そのあまりの過激ぶりに孝明天皇が激しく忌避したことでも知られています。
朝廷の事実上のトップである二条摂政も、孝明天皇の遺勅を理由に2人を拒否し、正親町三条の議奏就任だけは認めました。

今回は『岩倉具視関係文書』三や『朝彦親王日記』二から、中御門と正親町三条の発言を取り上げました。
中御門は四侯会議の結果を「幕暴の極み」と慶喜を痛罵し、このうえは「内奸誅戮断然 朝敵の名を以て討幕の外これなく候」と、はっきりと「討幕」を口にして、岩倉具視に同調を求めています。

正親町三条についても、朝彦親王が聞いた話として、「長防は寛大、兵庫開港は止めさせ候」とし、いかにも親長州で攘夷派らしい主張をしています。薩摩藩さえ兵庫開港はやむなしと見ていましたから、正親町三条はさらにその上をいきます。さらに彼は「大樹」(慶喜)がこの方針を採用しないと、将軍職など辞めさせてしまえばよいと言い放っています。

このように、四侯会議は、朝廷内に討幕派を形成させることになったのです。
慶喜はこうした公家の動きを軽視したのではないでしょうか。
のちに、中御門も正親町三条も討幕の密勅を作成した中心人物になります。

公家衆と呼応した形で、ほぼ同時期に薩摩藩でも、ひそかに討幕派が形成されます。これについて、講座では『修訂 防長回天史』を使いました。というか、おそらくこれしかありません。
四侯会議直後の慶応3年(1867)5月末か6月初旬、ひそかに入京していた山県狂介と品川弥二郎は、島津久光との対面を許されたあと、小松帯刀邸に招かれます。

同席したのは西郷吉之助・大久保一蔵・伊知地正治です。
その席で、小松が2人に語った話は有名です。

「小松曰く、(中略)幕府の譎詐・奸謀、尋常の尽力にてはとても挽回の期これあるまじき、就いては長薩連合同心戮力致し、大義を天下に鳴らしたし」

討幕」という言葉こそ使っていませんが、「尋常の尽力」ではもはや不十分で、別の手段をとることを小松は示唆しています。
そして通説では、これをもって薩摩藩の討幕派の形成だと評されています。
討幕」という言葉の定義にもよりますが、薩摩藩が言論による国事周旋では限界があると痛感したことだけは間違いありません。

昨年、大河ドラマ「篤姫」の感想を書いてきましたが、私は小松の描き方が不十分だと何度も力説しました。
それはとくにこの史料を念頭に置いてのことでした。
薩摩半島爆破、もとい薩摩藩討幕派の口火を切ったのは、ほかならぬ小松だからです。
ドラマはこれとは逆の小松像を描こうとしていましたね。
おそらく来年の大河ドラマもそうなるだろうという予想というか、予感があり、じつをいうと、あまり期待していないのです。むしろ、また的外れな言説が広がることを懸念さえしています……。

それはさておき、当講座も佳境に入りつつあります。
次回は少し趣向を変えまして、小松帯刀の新出文書を検討したいと思います。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2009/07/19 16:46】 | てらこや
トラックバック(0) |
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。