歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第115回
―島津家が石材運んだ堤―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

昨日朝刊に掲載されましたが、Web上での更新は今日にずれ込みました。
鹿児島はいま皆既日食で盛り上がっているのと、高校野球県予選が終盤なので、人手が足りなかったようです。

前回で3カ月にわたった島津氏の琉球侵攻を終えて、新しいテーマに取り組んでいます。
といっても、先日、静岡に取材に行ったときのネタなんですが。

静岡市の駿府城の近くに「薩摩土手」があります。
以前から知ってはいたのですが、実際に見たことがなかったので、なかなか書けずにおりました。

『静岡市史』などに、史蹟案内の形で少し記述がありますが、いつどのような形で普請されたのかよくわからなかったので、やはり薩摩側の資料で調べるしかないと思いました。

『旧記雑録後編四』にそれらしき記事が断片的にいくつかありましたので、それらをつなげて書いてみました。
当初は徳川秀忠の将軍補任に伴う江戸城拡張の天下普請に島津家も動員され、石材の運搬を命じられた。それが何らかの理由で、同時期に進行していた大御所家康の駿府城普請のほうに転用されたというのが真相ではないかと感じました。

薩摩土手」の由来は、島津家で堤防普請をしたのではなく、石材運搬までだろうと思います。
もし普請までしていたら、もっと関連史料が残っているはずだと思うからです。

それでも、「薩摩土手」の名前が残ったのは、よほど現地の人々に印象が強かったのでしょうか。
安倍川の洪水に泣かされていたので、喜びもひとしおだったのだと思っておきましょう。

なお、当時、「薩摩土手」は長さ4キロもありましたが、現在、残っているのは「薩摩緑地」と呼ばれる一角だけで、長さ100メートルほどでしょうか。
記事では載せられなかったので、その断面写真を載せておきます。一部コンクリートで固められていますが、原形は裾野の広い台形状だったことがイメージできると思います。
薩摩土手





それで、この「薩摩土手」の背景ですが、記事には分量の関係で書き切れませんでしたが、やはり島津家久の徳川幕府への接近と無関係ではないと思います。
薩摩土手」のための石材を運搬したのが、家久が家康から「家」の一字を拝領した直後のこと。
家久が必死になって徳川幕府への奉公に励んでいる時期と重なります。

さて、記事にも書いた赤崎左近という薩摩武士。
何か不始末をしでかしたようです。家康の側近山口直友の書状には、成敗するところを助命すると書かれています。
ところが、赤崎左近らしき人物の喧嘩沙汰を書いている『当代記』には、池田輝政の家来たちに捕らえられ、成敗されたとあります。

さて、赤崎左近は助命されたのか、成敗されたのか?
『当代記』の記事には、赤崎の名前はなく、薩摩の使者とありますから、赤崎とは別人の可能性もあります。もしそうだったら、少なくとも二人が喧嘩や刃傷沙汰を起こしていたわけですから、薩摩人の喧嘩早さがうかがわれます(笑)。

次回は、小松帯刀の写真について書きます。
いちばん有名な美青年風に写っている小松とまったくイメージの違う小松らしき人物の写真があります。従来から一部では知られていた写真ですが、ピンボケというか、コピーのコピーだったせいか、ぼやけてよくわかりませんでした。
でも、原版に近い鮮明な写真があるのがわかって、それを入手し、よく観察してみたら、いろいろ意外なことがわかりました。
お楽しみに。

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【2009/07/21 20:51】 | さつま人国誌
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