歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第119回
―戊辰戦争で東北を転戦―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

堀直太郎のつづきです。
慶応3年後半の激動期と戊辰戦争で、堀がどのような動きをしたか書きました。
注目すべきは、堀がやはり薩摩藩武力討幕派の中枢にいた一人だということです。

薩摩藩は、土佐藩主導の大政奉還建白より以前に、長州・芸州両藩と示し合わせて、一気に三藩の大軍を京坂に送り込んで京都政局を転覆させようと計画しました。
しかし、肝心の薩摩藩内でなかなか意見が統一できず、期日までに長州の三田尻への軍勢集結ができませんでした。
そのため、長州藩はまた薩摩に裏切られたかという思いを抱いたようです。
期日に数日遅れて、ようやく薩摩藩兵400人が三田尻に到着しますが、その隊長の一人が堀でした。
堀はその後、長州と大坂の間を往来しながら、挙兵計画を支え続けます。

戊辰戦争では、平潟上陸作戦の参謀として参戦しています。
この平潟口の戦いはあまり知られていませんが、奥羽越列藩同盟の脆弱部分を急襲した作戦で、東北の戦況を変えた戦いだといってよいと思います。

これと関連するかどうかわかりませんが、西南戦争で黒田清隆が衝背軍を率いて肥後八代・日奈久に上陸作戦を敢行して、戦況を一挙に変えてしまったことがありました。黒田は平潟上陸作戦を参考にしたのではないかと、個人的に思っていますが、さて……。

堀は蝦夷地へ出航しようとする榎本艦隊を追って石巻まで出張しましたが、一足遅れてしまいました。もしこのとき捕捉しておれば、箱館戦争はなかったか、違った展開になっていたかもしれません。また同時に、堀の名前ももう少し知られたかもしれません。

堀は明治2年(1869)10月に他界します。享年40の若さでした。
死因は曾孫の貞義氏から肺結核だったとうかがいました。
また、堀の死から数カ月後に小松帯刀も同じ病名で亡くなっています。
堀は小松と相当親しかったようですから、どちらかが他方に病気を移したかもしれないと、貞義氏は仰せでした。

【お知らせ】
次回は総選挙報道のため、また休載です。
文化面も総選挙特集にあてられるようです。

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【2009/08/24 14:28】 | さつま人国誌
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