歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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本日は投票日。
さっそく済ませてきました。

さて、このところ、時の流れが速く感じられてしかたありません。
ようやく25日(火)の講座報告です。

小学館アカデミー古文書講座「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩7

第3回講座に出講。
今回のテーマは表題のとおりです。
小松帯刀からはやや離れた内容になりました。

薩摩藩では慶応3年(1867)6月頃に、いわゆる討幕派が形成されます。
その一方で、多数派工作も続けられ、とくに土佐藩との連携が重要な課題となりました。
というのも、同藩では後藤象二郎が参政に就任して上京してから、国事周旋に熱心になり、とくに長崎で種々の情報に接したからか、大政奉還による政令一途をめざすようになります。
今回は薩摩藩と土佐藩が交わった薩土盟約と、それに坂本龍馬がどの程度影響を与えたのか検討しました。

薩土盟約については、2点の文書があり、「大綱(旨主)」と「約定書」に分かれます。佐々木克氏の説に従い、「大綱」が土佐藩の原案、「約定書」が薩摩藩との協議によって修正され具体化された最終案という位置づけで読みました。

このうち、「約定書」に「船中八策」がどの程度反映しているのかという観点から検討してみましたが、結果として、船中八策は龍馬が関与したか否か、またいつ成立したかよくわからないというしかありません。

それと、「船中八策」という呼称はいろいろな点で不都合だと思います。
まず日付がおかしい。6月15日付になっていますが、その日は龍馬も長岡健吉も後藤もすでに入京していて、夕顔丸の「船中」ではありません。
それと、近年指摘されていますが、「船中八策」と呼ばれるようになったのは同時代もしくは明治初期ではなく、大正年間の後半だと思われ、おそらく坂崎紫瀾あたりの命名ではないかと思われること。それを世間に広めたのは、さらに時代が下って、平尾道雄氏ではないかと思われます。

また、「船中八策」とほぼ同じ趣旨のものがすでに、龍馬の縁者、弘松宣枝によって明治中期に紹介され、「建議案十一箇条」(ただし、9,10,11の3カ条は不詳)と呼ばれています。
このことから、「船中八策」は龍馬伝説を形成するツールとして、意図的に作為された可能性が濃厚だと思います。

結局、講義内容は明確な結論が得られず、消化不良で終わりましたが、受講者のみなさんからたくさん質問があり、議論が盛り上がったことが大きな収穫でした。
それにしても、みなさんはお詳しい。驚きました。

次回は、西郷の「討幕」論あたりをやろうと思っています。

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【2009/08/30 10:59】 | てらこや
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