歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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歴史読本連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第22回
―志賀陣の持久戦―

すっかり忘れておりましたが、すでに発売中です。

今回は表題のとおり、比叡山に陣取った浅井・朝倉軍と対決した志賀の陣について書きました。

宇佐山城合戦で、森可成らが討死したことはよく知られています。じつはちょっと前まで、私は城内で玉砕したとばかり思い込んでいたのですが、城外に打って出て討死しています。
その後、城は可成の与力や家来で死守しています。
このことはあまり強調されていませんが、浅井・朝倉方にとっては小さくない失態ではなかったかという気がします。
その後、信長がこの城に本陣を置いて、浅井・朝倉両軍に圧迫を加えることが可能になりましたし、いわゆる山中越(今道越)のルートを押さえなかったことが、のちのちに響いたような気もしています。

浅井・朝倉方の最大の誤算は、三好三人衆や六角承禎父子が個別に信長と和睦してしまったことでしょうね。
前者に関しては、『大日本史料』10-5あたりに、阿波から渡海してきた篠原長房との和睦と綱文が立ててありますが、あまり正確ではないと思います。
これは阿波三好氏との和睦を意味すると考えたほうがいいと思います。そのなかに三好三人衆も篠原長房も含まれるかと。
三好宗家は当主義継がすでに信長=義昭に味方しています。
阿波三好氏は実休以来、宗家とは独自の立場になっていると思います。
このあたりは、三好氏に詳しい天野忠幸氏の論文から学びました。

もともと三好三人衆が始めたいくさに本願寺や浅井・朝倉氏が乗ったという構図でしたが、言い出しっぺが先に和睦してしまっては格好がつきませんね。
もしかすると、三好三人衆と篠原長房らとの間に温度差というか、路線の違いがあったのでしょうか?
単に三好三人衆も野田・福島の対陣で消耗して厭戦気分にあふれていただけかもしれませんが。

いずれにしろ、阿波三好と六角の両氏の戦線離脱によって、浅井・朝倉方に勝つ目はなくなりました。あとは退き際をどうするかという段階になります。

有名な勅命講和だということになっていますが、さて、そう呼んでいいのか、私は以前から疑問に思っていましたし、書いたこともあります。
信長が「袞龍の袖にすがった」(天皇に泣きついた)という説もかつてありましたが、史料に忠実ではない偏った見方だと思います。この時点で信長が形勢不利だったとは思えません。もちろん、圧倒的有利だったわけではなく、相対的なものですが。

そのあたりのことも書きたかったのですが、分量の関係で次回まわしとなりました(すでに入稿済みです)。
次回は勅命講和の当否について、それと信長が浅井長政に宛てたとされる起請文を再検討してみました。

それにしても、宇佐山城に取材調査に行っていなかったことが悔やまれます。過去に何度も機会はあったのですが……。
三井寺とともに、ぜひ一度訪れたいものです。

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【2009/09/02 23:35】 | 信長
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