歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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『歴史読本』連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第23回

同誌11月号、現在発売中のようです。

連載も2年間でひと区切りということで、いよいよ大詰めとなりました。

今回の焦点は、志賀の陣での信長と浅井・朝倉の講和についてです。
少し立ち入って検討しました。
「勅命講和」というのは限定的なのもので、将軍義昭の主導により関白二条晴良が奔走したので、当初講和を渋っていた信長もこれに応じたものと思われます。
最近の研究動向を見ても、「袞龍の袖にすがる」(天皇に泣きつく)という評価は過去のものだと思います。

講和にあたって、信長は当然強気に出た。江北の支配に関して、浅井方が3分の1、信長方が3分の2知行するという条件を突きつけている。浅井方は内心不満だったと思われるが、とくに表立って異論を唱えた形跡はないため、渋々その条件を飲んだと思われる。

一方、今回もっとも強調したかったのは、かつて奥野高広氏が紹介した信長の朱印状形式の起請文である(「血は水より濃い」『日本歴史』524号、1992年)。

この起請文は残念ながら、宛所が切れていて存在しない。そのため、奥野氏は文中に「江州・濃州境目番手の儀」云々とあることから、これを浅井父子か長政宛てだと推定した。奥野説は現在も継承されている。

しかし、私見ではそうではないと述べた。
同じく文中に「両国の勢」とあり、宛所は明らかに国持大名である。
詳しくは拙稿をご覧下さい。

もうひとつは、起請文冒頭に「勅宣により今度かくのごとく和談」云々とある。
しかし、この起請文の日付11月28日以前に「勅宣」か、それに類する綸旨のようなものが発給された形跡はない。
現存する綸旨は12月9日付の山門衆徒中宛てだけである。
これは現存する史料では解釈できない謎である。

もっとも、片山正彦氏はこの綸旨の下書があったらしいことを指摘している(「『江濃越一和』と関白二条晴良」『戦国史研究』53号、2007年)。
あるいは、これに該当するのだろうか?

いずれにしろ、評価が難しい史料であることは変わらない。

次回は第24回です。
比叡山延暦寺焼き打ちあたりになりそうです。

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【2009/09/22 23:49】 | 信長
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どうも。
さわだ
信長記か何かでは「信長は土下座してこれからの天下は朝倉氏が持ち給え。
我は二度と望まぬ.]と言ったとか。

信様のいい部分ですよね(笑。

天下は朝倉殿
桐野
さわださん、こんにちは。

お示しのセリフは『三河物語』の逸話ですね。
よく引用されるのですが、フィクション入ってると思います。

もっとも、私が連載で紹介した宛所不明の信長起請文と、無関係とはいえないかもしれません。この起請文で、信長は珍しく、相手に対して謙譲的な言葉を使っていますから。

『三河物語』はこの信長起請文を見聞きして、かなり誇大に表現したのかも知れませんね。


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この記事へのコメント
どうも。
信長記か何かでは「信長は土下座してこれからの天下は朝倉氏が持ち給え。
我は二度と望まぬ.]と言ったとか。

信様のいい部分ですよね(笑。
2009/09/26(Sat) 14:25 | URL  | さわだ #h5y3zjyM[ 編集]
天下は朝倉殿
さわださん、こんにちは。

お示しのセリフは『三河物語』の逸話ですね。
よく引用されるのですが、フィクション入ってると思います。

もっとも、私が連載で紹介した宛所不明の信長起請文と、無関係とはいえないかもしれません。この起請文で、信長は珍しく、相手に対して謙譲的な言葉を使っていますから。

『三河物語』はこの信長起請文を見聞きして、かなり誇大に表現したのかも知れませんね。
2009/09/27(Sun) 10:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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