歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

栄・中日文化センター講座「『信長公記』を読み解く」第3回

24日(木)朝、名古屋へ出張。
表題の講座も3回目となる。

今回は弟信勝との抗争の様子や兄弟の対比を試みた。
とくに通称官名について、信勝が弾正忠→武蔵守→弾正忠と、何度も変えている意味を考えた。
信勝が弾正忠、信長が上総介を名乗ったのはほぼ同時期で、天文23年(1554)前後。
信勝の信長への対抗心が見える。
信勝はこのとき、諱も達成に改名している。「達」は守護代の大和守織田家の通字であることから、守護代家とつながっているという意識もあり、信長に優越しようとしたのだろう。

そこで、両者の名乗りのきっかけを考えてみるとき、守護代の大和守家が織田信光(信長叔父)によって清洲城を乗っ取られ、当主彦五郎が自害に追い込まれて滅亡したことと無関係なのだろうかという疑問を前々から抱いていた。

角川本で、奥野高広氏は清洲乗っ取りと彦五郎自害を弘治元年(1555)だとしている。
しかし、『定光寺誌』には、彦五郎自害と信光の不慮の死を天文23年だとしている。『定光寺誌』は信頼できる史料だと思われる。
とすれば、信長の上総介名乗りは清洲入城の直後となる。
信長が事実上の尾張守護代になったことにちなむ名乗りではないのだろうか。

それに対して、ほぼ同時期に信勝が達成と名乗っているのは、逆に守護代家を継承しているのは自分だと主張して、信長に対抗したのかもしれない。

首巻の記事は年次が書かれていないことが多く、たまに書かれていても間違っていることがあるので、年次比定に神経を使わされるのが難儀である。

村木城の戦いにも触れたが、私が少し誤解していたかもしれないことがあった。
信長が攻撃を担当した村木城南面の堀について、首巻では、

「大堀霞むばかりかめ腹にほり上げ」

と書かれている。
私は「かめ腹」を「亀腹」だとばかり思い込んで、後北条氏がつくった山中城の障子堀のようなもので、四角ではなく六角形(亀甲形)ではなかったのか、あるいは堀ののり面が亀のお腹のように膨らんでいるのではないかと説明してしまったが、城郭門外漢の浅知恵だったかもしれない。

受講者の方のご指摘によれば、「甕腹」ではないかとのこと。
『日本戦国史国語辞典』に次のようにあるとか。

かめばら【甕腹】 堀などを甕のように深く掘り下げること。

ご指摘感謝です。

ただ、日国(『日本国語大辞典』)には「甕腹」は立項してなくて、その代わりに「亀腹」はあります。
城郭の専門用語なら、さすがの日国にも掲載されていないかもしれませんが。
参考までに「亀腹」には次のような意味があります。

「妊婦の腹のこと」
「建築物の基礎の部分や、鳥居の柱下などを丸く漆喰などで固めた、まんじゅう形の部分」


う~ん。城郭の用語に転用していいのか微妙な意味あいですね。

次回はいよいよ桶狭間合戦がテーマです。
受講者のみなさんの関心も高いので、やり甲斐がありそうです。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2009/09/27 11:51】 | 中日文化センター
トラックバック(0) |

かめ腹
かぎや散人
新編東浦町誌p198の復元図では、北は入江・東は衣浦湾であり南は湿地に推定しています。
これは明治期・大正期の地形図にも相当し、江戸期の村絵図を見ても干拓新田になっています。
ですから、当時は遠浅の砂浜などであり、堅い地盤ではなかったものと思われますから、作りたくても障子堀などにはできないだろうと思われます。
また、そのような場所を掘り下げたならば、1mも掘り下げないうちに、水が出てくるでしょうから、それ程深くは掘れなくても、泥状にして敵を足止めさせるには効果的であったと考えられます。

御礼
桐野
かぎや散人さん、こんにちは。

村木城周辺の地質について、ご教示有難うございます。
それほど低湿地なら、空壕じゃなかったかもしれませんが、『信長記』首巻にはそれ以上の記述がありません。残念です。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
かめ腹
新編東浦町誌p198の復元図では、北は入江・東は衣浦湾であり南は湿地に推定しています。
これは明治期・大正期の地形図にも相当し、江戸期の村絵図を見ても干拓新田になっています。
ですから、当時は遠浅の砂浜などであり、堅い地盤ではなかったものと思われますから、作りたくても障子堀などにはできないだろうと思われます。
また、そのような場所を掘り下げたならば、1mも掘り下げないうちに、水が出てくるでしょうから、それ程深くは掘れなくても、泥状にして敵を足止めさせるには効果的であったと考えられます。
2009/09/28(Mon) 20:16 | URL  | かぎや散人 #jOGvZT7o[ 編集]
御礼
かぎや散人さん、こんにちは。

村木城周辺の地質について、ご教示有難うございます。
それほど低湿地なら、空壕じゃなかったかもしれませんが、『信長記』首巻にはそれ以上の記述がありません。残念です。
2009/09/29(Tue) 20:44 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。