歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第122回
―逆臣の子、無二の忠臣へ―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は久しぶりに戦国の話題を取り上げました。
なんか、懐かしい感じです。

山田有信については、戦国島津氏をご存じの方なら、ご存じだと思います。
彼は島津貴久・義久父子に重用されます。
とくに義久時代には御使役や老中に抜擢されています。

それほど義久の信任厚かった有信ですが、じつは一度、義久の意向に逆らったことがあります。
今回は紙数の関係で書けませんでした。
それは、天正14年(1586)のことで、義久の末弟家久が独断で豊後攻めを計画したときのことです。
義久は一度豊後攻めを決定するのですが、情勢変化を見て、筑前攻めに切り換えます。有名な岩屋城攻めです。
家久など日向衆は豊後攻めの支度をしていたのに、急に筑前攻めを命じられたのが不満で、ひそかに豊後攻めをしようとし、義弘もそれに巻き込もうとしました。義弘が自重したので、結局、計画は頓挫してしまいます。

このとき、有信は義久の命で、家久など日向衆に筑前攻めの下命を伝えにいく使者となりましたが、自身も日向衆(高城地頭)の一員なので、家久を中心とした謀議に加わってしまいました。

義久は有信の行動を叱責したと思いますが、あまり史料には表れません。あるいは、末弟家久への怒りが大きかったのでしょうか。

この話はまた別の機会にでも書こうと思います。
次回は、有信の子・有栄、というより山田昌巌といったほうが有名ですが、彼について書こうと思います。とくに関ヶ原の退き口を中心に書く予定です。
なお、昌巌は私の郷里出水の有名人でもあります。

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【2009/09/28 22:40】 | さつま人国誌
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