歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第124回
―関ケ原で壮烈な戦死―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

本来は掲載日の昨日中に更新されるはずでしたが、本日が新聞休刊日のため、担当部署がお休みだったかもしれません。

今回も関ヶ原合戦関連の記事です。
関ヶ原合戦は旧暦9月15日ですが、鹿児島では10月の第4日曜日にそれにちなんだ妙円寺参りが行われます。まあ、それを多少意識した記事作りです。

島津豊久は関ヶ原盆地から伊勢街道に至る途次の烏頭坂あたりで討死したと伝えられています。
一方、そうではなく、重傷を負った豊久は戦場からやや離れた上石津町(現・岐阜県大垣市)まで逃げのび、瑠璃光寺あたりの樫原で息絶えたという伝承も残っています。
瑠璃光寺には、豊久の墓とされるものが現在も保存されています。
真偽のほどはわかりませんが、参考までにその写真を載せておきます。
案内板1
案内板2
島津豊久墓




記事にも少し書きましたが、豊久死後の佐土原島津家は家康によって改易され、所領は一時、徳川領となりました。
しかし、島津本家の和睦交渉の過程で返還され、垂水島津家の島津以久が入部し、新たな佐土原島津家となり、幕末から現在まで至っています。
一方、豊久の跡は喜入氏から入った養子の忠栄が継ぎ、島津本家家中に復帰し、永吉島津家(日置郡永吉4.400余石)となって幕末に至りました。

次回もしつこく関ヶ原関連を書く予定です。

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【2009/10/13 11:56】 | さつま人国誌
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ばんない
お久しぶりです

本文、この箇所が気になりました
> 豊久ははじめ忠豊と名乗ったが、豊臣政権に服属したの
>ち、豊久と改めた。秀吉の姓の一字を下にするのは不敬とい
>う理由からである。
『旧記雑録後編』所収の文書を見ると、朝鮮出兵中の文書でも「島津忠豊」と書かれている物が散見されますが…

取り急ぎ質問のみにて、失礼します。

忠豊
桐野
ばんないさん、こんにちは。

忠豊から豊久への改名時期はよくわかりませんね。
私の書き方も大ざっぱだったかもしれません。

朝鮮出兵中に「忠豊」名乗りがあるということですが、それは発給文書ですか? 私は忠豊=豊久の発給文書をほとんど見た記憶がなかったもので。
もし『旧記雑録後編』のなかで、ご存じのものがあれば、教えて下さい。
豊臣政権からの朱印状はすべて「又七郎」宛てになっていた記憶があります。

これから、豊久が父と同じ中務大輔の官途を名乗ったのもだいぶあと、朝鮮陣が終わってからでしょうかね?

島津「忠豊」
ばんない
こんにちは。早速のご返答ありがとうございます。

本文を書くと長くなるので番号のみにて申し訳ありません。
以前拙ブログで取り上げた物で、他家文書になりますが
「相良家文書」813(嶋津又七郎忠<花押>→相良宮内大輔、十二月廿二日)
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/05/0502/0238.tif
は朝鮮出兵中に書かれた物かと思います。実物の写真はwebでは見あたりませんでした。

また朝鮮出兵中ではなくその後の庄内の乱の頃に書かれた物かと思われますが、パッと目に付いた物だけ挙げてみますと
「旧記雑録後編」3-961(又七忠豊→伊勢弥九郎、(慶長4年)十一月二十六日)
「旧記雑録後編」3-964(中務大輔忠豊→伊勢兵部少輔殿、(慶長4年)雪月朔日)
があります。

取り急ぎ用件のみにて失礼します。

侍従任官
桐野
ばんないさん、こんにちは。

『相良家文書』『旧記雑録後編』所収の「忠豊」文書のご紹介有難うございました。

慶長4年まで忠豊だったとすれば、豊久名乗りはほんの1年もなかったことになりますね。

となると、「不敬」云々はまったくの的外れだったことになります。
それと同時に改名のきっかけは何なんでしょうね?

ひとつ関連が考えられるのは、豊久が慶長4年頃か、又七郎をやめて中務大輔を名乗り、同時に侍従に任官しています。これは佐土原島津家が公家成したことを意味します。
「豊久」名乗りは侍従任官=公家成とセットかもしれません。
中務大輔の通称官名だと、父家久と似たような豊久名乗りのほうが据わりがよかったとか、個人的な好みもありそうですが(笑)。

貴重なご教示有難うございました。


『以久』の読みについて
西海の虎
はじめまして、西海の虎と申します。
『島津義久』や今回の『さつま人国誌』を拝読しまして、1つ気になった点があります。
島津以久の読みですが、別名幸久、征久とあるためか、一般には『ゆきひさ』と読まれているようです。
御著書では『もちひさ』で統一されているようですが、何か理由があるのでしょうか。

忠豊名乗り
桐野
ばんないさん、こんにちは。

修正・補足です。
『旧記雑録後編三』を見るかぎり、忠豊名乗りは慶長5年2月まで確認できますね(1032号)。

あまり豊久は調べたことがなかったので、驚きました。
豊久名乗りはほんの数カ月しかないことになりますね。
大変勉強になりました。有難うございます。

以久
桐野
西海の虎さん、はじめまして。

コメント有難うございます。

「以久」については悩ましいですね。
『島津氏正統系図』や『旧記雑録拾遺 諸士系譜三』忠将流などには、

「以久
 初幸久 征久」

と書かれていることが多いですね。
これは初名が幸久で、最終の名乗りが以久だったことを意味するのでしょう。

読みに関しては正直わかりません。
「ゆきひさ」か「もちひさ」のどれが正しいか、よほど確たる史料に明記されていない限り、判断できないと思います。

「以」を何と読むかですが、漢和辞典の人名読みとして、

これ/さね/しげ/とも/もち/ゆき

とありますから、「もちひさ」でも「ゆきひさ」でもいいことになりますね。あるいは、それ以外の可能性もあります。
私が「もちひさ」読みを多用するのは、常識的な読み方であることと、「幸久」「征久」とむしろ別の読み方をするのではというまったく主観的な感触からです。

ですから、とくに根拠や基準はありません。

追伸
ハンドル名は島津貴久にちなむものでしょうか?
もしそうなら、貴久を「西海の虎」と異称するのはどんな史料に基づいているのでしょうか?

ありがとうございました
西海の虎
丁寧な解説ありがとうございました。
実はこの質問は、以前から以久の読みに疑問をもっていた友人がきっかけで私も興味を持ち、先に質問をしてしまった次第です。
そのため、友人と出会った掲示板の一部を拝借してハンドル名とさせていただきました。
ですから、『西海の虎』自体に特に意味はありません。
ハンドル名が適当ではなかったかもしれませんね。申し訳ありません。

今後ともよろしく
桐野
西海の虎さん、こんばんは。

いろいろ事情を書いていただき、有難うございます。
また遊びに来て下さいませ。

連載「さつま人国誌」はしばらく関ヶ原シリーズです。
よかったら、ご覧下さい。

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ばんない
こんばんは。
島津「忠豊」についてこちらこそ勉強になりました。ほんの数ヶ月しか名乗ってない諱で有名になってしまって、草葉の陰でどう思ってるんでしょうね、豊久(汗)

改名のきっかけですが、私も桐野さんの意見に同意です。さて、慶長4年~5年の「公卿補任」を当方不精者でいまだに読んだことがないのですが、ちゃんと豊久の名前も載っているんでしょうか?気になります。

閑話休題、豊久は関ヶ原の退き口の活躍があまりにも有名すぎるのですが、それまでの人生ももう少し研究対象になってもいいように考えています。が、早死にしたためか史料も少ないみたいですね…。

改名について
市野澤
こんにちわ。
質問・回答も質が高く、勉強になります。

秀吉に遠慮し、改名した話題を拝見していて、私は氏郷が秀吉に遠慮し、改名したという逸話を思い出しました。

今回のお話を伺い、通説の意外な盲点を益々、実感しました。

やや話題からズレた書き込みで申し訳ありません。

いえいえ
桐野
市野澤さん、こんにちは。

私の間違った思い込みを指摘してもらっただけです。
もっとも、それがきっかけで、意外な事実に気づいてよかったですけどね(笑)。

島津忠豊の経歴について
時乃★栞
初めてコメントします。
当方、趣味で九州戦国専門のブログを運営しております。
本業は肥前史研究ですが、未だ駆け出しです。
ばんない様のところとも相互リンクさせて頂いておりまして、それでこちらに辿り着きました。

いま相良氏をメインで歴史記事を書いてて、菱刈氏を調べてました。
で、その中で島津忠豊の経歴でネット上では初見のものがあったんです。

出典は「菱刈史、有川国千賀編、大正13」近代デジタルライブラリ図書館で閲覧しました。
56頁目「第二章豊臣秀吉の朝鮮征伐」一行目。

島津忠豊公が元菱刈氏の支城だった本城(伊佐市菱刈南浦)に封を受け、本城城の城主だったと。
期間は不明ですが、天正十六年頃は本城に在城だったと書かれています。

一般的には、忠豊は父の死去後に佐土原を継いだことになっているので驚いたんです。

編者は大正時代の在野郷土史家で他の著作に「北伊佐史」があります。
「菱刈史」は菱刈氏の通史のような感じです。
現地取材、子孫への取材、墓石の確認などもしているのを窺えます。

で、忠豊公の本城在城の典拠として菱刈南浦にある平城諏訪神社(現在の南方神社)に棟札を挙げてます。
ただし「菱刈史」では棟札の内容は載せてないです。
南方神社は平成元年に改築しているので「菱刈史編者が見た」という棟札があったとしても、今も現存しているかは不明です。

大隅国衆・菱刈氏ファンなんですが、本業研究じゃないので、そこまで調べる余力がありません。

先生も忙しいとは思いますが、機会がありましたら
調べることは出来ますでしょうか?

他力本願で非常に心苦しいのですが、北海道在住なために現地に伝手がありません。
それで方途がなく、勇を鼓してコメントした次第です。
こちらにお尋ねすれば、それは調べるまでもなく違うとか等も判るかと思いまして。

突然にコメントして本当に申し訳ありません。
図々しいのは承知しておりますが、何卒宜しくお願いします。


桐野
時乃★栞さま

コメント拝見しました。

近代デジタルライブラリは国会図書館のものだと思いますが、「菱刈史」ではヒットしませんね。「北伊佐史」はありましたが。書名は正確でしょうか?

天正16年は家久の死の直後であり、忠豊は豊臣政権から佐土原を安堵されています。常識的には菱刈にいたとは考えにくいですね。忠豊という名の別人の可能性はないのでしょうか?


時乃★栞
さっそくの返信ありがとうございます。

書名は「菱刈史」で間違いないです。
国立国会図書館で請求番号519-121

>別人の可能性はないのでしょうか?

記述の流れでは忠豊公(豊久)の事を指しています。

>常識的には菱刈にいたとは考えにくいですね

そうなんです。
百歩譲って「飛び地」で拝領してたとしても「在城」というのは、ちょっと考えにくいです。

薩州家の義虎六男かとも思ったんですが、天正16年だと子供ですし。

南方神社のサイトにも、そのような棟札が残ってるような紹介はありません。
肝心の棟札の内容を書いてないので、確認のしようもない状態です。

その後に続く記述では朝鮮へ出兵する時も本城(伊佐市菱刈南浦)から出陣したとあるので、
ますます????

大正時代のせいか現代の市史や郷土史本と違い参照出典を書いてないんです。
ただ相良氏については「求麻外史」を参照しているようなので、菱刈氏の方で残ってない部分はアチコチから引っ張って継ぎ接ぎしたみたいです。

伊佐市内の神社、戦地跡、墓石、子孫への取材などコツコツ調べていたらしいのは記述内容から窺えるんですが、
地元である伊佐市以外・・・相良氏や島津氏に関しては独自調査の限界で信憑性が低いみたいです。

おそらく誰かの記録と混同したとは思ったんですが、
なにぶん専門じゃないので『所縁がある可能性』があるのか判断つきかねたものですから。

貴重なお時間を曖昧な情報で使わせてしまい、申し訳ありません。
ありがとうございました。

島津忠豊
麦穂
桐野先生、時乃★栞さま、横からすみません。

 天正16年というと、忠豊は母(家久室)といっしょに上京していたのでは……? とちょっと思いました。
 
 もし資料の混同からくる記述だったとしても、どこの誰と間違えたのか等、「混同された理由」が興味深いですよね。

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2009/10/13(Tue) 14:44 |   |  #[ 編集]
お久しぶりです

本文、この箇所が気になりました
> 豊久ははじめ忠豊と名乗ったが、豊臣政権に服属したの
>ち、豊久と改めた。秀吉の姓の一字を下にするのは不敬とい
>う理由からである。
『旧記雑録後編』所収の文書を見ると、朝鮮出兵中の文書でも「島津忠豊」と書かれている物が散見されますが…

取り急ぎ質問のみにて、失礼します。
2009/10/13(Tue) 19:09 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
忠豊
ばんないさん、こんにちは。

忠豊から豊久への改名時期はよくわかりませんね。
私の書き方も大ざっぱだったかもしれません。

朝鮮出兵中に「忠豊」名乗りがあるということですが、それは発給文書ですか? 私は忠豊=豊久の発給文書をほとんど見た記憶がなかったもので。
もし『旧記雑録後編』のなかで、ご存じのものがあれば、教えて下さい。
豊臣政権からの朱印状はすべて「又七郎」宛てになっていた記憶があります。

これから、豊久が父と同じ中務大輔の官途を名乗ったのもだいぶあと、朝鮮陣が終わってからでしょうかね?
2009/10/14(Wed) 10:15 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
島津「忠豊」
こんにちは。早速のご返答ありがとうございます。

本文を書くと長くなるので番号のみにて申し訳ありません。
以前拙ブログで取り上げた物で、他家文書になりますが
「相良家文書」813(嶋津又七郎忠<花押>→相良宮内大輔、十二月廿二日)
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/05/0502/0238.tif
は朝鮮出兵中に書かれた物かと思います。実物の写真はwebでは見あたりませんでした。

また朝鮮出兵中ではなくその後の庄内の乱の頃に書かれた物かと思われますが、パッと目に付いた物だけ挙げてみますと
「旧記雑録後編」3-961(又七忠豊→伊勢弥九郎、(慶長4年)十一月二十六日)
「旧記雑録後編」3-964(中務大輔忠豊→伊勢兵部少輔殿、(慶長4年)雪月朔日)
があります。

取り急ぎ用件のみにて失礼します。
2009/10/14(Wed) 17:11 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
侍従任官
ばんないさん、こんにちは。

『相良家文書』『旧記雑録後編』所収の「忠豊」文書のご紹介有難うございました。

慶長4年まで忠豊だったとすれば、豊久名乗りはほんの1年もなかったことになりますね。

となると、「不敬」云々はまったくの的外れだったことになります。
それと同時に改名のきっかけは何なんでしょうね?

ひとつ関連が考えられるのは、豊久が慶長4年頃か、又七郎をやめて中務大輔を名乗り、同時に侍従に任官しています。これは佐土原島津家が公家成したことを意味します。
「豊久」名乗りは侍従任官=公家成とセットかもしれません。
中務大輔の通称官名だと、父家久と似たような豊久名乗りのほうが据わりがよかったとか、個人的な好みもありそうですが(笑)。

貴重なご教示有難うございました。
2009/10/15(Thu) 10:40 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
『以久』の読みについて
はじめまして、西海の虎と申します。
『島津義久』や今回の『さつま人国誌』を拝読しまして、1つ気になった点があります。
島津以久の読みですが、別名幸久、征久とあるためか、一般には『ゆきひさ』と読まれているようです。
御著書では『もちひさ』で統一されているようですが、何か理由があるのでしょうか。
2009/10/16(Fri) 00:14 | URL  | 西海の虎 #.HrEIPlk[ 編集]
忠豊名乗り
ばんないさん、こんにちは。

修正・補足です。
『旧記雑録後編三』を見るかぎり、忠豊名乗りは慶長5年2月まで確認できますね(1032号)。

あまり豊久は調べたことがなかったので、驚きました。
豊久名乗りはほんの数カ月しかないことになりますね。
大変勉強になりました。有難うございます。
2009/10/16(Fri) 10:08 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
以久
西海の虎さん、はじめまして。

コメント有難うございます。

「以久」については悩ましいですね。
『島津氏正統系図』や『旧記雑録拾遺 諸士系譜三』忠将流などには、

「以久
 初幸久 征久」

と書かれていることが多いですね。
これは初名が幸久で、最終の名乗りが以久だったことを意味するのでしょう。

読みに関しては正直わかりません。
「ゆきひさ」か「もちひさ」のどれが正しいか、よほど確たる史料に明記されていない限り、判断できないと思います。

「以」を何と読むかですが、漢和辞典の人名読みとして、

これ/さね/しげ/とも/もち/ゆき

とありますから、「もちひさ」でも「ゆきひさ」でもいいことになりますね。あるいは、それ以外の可能性もあります。
私が「もちひさ」読みを多用するのは、常識的な読み方であることと、「幸久」「征久」とむしろ別の読み方をするのではというまったく主観的な感触からです。

ですから、とくに根拠や基準はありません。

追伸
ハンドル名は島津貴久にちなむものでしょうか?
もしそうなら、貴久を「西海の虎」と異称するのはどんな史料に基づいているのでしょうか?
2009/10/16(Fri) 10:15 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
ありがとうございました
丁寧な解説ありがとうございました。
実はこの質問は、以前から以久の読みに疑問をもっていた友人がきっかけで私も興味を持ち、先に質問をしてしまった次第です。
そのため、友人と出会った掲示板の一部を拝借してハンドル名とさせていただきました。
ですから、『西海の虎』自体に特に意味はありません。
ハンドル名が適当ではなかったかもしれませんね。申し訳ありません。
2009/10/16(Fri) 18:44 | URL  | 西海の虎 #.HrEIPlk[ 編集]
今後ともよろしく
西海の虎さん、こんばんは。

いろいろ事情を書いていただき、有難うございます。
また遊びに来て下さいませ。

連載「さつま人国誌」はしばらく関ヶ原シリーズです。
よかったら、ご覧下さい。
2009/10/16(Fri) 22:04 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2009/10/16(Fri) 22:06 |   |  #[ 編集]
こんばんは。
島津「忠豊」についてこちらこそ勉強になりました。ほんの数ヶ月しか名乗ってない諱で有名になってしまって、草葉の陰でどう思ってるんでしょうね、豊久(汗)

改名のきっかけですが、私も桐野さんの意見に同意です。さて、慶長4年~5年の「公卿補任」を当方不精者でいまだに読んだことがないのですが、ちゃんと豊久の名前も載っているんでしょうか?気になります。

閑話休題、豊久は関ヶ原の退き口の活躍があまりにも有名すぎるのですが、それまでの人生ももう少し研究対象になってもいいように考えています。が、早死にしたためか史料も少ないみたいですね…。
2009/10/16(Fri) 22:50 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
改名について
こんにちわ。
質問・回答も質が高く、勉強になります。

秀吉に遠慮し、改名した話題を拝見していて、私は氏郷が秀吉に遠慮し、改名したという逸話を思い出しました。

今回のお話を伺い、通説の意外な盲点を益々、実感しました。

やや話題からズレた書き込みで申し訳ありません。
2009/10/17(Sat) 14:06 | URL  | 市野澤 #-[ 編集]
いえいえ
市野澤さん、こんにちは。

私の間違った思い込みを指摘してもらっただけです。
もっとも、それがきっかけで、意外な事実に気づいてよかったですけどね(笑)。
2009/10/18(Sun) 09:58 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
島津忠豊の経歴について
初めてコメントします。
当方、趣味で九州戦国専門のブログを運営しております。
本業は肥前史研究ですが、未だ駆け出しです。
ばんない様のところとも相互リンクさせて頂いておりまして、それでこちらに辿り着きました。

いま相良氏をメインで歴史記事を書いてて、菱刈氏を調べてました。
で、その中で島津忠豊の経歴でネット上では初見のものがあったんです。

出典は「菱刈史、有川国千賀編、大正13」近代デジタルライブラリ図書館で閲覧しました。
56頁目「第二章豊臣秀吉の朝鮮征伐」一行目。

島津忠豊公が元菱刈氏の支城だった本城(伊佐市菱刈南浦)に封を受け、本城城の城主だったと。
期間は不明ですが、天正十六年頃は本城に在城だったと書かれています。

一般的には、忠豊は父の死去後に佐土原を継いだことになっているので驚いたんです。

編者は大正時代の在野郷土史家で他の著作に「北伊佐史」があります。
「菱刈史」は菱刈氏の通史のような感じです。
現地取材、子孫への取材、墓石の確認などもしているのを窺えます。

で、忠豊公の本城在城の典拠として菱刈南浦にある平城諏訪神社(現在の南方神社)に棟札を挙げてます。
ただし「菱刈史」では棟札の内容は載せてないです。
南方神社は平成元年に改築しているので「菱刈史編者が見た」という棟札があったとしても、今も現存しているかは不明です。

大隅国衆・菱刈氏ファンなんですが、本業研究じゃないので、そこまで調べる余力がありません。

先生も忙しいとは思いますが、機会がありましたら
調べることは出来ますでしょうか?

他力本願で非常に心苦しいのですが、北海道在住なために現地に伝手がありません。
それで方途がなく、勇を鼓してコメントした次第です。
こちらにお尋ねすれば、それは調べるまでもなく違うとか等も判るかと思いまして。

突然にコメントして本当に申し訳ありません。
図々しいのは承知しておりますが、何卒宜しくお願いします。
2015/02/20(Fri) 02:10 | URL  | 時乃★栞 #-[ 編集]
時乃★栞さま

コメント拝見しました。

近代デジタルライブラリは国会図書館のものだと思いますが、「菱刈史」ではヒットしませんね。「北伊佐史」はありましたが。書名は正確でしょうか?

天正16年は家久の死の直後であり、忠豊は豊臣政権から佐土原を安堵されています。常識的には菱刈にいたとは考えにくいですね。忠豊という名の別人の可能性はないのでしょうか?
2015/02/20(Fri) 08:38 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
さっそくの返信ありがとうございます。

書名は「菱刈史」で間違いないです。
国立国会図書館で請求番号519-121

>別人の可能性はないのでしょうか?

記述の流れでは忠豊公(豊久)の事を指しています。

>常識的には菱刈にいたとは考えにくいですね

そうなんです。
百歩譲って「飛び地」で拝領してたとしても「在城」というのは、ちょっと考えにくいです。

薩州家の義虎六男かとも思ったんですが、天正16年だと子供ですし。

南方神社のサイトにも、そのような棟札が残ってるような紹介はありません。
肝心の棟札の内容を書いてないので、確認のしようもない状態です。

その後に続く記述では朝鮮へ出兵する時も本城(伊佐市菱刈南浦)から出陣したとあるので、
ますます????

大正時代のせいか現代の市史や郷土史本と違い参照出典を書いてないんです。
ただ相良氏については「求麻外史」を参照しているようなので、菱刈氏の方で残ってない部分はアチコチから引っ張って継ぎ接ぎしたみたいです。

伊佐市内の神社、戦地跡、墓石、子孫への取材などコツコツ調べていたらしいのは記述内容から窺えるんですが、
地元である伊佐市以外・・・相良氏や島津氏に関しては独自調査の限界で信憑性が低いみたいです。

おそらく誰かの記録と混同したとは思ったんですが、
なにぶん専門じゃないので『所縁がある可能性』があるのか判断つきかねたものですから。

貴重なお時間を曖昧な情報で使わせてしまい、申し訳ありません。
ありがとうございました。
2015/02/21(Sat) 00:37 | URL  | 時乃★栞 #-[ 編集]
島津忠豊
桐野先生、時乃★栞さま、横からすみません。

 天正16年というと、忠豊は母(家久室)といっしょに上京していたのでは……? とちょっと思いました。
 
 もし資料の混同からくる記述だったとしても、どこの誰と間違えたのか等、「混同された理由」が興味深いですよね。
2015/03/15(Sun) 17:44 | URL  | 麦穂 #bzb2jBZU[ 編集]
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