歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第125回
―義弘の身代わりで戦死―

連載が更新になりました。
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今回も「関ヶ原の退き口」の続きです。
主役は長寿院盛淳といっても、知らない方が多いと思います。
島津義久に還俗を命じられて仕え、のち義弘の家老に転じています。

記事でも書いたように、盛淳は老中筆頭の伊集院幸侃とともに、太閤検地に伴う知行配分に関わりました。その方法をめぐって幸侃とも不仲になりました。2人の違いは何なのか、単に知行配分のやり方の違いなのか、あるいは豊臣政権との距離の違いなのか、まだ検討の余地があります。
また家臣団からも不満が出て突き上げられ、そのため、知行の奉行を辞退したほどです。そのまま辞めたか、思い直して再び従事したかも不明。

伊集院幸侃と同様の仕事をしたわけですから、盛淳も老中だったと思われますが、どうも幸侃より一段下の老中と評されるなど、その地位に曖昧さが残ります。
それというのも、豊臣政権服属以前の老中制は変質もしくは崩壊してしまったからでしょう。数人の老中による連署状もこの時期少なくなります。
それもそのはず。老中のなかには義弘に従って朝鮮陣に従軍していたり、上方の留守居をつとめていたり、義久・義弘・忠恒のいずれかに専属する形で奉公する者も出てきてバラバラだったからです。
ですから、盛淳の地位を計るのは難しいですね。

盛淳はどうやら関ヶ原の義弘本陣周辺で討死を遂げたのではないかと思われます。

その墓はだいぶ離れた伊勢街道筋の琳光寺にあります。
かつて、その近くの小学校だったかの裏庭に盛淳の慰霊碑が立っていて、それを撮影した記憶があるのですが、そのポジフィルムがどこに仕舞い込んだのか出てきません。琳光寺近くの小学校だったかな? ご存じの方がおいでなら教えて下さいませ。

次回も「退き口」関連で、石田三成を書く予定。
乞うご期待!

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【2009/10/19 12:26】 | さつま人国誌
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2009/10/19(Mon) 23:39 |   |  #[ 編集]
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