歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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前回エントリー日次記と日にちが前後しましたが、20日(火)はてらこや講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」8の第1回の開講でした。

今回のテーマは表題のとおり。
赤松小三郎は信州上田藩の下級藩士で、洋式軍学者。
海外渡航経験はありませんが、長崎の海軍伝習所で学び、勝海舟の弟子であり、佐久間象山とも交流がありました。

そして、慶応2年(1866)には、薩摩藩の依頼で「重訂英国歩兵練法」を編纂・刊行しています。
赤松が京都に開いた私塾には薩摩藩士だけでなく、会津・大垣・肥後など諸藩(佐幕系多し)の藩士も学びました。

ところが、赤松は慶応3年(1867)9月3日、薩摩藩の中村半次郎(のち桐野利秋)らによって暗殺されます。
今回は暗殺がどのように行われたのか、実行者である桐野の日記『京在日記』を読みながら、洛中地図を見て赤松や桐野の動きを追いました。また遺体検案書である「赤松小三郎遭難容躰書」と『京在日記』を見くらべました。桐野の記述と容躰書で、赤松の刀創は必ずしも一致していないように感じられました。

また暗殺の背景となった赤松の思想と行動についても、『続再夢紀事』六所収の赤松の意見書や、赤松が兄芦田柔太郎に宛てた書簡も詳しく検討しました。

赤松にとっては不運な面もありましたが、赤松の「幕薩一和」という政治方針は現実から遊離しており、とくに薩摩藩側の反発を買ったであろうことは想像に難くありません。
また意見書にある新政体構想も上下議政局を設けるという船中八策のような主張もありますが、構成的に幕府重視であり、薩摩藩はむろん、四侯会議の雄藩諸侯も受け容れられないものだったのではないかという感触がありました。

この点については、西周や松平乗謨などの大君制国家構想との類似を見ていったほうがいいのかもしれません。これも機会があれば、大政奉還と関連して取り上げてみたいものです。

次回は薩長芸三藩挙兵計画、いわゆる失機改図について考えてみたいと思います。

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【2009/10/26 00:33】 | てらこや
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