歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今週は2つの講座に出講。

ひとつは17日(火)、小学館古文書講座「てらこや」で、「幕末薩摩藩と小松帯刀8」の第4回講座。
テーマは「『失機改図』と坂本龍馬の動向」。

失機改図」とは、慶応3年(1867)9月、薩摩藩の呼びかけにより、薩長芸三藩出兵協定が結ばれましたが、薩摩藩と芸州藩の事情により頓挫してしまいます。
これを長州藩側が「失機改図」と呼びました。捲土重来とか新規巻き直しといった意味でしょうが、どうも長州藩側の冷たい視線も感じられます。

それもそのはず。大久保一蔵が島津久光の密命を帯びて長州に乗り込み、山口の藩庁で毛利父子や重役勢ぞろいのなか、一席ぶった自信満々の構想でした。そのため、大久保はこれで名誉回復できると感激した毛利父子から来国俊の銘刀を与えられる栄誉にも浴しました。
にもかかわらず、薩摩藩兵が期限までに三田尻港までやってきませんでした。薩摩藩の面目丸潰れです。

講座では、このときの薩摩藩の事情とは何なのか、薩摩藩側の史料ではよくわからない、おそらく藩内の倒幕反対派、自重派の抵抗によるものではないかと思うと話しました。一応、薩摩藩士の手記『道島家記』には、このとき動員された諸郷の兵から大砲なしでいくさをするのかと、家老の桂久武に詰め寄ったため、大砲の調達に手間取ったという記述がありますが、これが遅延の理由にはなりえないのではないかとも付け加えました。

そしたら、『史談会速記録』に、その頃の記事があるという受講者からのご指摘。いやはやすごいものです。教えられました。

次回はいよいよ大政奉還です。この講座、8クールめ(約40回)にして、ようやくたどり着きました。
今度は小松帯刀が主役です。


19日(木)は午後から駿河台の明治大学リバティアカデミー講座「坂本龍馬の生涯と死」の第5回講座に出講。
テーマは「薩長同盟論の現在」。
この間、報告や講座で何度か取り上げたテーマ。
いつもと少し構成を変えてみたり、いくつかあまり知られていない史料を紹介した。とくに木戸孝允宛て品川弥二郎書簡。これは薩長同盟がいつ結ばれたか決定的な史料だと思う。すでに三宅紹宣氏も触れていたが、全文紹介という形で紹介できたのは、『木戸孝允関係文書』が公刊されたことが大きい。

あと、今回の趣向としては、薩長同盟が軍事同盟であるという点を、坂本龍馬宛て木戸孝允書簡にある六カ条の約定が第二次長州戦争でどの程度履行されたかという観点から、史料で少し実証を試みた。
とくに薩摩藩が約定の第一条(薩摩藩兵2000人が京坂を固める)をほぼ忠実に履行し、さらに約定にはない長州藩本国まで援軍を派遣しようと考えていたことを指摘。
これらから、軍事同盟としか考えられないのではないかと、一応の結論を示してみた。
いろいろ考え方があるだろうが、約定の第五条(一会桑の妨害があれば決戦する)まで履行する覚悟もあったと見るべきか否か。これは仮定のことなのでわからないが、約定した以上、薩摩側にその覚悟はあったと見るべきだろう。もっとも、双方で明文化していないから、薩摩側が口実を設けて履行しない可能性もないわけではないが、それでは双方の信義に関わろう。薩長も龍馬もそうした信義こそをいちばん大事にしたと思うから。

講座終了後、近くの神保町で久しぶりに兼見卿記輪読会に参加。
先月休んでしまっていた。
幕末から織豊期に、すぐさま頭を切り換えないといけないわけで、それなりに大変だ。
次回は私が報告担当になった。

今週もいろいろありましたが、とりあえずこの辺で。

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【2009/11/21 21:53】 | 明治大学リバティアカデミー
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