歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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私の連載「信長――狂乱と冷徹の軍事カリスマ」も25回目とあいなりました。
最後の1年の始まりです。

今回は表題もむろんですが、その前段にも頁を割きました。
光秀が義昭を見限って信長に接近したこととか、三好義継・松永久秀がなぜこの時期に信長・義昭から離反したのかとかも書きました。

あまり知られていない意外な史実としては、信長と義昭の決裂時期とも関わりますが、元亀3年(1572)3月、義昭が信長の京都屋敷の造営について何度も上意を示し、信長が再三固辞したうえ、それを受諾したことです。
これは義昭の信長への好意でもあり、同年前半まで、少なくとも両者の決裂はなかったという証左ではないかと思っています。むろん、水面下ではいろいろあったでしょうが。

両者の決裂の時期がいつなのかは、武田信玄の三河・遠江侵攻の時期とも深く関わっているように思います。
最近、信玄の三河・遠江侵攻が元亀2年にあったという通説を否定する動きがあります。鴨川達夫氏や柴裕之氏などの論考・著書がそれです。

信玄と義昭の連携はいつから始まり、表面化するのか。どうも同3年後半のような気がします。
表立っては、信長の異見17カ条が大きな契機だと思います。
この問題は難しくて、私も十分詰めきれていません。

次回は信玄の雄図挫折と浅井・朝倉の滅亡あたりになりそうです。

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【2009/11/25 23:19】 | 信長
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