歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第130回
―関ヶ原で功名、家老狙撃―


連載が更新になりました。
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関ヶ原シリーズは前回で終わるつもりでしたが、もう一人いるのを忘れていました。この人です。
関ヶ原での活躍はもちろんですが、この人の場合は、何といっても平田増宗の狙撃一件が重要ですね。平田増宗は島津義久の家老で、同家久の家督継承に反対し、垂水家に嫁いだ義久二女の子忠仍を義久の後継者にしようという立場でした。
家久にとって、まさに目の上のコブといってよい人物です。

慶長15年(1610)、増宗は家久の上京を久見崎港(現・薩摩川内市)に見送ったあと、入来院清敷の地頭所に立ち寄り、私領の郡山郷に向かう途次、土瀬戸越で強兵衛に狙撃された。
余談だが、このとき強兵衛を道案内したのが桐野九郎右衛門で、のちの桐野利秋の先祖にあたる。

明らかに義弘か家久の密命、とくに後者ではないかと思われる。
家久は上京の途中、増宗暗殺の噂があることを義弘に問い合わせているが、白々しい気がする。

太守義久の家老が白昼堂々、暗殺されるというのは尋常ではない。
まさに島津本宗家の暗闘が決定的局面に立ち至っていたことを示している。義久はこの事件からわずか半年後に他界しているから、事件当時、すでに重病で政務がとれない状態だったことは容易に推察され、義弘・家久父子がその間隙をついたものである。病床の義久が信頼する側近の横死に衝撃を受けたのは想像に難くなく、義弘・家久父子による事実上の政権奪取クーデタといってよい。

この事件は、島津本宗家の系統が移動する、もっといえば、日新斎以降三代の正統が断絶し、庶流が本宗家に取って代わったともいえる。それほど重大事件だが、あまりその意義が注目されていない。島津家の陰惨な面が赤裸々に表出しているせいか。

それにしても、強兵衛は生涯で160人も殺害したと『本藩人物誌』にあります。朝鮮陣や関ヶ原合戦などいくさ働きが多いのでしょうが、それでも凄まじい数字ですね。事実だとすれば、まさに薩摩の怪物だといっても過言ではありません。

ひとつ知りたいことがあります。
ひとえに私の不勉強ゆえですが、増宗が暗殺された土瀬戸越というのはどこにあるのでしょうか? 現在の地図には掲載されていないように思います。入来と郡山の境界にある峠ではないかと思いますが、ご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

次回はまた一時、幕末・明治に戻ります。

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【2009/12/01 01:14】 | さつま人国誌
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かじやちょう
かじやちょうです。

土瀬戸越ですが、入来峠の北西にあるようですね。
土瀬戸は鹿児島訛りでつっせとと呼ばれていたようです。
今の入来峠の道は江戸時代の道ではなく旧道がそれに沿うように
あります。峠から少し入来側に行ったところに旧道と交わるところがありますので、そちらに行ったあたりが土瀬戸越だと思います。この辺りは太郎左衛門坂とも呼ばれていたようです。



源太
義弘が暗殺を指示した側だとしたらショックです。

大正七年に谷山初七郎氏が著された『島津義弘公記』の中に以下のような文がありまして、

家久公嘗て義弘公に訴えて曰く「當國の諸士は横肆にして往往布告に背くことあり。
頃屢京師に上り他國の風を聞く 福島左衛門大夫等は、背く者あれば處するに死刑を以てす。
故に威令能く國中に行はる。當國に於ても彼二三者を戮して之を懲さば如何」と。
義弘公答へて曰く「誠に此の如き者あり、然れども我には不良を摘發する如き横目なからん
少将自ら能く視察して之を挙げよ 我も亦此に留意すべし。
福島の如きは範とするに足らず、彼は必ず一代にして滅びん
死罪を以て家衆を畏服せしめんよりは、先づ我身の行ひを正し、憐愍を以て之に臨み、
自ら耻ぢ且つ格らしめんに若かざるなり」と。

谷山氏がどの史料から引用されたのかまでは記述されていませんが、これで私の義弘に対するイメージが出来あがっているせいか、個人的には忠恒の独断であると思いたいです。

ご教示御礼
桐野
かじやちょうさん、お久しぶりです。

土瀬戸の場所、教えていただき有難うございます。
鹿児島弁でのご紹介も感謝です。「つっせ」ですか(笑)。

それで入来峠の北西といえば、入来の中心地からだいぶ南になりますね。
太郎左衛門坂とは、まさしく平田増宗にちなんだ命名ですね。そんな名前が残っているとは知りませんでした。
機会があれば、ぜひ訪ねてみたいと思います。
有難うございました。


義弘か家久か
桐野
源太さん、はじめましてでしょうか?

ご意見興味深く拝聴しました。
『島津義弘公記』はよくできた伝記ですが、義弘を顕彰するために書かれたもので、つまり、義弘や島津家にとって都合の悪いことは書いてないので、基本的に鵜呑みにはできませんね。
ご紹介の個所も、信頼できる一次史料で裏づけがとれないと思います。

押川強兵衛に密命を下したのが誰だかわかりませんが、立場的には義弘か家久しかいないでしょう。
源太さんはお認めになりたくないでしょうが、義弘説もかなり有力だと思います。
その第一の根拠は平田暗殺の時点で、強兵衛は義弘の家来だということです。強兵衛が義弘の頭越しに家久の命令を受けるというのは、当時の主従関係からは考えにくいですね。

ご存じかと思いますが、この時期、島津家は「三殿体制」です。

義久:国分
義弘:帖佐
家久:鹿児島

家臣団も「三殿」ごとに編成されていました。
『本藩人物誌』の押川強兵衛譜によれば、強兵衛が義弘に「二世之御供」を願い出ました。つまり、この世とあの世での家来、要するに殉死するという意味でしょう。
ところが、家久が義弘に強兵衛を家来にしたいと申し出、義弘もそれを認めたので、強兵衛は主替えをすることになりました。
それが慶長19年(1614)のことです。増宗暗殺から4年後ですから、暗殺時点では強兵衛は義弘の家来だったことになります。
義弘説が捨てがたいこと、ご理解いただけるでしょうか?


源太
源太です。

御挨拶もなく書き込みを投降致しまして、大変失礼致しました。
おっしゃられる通り初めて書き込みさせて頂きました。

また、私の稚拙な書き込みに御多忙の中、ご高説賜り誠に有難う御座います。
大変勉強になりました。
やはり家中の統率を図るためには、清濁併せ飲まなければならないという事ですね。
有難う御座いました。

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この記事へのコメント
かじやちょうです。

土瀬戸越ですが、入来峠の北西にあるようですね。
土瀬戸は鹿児島訛りでつっせとと呼ばれていたようです。
今の入来峠の道は江戸時代の道ではなく旧道がそれに沿うように
あります。峠から少し入来側に行ったところに旧道と交わるところがありますので、そちらに行ったあたりが土瀬戸越だと思います。この辺りは太郎左衛門坂とも呼ばれていたようです。
2009/12/01(Tue) 22:50 | URL  | かじやちょう #-[ 編集]
義弘が暗殺を指示した側だとしたらショックです。

大正七年に谷山初七郎氏が著された『島津義弘公記』の中に以下のような文がありまして、

家久公嘗て義弘公に訴えて曰く「當國の諸士は横肆にして往往布告に背くことあり。
頃屢京師に上り他國の風を聞く 福島左衛門大夫等は、背く者あれば處するに死刑を以てす。
故に威令能く國中に行はる。當國に於ても彼二三者を戮して之を懲さば如何」と。
義弘公答へて曰く「誠に此の如き者あり、然れども我には不良を摘發する如き横目なからん
少将自ら能く視察して之を挙げよ 我も亦此に留意すべし。
福島の如きは範とするに足らず、彼は必ず一代にして滅びん
死罪を以て家衆を畏服せしめんよりは、先づ我身の行ひを正し、憐愍を以て之に臨み、
自ら耻ぢ且つ格らしめんに若かざるなり」と。

谷山氏がどの史料から引用されたのかまでは記述されていませんが、これで私の義弘に対するイメージが出来あがっているせいか、個人的には忠恒の独断であると思いたいです。
2009/12/01(Tue) 23:38 | URL  | 源太 #-[ 編集]
ご教示御礼
かじやちょうさん、お久しぶりです。

土瀬戸の場所、教えていただき有難うございます。
鹿児島弁でのご紹介も感謝です。「つっせ」ですか(笑)。

それで入来峠の北西といえば、入来の中心地からだいぶ南になりますね。
太郎左衛門坂とは、まさしく平田増宗にちなんだ命名ですね。そんな名前が残っているとは知りませんでした。
機会があれば、ぜひ訪ねてみたいと思います。
有難うございました。
2009/12/02(Wed) 10:17 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
義弘か家久か
源太さん、はじめましてでしょうか?

ご意見興味深く拝聴しました。
『島津義弘公記』はよくできた伝記ですが、義弘を顕彰するために書かれたもので、つまり、義弘や島津家にとって都合の悪いことは書いてないので、基本的に鵜呑みにはできませんね。
ご紹介の個所も、信頼できる一次史料で裏づけがとれないと思います。

押川強兵衛に密命を下したのが誰だかわかりませんが、立場的には義弘か家久しかいないでしょう。
源太さんはお認めになりたくないでしょうが、義弘説もかなり有力だと思います。
その第一の根拠は平田暗殺の時点で、強兵衛は義弘の家来だということです。強兵衛が義弘の頭越しに家久の命令を受けるというのは、当時の主従関係からは考えにくいですね。

ご存じかと思いますが、この時期、島津家は「三殿体制」です。

義久:国分
義弘:帖佐
家久:鹿児島

家臣団も「三殿」ごとに編成されていました。
『本藩人物誌』の押川強兵衛譜によれば、強兵衛が義弘に「二世之御供」を願い出ました。つまり、この世とあの世での家来、要するに殉死するという意味でしょう。
ところが、家久が義弘に強兵衛を家来にしたいと申し出、義弘もそれを認めたので、強兵衛は主替えをすることになりました。
それが慶長19年(1614)のことです。増宗暗殺から4年後ですから、暗殺時点では強兵衛は義弘の家来だったことになります。
義弘説が捨てがたいこと、ご理解いただけるでしょうか?
2009/12/02(Wed) 10:28 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
源太です。

御挨拶もなく書き込みを投降致しまして、大変失礼致しました。
おっしゃられる通り初めて書き込みさせて頂きました。

また、私の稚拙な書き込みに御多忙の中、ご高説賜り誠に有難う御座います。
大変勉強になりました。
やはり家中の統率を図るためには、清濁併せ飲まなければならないという事ですね。
有難う御座いました。
2009/12/02(Wed) 18:39 | URL  | 源太 #-[ 編集]
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