歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
歴史読本2月号が現在発売中です。
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私の連載「信長――狂乱と冷徹の軍事カリスマ」第26回も掲載されています。

今回は「三方ヶ原合戦」がテーマでした。
もっとも、合戦の態様についてはほとんど書いていません。
私の関心は、信長と義昭の関係悪化のプロセスから敷衍される武田信玄の動向です。

近年、武田信玄の西上作戦については、鴨川達夫氏や柴裕之氏の論考が公表されています。
そのなかで注目すべきは、これまでの関連文書の年次を再検討、再解釈した点です。

とりわけ、足利義昭が武田信玄に「急度行に及」ぶべきことを命じた御内書の年次が、従来の元亀3年(1572)5月ではなく、翌4年5月だと再解釈しなおしたことです。つまり、信玄死後に発給されたものだとしたわけです。

この御内書が信玄西上の大義名分とされていただけに、これを1年後ろにずらすと、これまでの史実関係は大きく修正を迫られることになります。

私も別の角度から疑問をもっていました。
それは信長と義昭の関係が元亀3年前半までは比較的良好であることでした。その時期、義昭は信長のための京都屋敷の造営を命じたり、信長に「天下の儀」を命じているのです。だから、同時期に信玄に信長との対決を命じる御内書を出しにくいのではないかと思ったのです。
その疑問を解くには、義昭御内書を1年後ろにずらしたほうが、個人的には合点がいきました。

信長と義昭の仲が決裂したのは、やはり元亀3年9月の「異見17カ条」が契機ではないでしょうか。

とまあ、そんな考証に紙数を費やしたため、肝心の三方ヶ原合戦はさほど書けなかったというわけです。

ほかに、信玄の死から義昭の挙兵までを書いています。
よかったら、読んでみて下さい。

なお、次回は元亀争乱の終焉となる浅井・朝倉の滅亡を中心に書いています。

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【2009/12/26 17:13】 | 新刊
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