歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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謹賀新年
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さて、昨年暮れ、鹿児島で大きな発見がありました。
鶴丸城の発掘での出土物にキリシタン瓦が含まれていたとのこと。
詳しくはここに記事があります。

花十字文」の瓦は明らかにキリスト教の表象とのこと。わが国では、島原の乱の舞台になった原城跡など長崎県だけから見つかっており、長崎県以外では初めてとのこと。

鹿児島はフランシスコ・ザビエル(シャビエル)の最初の上陸地ですが、その後、島津氏は貴久の代からキリシタン排撃に転じました。
ですから、慶長7年(1602)に築城された鶴丸城からキリシタンの遺物が出てくることは通常ありえないのですが、唯一の例外があります。
それは記事にもあるように、永俊尼ことカタリナ夫人の存在です。
カタリナ夫人はキリシタン大名で著名な小西行長の家来の娘で、洗礼名がカタリナ。
薩州島津家の最後の当主忠辰(ただとき、釜山で病死)が豊臣秀吉に軍役懈怠の科で改易されたのち、その一族は小西行長預かりとなりました。忠辰の弟、忠清がカタリナと縁組し、その娘が島津家久の側室となり、二代目薩摩藩主光久を生みました。なお、忠清は島津義久の外孫(長女於平の子)にあたります。

カタリナ夫人も島津家に引き取られましたが、島津家久から棄教するよう迫られました。しかし、その迫害に屈せず、あくまで信仰を捨てなかったため、寛永11年(1634)、種子島に配流となりました。
ふつうなら、幕府のキリシタン禁制に背くわけですから処刑されてもおかしくなかったのですが、藩主の祖母とあってはそういうわけにいかず、配流となったわけです。
一昨年夏、種子島を訪れたとき、種子島家の墓所を参拝し、カタリナ夫人の墓も撮影してきましたので、その写真を載せておきます。
永俊尼墓
永俊尼案内板





それで、花十字文の瓦が出土したのは鶴丸城の二の丸跡とのこと。
二の丸は現在の鹿児島県立図書館や鹿児島市美術館のある所です。
鶴丸城築城直後には、二の丸は世子(江戸時代初期は光久)の居住する空間だったと思われますから、祖母のカタリナ夫人も同居していた可能性が高いです。茶室とか四阿とか、カタリナ夫人の意向で建てられた建築物にこの瓦がのっていたのかもしれませんね。
ちなみに、幕末期、篤姫は現在の黎明館駐車場のあたりに住んでいたようです。大奥がそのあたりにありました。
寛永年間は大奥がそこまで拡張されていたかどうかはわかりません。

個人的に気になっていることがあります。
それは永俊尼という名称です。
本人は生涯キリシタンの信仰を捨てなかったわけですから、仏教の尼僧の名前はいかがかと。本人の意向を尊重した名称がいいのではないかと思います。
細川ガラシャ(本当は明智ガラシャか惟任ガラシャかもしれませんが)にならえば、島津カタリナとでも呼んでもいいですし、あるいは文中で使ったカタリナ夫人あたりがいいかもしれないですね。
新聞記事が「カタリナ永俊」、種子島家の墓所の案内板が「カタリナ永俊尼」としているのは、比較的好ましいです。
お墓が宝篋印塔形式なのも可哀想ですが、こればっかりはご禁制の時代ですからねえ。

じつはカタリナ夫人とその周辺のことを南日本新聞の連載「さつま人国誌」で記事にする機会をうかがっておりました。
まさに絶好のきっかけができました。近々書きたいと思います。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
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【2010/01/01 19:02】 | 戦国島津
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ばんない
あけましておめでとうございます。本年も更なるご活躍をお祈り申し上げます。

さて、鹿児島城から何か怪しげな物(失礼)が出土していたようですね。カタリナ(永俊尼)とのつながりが既に指摘されているようですが、カタリナの娘が島津家久の側室になったのが慶長16年頃(「家久公御養子御一件」)、元和6(1620年)には夫・島津忠清の死去により竪野に転居(「旧記雑録後編」5-884、それ以前の居所は史料では不明)してますから、問題の瓦葺き建物がカタリナの命によって建てられたとしても存在していたのはかなり限定された期間なのではないか、と思いました。

ところで、この調子だと去年の年末に予告があった島津久章の話はかなり先になりそうですね。まあ縁起でもない話(ネタバレ失礼)なんで正月外すのは正しい選択のような気がします。

カタリナ夫人
桐野
ばんないさん、おめでとうございます。

カタリナ夫人の動向について書いていただき、有難うございます。鶴丸城に滞在していた時期は短そうですね。
鶴丸城がちゃんと機能するようになったのは慶長15年(1610)くらいからだと思いますので、最大限に見積もっても10年間あるかないかというところでしょうか。
まあ、国分様こと亀寿が国分に追いやられていますから、二の丸御殿は光久生母が主人だった可能性は高いですけどね。カタリナ夫人だけでなく、一族や周辺にもキリシタンがいたようですから、何らかの建築物が建てられた可能性は十分ありそうですね。

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この記事へのコメント
あけましておめでとうございます。本年も更なるご活躍をお祈り申し上げます。

さて、鹿児島城から何か怪しげな物(失礼)が出土していたようですね。カタリナ(永俊尼)とのつながりが既に指摘されているようですが、カタリナの娘が島津家久の側室になったのが慶長16年頃(「家久公御養子御一件」)、元和6(1620年)には夫・島津忠清の死去により竪野に転居(「旧記雑録後編」5-884、それ以前の居所は史料では不明)してますから、問題の瓦葺き建物がカタリナの命によって建てられたとしても存在していたのはかなり限定された期間なのではないか、と思いました。

ところで、この調子だと去年の年末に予告があった島津久章の話はかなり先になりそうですね。まあ縁起でもない話(ネタバレ失礼)なんで正月外すのは正しい選択のような気がします。
2010/01/02(Sat) 16:53 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
カタリナ夫人
ばんないさん、おめでとうございます。

カタリナ夫人の動向について書いていただき、有難うございます。鶴丸城に滞在していた時期は短そうですね。
鶴丸城がちゃんと機能するようになったのは慶長15年(1610)くらいからだと思いますので、最大限に見積もっても10年間あるかないかというところでしょうか。
まあ、国分様こと亀寿が国分に追いやられていますから、二の丸御殿は光久生母が主人だった可能性は高いですけどね。カタリナ夫人だけでなく、一族や周辺にもキリシタンがいたようですから、何らかの建築物が建てられた可能性は十分ありそうですね。
2010/01/03(Sun) 18:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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