歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第134回
―島津家家督への未練か―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、近世初期における島津氏の御家騒動といってよい島津久章の死について取り上げました。
久章は記事にも書いたように、垂水島津家から分立して新城島津家の初代となった人物です。
新城は現在の垂水市にありますが、島津義久の二女がこの地を化粧料としてもらって以来、「新城様」と呼ばれるようになりました。久章はこの「新城様」の所領を受け継いだものです。

垂水島津家は相州家から初めて島津本宗家を継いだ貴久の次弟忠将から始まる家で、もともと本宗家にもっとも近い家であったのに加えて、義久の二女「新城様」が忠将の孫彰久に嫁いで以来、男子のない義久の血統を伝える家として、三女亀寿の婿となった忠恒(のち家久)と、家柄的にはほぼ同等といえる格式の高い家になりました。

垂水島津家の悲劇はここにあったように思います。
とくに「新城様」の子忠仍(ただなお、のち信久)は忠恒の対抗馬に擬せられ、一度は義久が家督を譲ろうとしたいきさつもあり、義久の家老平田増宗が忠仍を担いで、忠恒の家督相続に反対したこともあります。増宗はその一件がもとで暗殺されたことは、すでに「さつま人国誌」130回で紹介しました。

忠仍(信久)自身も相当血の気の多い性格だったらしく、家老をお手討ちにした挙句、毒殺されるという非業の死を遂げています。

垂水島津家は初代忠将が討死、二代以久は佐土原島津家を継承、三代彰久は朝鮮で病死、四代忠仍は毒殺、そしてその二男久章は斬死と、二代以久以外は天寿を全うできずに非業の死を遂げています。

垂水島津家=新城島津家の家柄の高さから来る悲劇といえるかもしれません。

次回は、鶴丸城から出土したキリシタン瓦についてのこの記事に登場するカタリナ夫人(永俊尼)について書く予定です。

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【2010/01/18 22:38】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。前に予告があったネタですね。遂に登場しましたか。

島津義久の娘の縁から人生が破たんしてしまったと言うことで、島津久章という人物には前から関心があるのですが、彼の顛末は、なかなか謎が多いですね。京都から脱走し高野山の蓮金院(島津氏菩提寺)に逃げたのも、先代藩主・島津家久(忠恒)の納骨式というタイミングであり、第三者の目から見るとそこにいた島津家中の者に捕らえられて鹿児島に引きずり戻されるのは見えてます。久章は何故敢えて「飛んで火にいる夏の虫」になったのか?
そもそも脱走のきっかけになった「年頭お礼の使者」についても史料(タイトルは失念)によっては「久章が紀州徳川家へ使者に行ったときに駕籠から下りなかったのを光久が怒って厳罰に処した」と書いてあるものもあり、久章押し込めにいたる理由が一定してないのも気になります。

ところで
>二代以久以外は天寿を全うできずに非業の死を遂げています。
ということですが、佐土原藩の史料では以久も非業の死だったと書いてある物があるようなのです。確か『宮崎県史』だったと思いますが、細川忠興が以久をなじって自害したとか云々…元になった史料が明示されてなかったのですが、かなり珍しいお話なので引っかかっています。

二代以久
桐野
ばんないさん、こんばんは。

高野山の蓮金院ですが、当時、島津家の人間は詰めていなかったんじゃないかと思います。
久章のことを知らせたのはお寺側のようで。久章がただならぬ様子だったみたいです。

以久にもそんな逸話がありましたか。
宮崎県史はもっていますが、見落としてました。
通史編ですかね?


佐多
お久しぶりです。佐土原藩史ではないでしょうかね?私もコピーしていないのではっきりとは断言出来ませんが。私の読んだものは家臣が毒殺したと記載していたような気がします。どうしても武士としての面目が立たないと諫言しても聴かなかったようですね。本家への影響も考えての処置だとしたらあり得ない話でもなさそうな。これが真実だとしたら垂水家は本当に運が悪い家ですよね。


ばんない
こんばんは。

確かに「薩藩旧記雑録」後編6-528などをみると蓮金院から連絡があったと書いてあります。ただ、「末川家文書 家譜」の久章の項を見ると「琴月様(=島津家久)御骨高野山ニ御納ニ付、御家老川上因幡守殿、御用人平田狩野之介御供二而高野御仏事之御作法御取仕廻二而(以下略)」(『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録家分け11」p.119)ともあり、故・島津家久の納骨のために高野山に薩摩藩の関係者が詰めているようにも読み取れたのですが…。

以久の話ですが、copyを取っておらずうろ覚えなのでハズレだったら申し訳ありません。載っているとしたら『宮崎県史』「通史編」だと思います。もしかしたら『垂水市史』かと思ってcopy見直してみましたがこっちには当該の記載はありませんでした。
で、先ほどの久章の件で「末川家文書 家譜」を見ると以久は[病死]としっかり書いてあったりします。うーん、真相は?

佐多さん、フォロー有り難うございます。元ネタは『佐土原藩史』でしょうか?鹿児島県立図書館には所蔵があるようですが(URL参照)…。禁帯出では鹿児島県在住者以外は見るのはかなり難しそうな本ですね(涙)

Re:以久
佐多
こんばんわ。
昨日、国会図書館へ行きました。やはり佐土原藩史に記載してありました。復刊した新しい方が詳しいですね。佐土原士(足軽)が細川家との喧嘩で殺害されたようで、その報復をしようとしていたようで。遺言を兼ねた最後の宴で泥酔したところを家臣が弑したとのことです。君臣にもとる行為だったので文書には残っておらず、弑逆の罪科におそれおののいてそれを忘れないように口伝で伝承されていたようです。
戦中にも清水の忠将公夫妻と彰久公の墓所に爆弾が直撃したのが運のなさを物語っていますよね。

佐土原藩史
桐野
佐多さん、こんばんは。

たびたびのご指摘、ありがとうございます。
やはり「佐土原藩史」に記事があったのですね。
大変参考になりました。

>戦中にも清水の忠将公夫妻と彰久公の墓所に爆弾が直撃したのが運のなさを物語っていますよね。

この話も知りませんでした。
垂水家はつくづく運が悪いんですね。

蓮金院
桐野
ばんないさん、こんばんは。

ご教示、ありがとうございます。
家久遺骨の蓮金院への納骨と、久章の出奔時期はタイムラグがある可能性はないでしょうか?
もし藩士が詰めていたら、すぐわかるはずですから。



ばんない
こんばんは。どうもコメント欄から探す癖が付いていて、お返事があるのに気が付きませんでした。失礼しました。
>家久遺骨の蓮金院への納骨と、久章の出奔時期はタイムラグがある可能性はないでしょうか?
「末川家文書 家譜」ではそのあたりの日時が明言されてないので、ちょっとはっきりとは分からないです。他の史料も丹念に見ていくしかないようですね。お力になれず申し訳ございません。

>以久殺害?
細川家がらみというのがひっかかります。佐多さんご紹介の話では偶発的な事件のようですが、島津家は細川家とはこの当時は関係も深いですし、何よりメール魔(苦笑)の細川忠興がこの話を書いた手紙を残してない(少なくとも私の管見では記憶にないです)のが気になります。

メール魔
桐野
ばんないさん、こんばんは。

細川忠興はたしかにメール魔ですね。
息子の忠利宛ての膨大な書状、手取り足取りという感じですものね。

忠興と以久の間に確執があったか否か、検証するのはなかなか難しそうですね。
小藩の佐土原側が泣き寝入りだったんでしょうかね?

佐土原藩史
桐野
ばんないさん、佐多さん

うっかりしていたのですが、私、『佐土原藩史』もっていました。今日、別件で本棚を探していたらありました(汗)。

その征久(以久)の譜に次のようにありました(14頁)。

「伝に曰く、この時以久大阪より川舟にて伏見に上る。細川忠興の舟も共に上った。彼の従士大々名なるを誇り以久の従士を侮辱した。以久怒って忠興を殺さんことを決意し、伏見着ののち後事を樺山久成に托した。久成諌めたがきかず私かに(ひそかに)謂えらく、今天下はじめて治まる。万一我主の慾する所を実現せんか、或は主家の滅絶を招くに至であろうと。その夜以久に酒を勧め、その熟酔するをまち、私かに殉死の四人に旨を含め、涙を呑んで以久を害せしめたのであると」

いやあ、以久は自害というより、家臣たちにお家安泰のためにひそかに殺害されたことになりますね。
真偽のほどは不明ながら、もし事実なら、垂水家当主は不運つづきとしかいいようがありません。


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コメント
この記事へのコメント
こんばんは。前に予告があったネタですね。遂に登場しましたか。

島津義久の娘の縁から人生が破たんしてしまったと言うことで、島津久章という人物には前から関心があるのですが、彼の顛末は、なかなか謎が多いですね。京都から脱走し高野山の蓮金院(島津氏菩提寺)に逃げたのも、先代藩主・島津家久(忠恒)の納骨式というタイミングであり、第三者の目から見るとそこにいた島津家中の者に捕らえられて鹿児島に引きずり戻されるのは見えてます。久章は何故敢えて「飛んで火にいる夏の虫」になったのか?
そもそも脱走のきっかけになった「年頭お礼の使者」についても史料(タイトルは失念)によっては「久章が紀州徳川家へ使者に行ったときに駕籠から下りなかったのを光久が怒って厳罰に処した」と書いてあるものもあり、久章押し込めにいたる理由が一定してないのも気になります。

ところで
>二代以久以外は天寿を全うできずに非業の死を遂げています。
ということですが、佐土原藩の史料では以久も非業の死だったと書いてある物があるようなのです。確か『宮崎県史』だったと思いますが、細川忠興が以久をなじって自害したとか云々…元になった史料が明示されてなかったのですが、かなり珍しいお話なので引っかかっています。
2010/01/18(Mon) 23:32 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
二代以久
ばんないさん、こんばんは。

高野山の蓮金院ですが、当時、島津家の人間は詰めていなかったんじゃないかと思います。
久章のことを知らせたのはお寺側のようで。久章がただならぬ様子だったみたいです。

以久にもそんな逸話がありましたか。
宮崎県史はもっていますが、見落としてました。
通史編ですかね?
2010/01/19(Tue) 20:12 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
お久しぶりです。佐土原藩史ではないでしょうかね?私もコピーしていないのではっきりとは断言出来ませんが。私の読んだものは家臣が毒殺したと記載していたような気がします。どうしても武士としての面目が立たないと諫言しても聴かなかったようですね。本家への影響も考えての処置だとしたらあり得ない話でもなさそうな。これが真実だとしたら垂水家は本当に運が悪い家ですよね。
2010/01/20(Wed) 20:49 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
こんばんは。

確かに「薩藩旧記雑録」後編6-528などをみると蓮金院から連絡があったと書いてあります。ただ、「末川家文書 家譜」の久章の項を見ると「琴月様(=島津家久)御骨高野山ニ御納ニ付、御家老川上因幡守殿、御用人平田狩野之介御供二而高野御仏事之御作法御取仕廻二而(以下略)」(『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録家分け11」p.119)ともあり、故・島津家久の納骨のために高野山に薩摩藩の関係者が詰めているようにも読み取れたのですが…。

以久の話ですが、copyを取っておらずうろ覚えなのでハズレだったら申し訳ありません。載っているとしたら『宮崎県史』「通史編」だと思います。もしかしたら『垂水市史』かと思ってcopy見直してみましたがこっちには当該の記載はありませんでした。
で、先ほどの久章の件で「末川家文書 家譜」を見ると以久は[病死]としっかり書いてあったりします。うーん、真相は?

佐多さん、フォロー有り難うございます。元ネタは『佐土原藩史』でしょうか?鹿児島県立図書館には所蔵があるようですが(URL参照)…。禁帯出では鹿児島県在住者以外は見るのはかなり難しそうな本ですね(涙)
2010/01/21(Thu) 18:44 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
Re:以久
こんばんわ。
昨日、国会図書館へ行きました。やはり佐土原藩史に記載してありました。復刊した新しい方が詳しいですね。佐土原士(足軽)が細川家との喧嘩で殺害されたようで、その報復をしようとしていたようで。遺言を兼ねた最後の宴で泥酔したところを家臣が弑したとのことです。君臣にもとる行為だったので文書には残っておらず、弑逆の罪科におそれおののいてそれを忘れないように口伝で伝承されていたようです。
戦中にも清水の忠将公夫妻と彰久公の墓所に爆弾が直撃したのが運のなさを物語っていますよね。
2010/01/24(Sun) 20:56 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
佐土原藩史
佐多さん、こんばんは。

たびたびのご指摘、ありがとうございます。
やはり「佐土原藩史」に記事があったのですね。
大変参考になりました。

>戦中にも清水の忠将公夫妻と彰久公の墓所に爆弾が直撃したのが運のなさを物語っていますよね。

この話も知りませんでした。
垂水家はつくづく運が悪いんですね。
2010/01/24(Sun) 21:32 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
蓮金院
ばんないさん、こんばんは。

ご教示、ありがとうございます。
家久遺骨の蓮金院への納骨と、久章の出奔時期はタイムラグがある可能性はないでしょうか?
もし藩士が詰めていたら、すぐわかるはずですから。
2010/01/24(Sun) 21:37 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
こんばんは。どうもコメント欄から探す癖が付いていて、お返事があるのに気が付きませんでした。失礼しました。
>家久遺骨の蓮金院への納骨と、久章の出奔時期はタイムラグがある可能性はないでしょうか?
「末川家文書 家譜」ではそのあたりの日時が明言されてないので、ちょっとはっきりとは分からないです。他の史料も丹念に見ていくしかないようですね。お力になれず申し訳ございません。

>以久殺害?
細川家がらみというのがひっかかります。佐多さんご紹介の話では偶発的な事件のようですが、島津家は細川家とはこの当時は関係も深いですし、何よりメール魔(苦笑)の細川忠興がこの話を書いた手紙を残してない(少なくとも私の管見では記憶にないです)のが気になります。
2010/01/27(Wed) 22:27 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
メール魔
ばんないさん、こんばんは。

細川忠興はたしかにメール魔ですね。
息子の忠利宛ての膨大な書状、手取り足取りという感じですものね。

忠興と以久の間に確執があったか否か、検証するのはなかなか難しそうですね。
小藩の佐土原側が泣き寝入りだったんでしょうかね?
2010/01/29(Fri) 22:46 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
佐土原藩史
ばんないさん、佐多さん

うっかりしていたのですが、私、『佐土原藩史』もっていました。今日、別件で本棚を探していたらありました(汗)。

その征久(以久)の譜に次のようにありました(14頁)。

「伝に曰く、この時以久大阪より川舟にて伏見に上る。細川忠興の舟も共に上った。彼の従士大々名なるを誇り以久の従士を侮辱した。以久怒って忠興を殺さんことを決意し、伏見着ののち後事を樺山久成に托した。久成諌めたがきかず私かに(ひそかに)謂えらく、今天下はじめて治まる。万一我主の慾する所を実現せんか、或は主家の滅絶を招くに至であろうと。その夜以久に酒を勧め、その熟酔するをまち、私かに殉死の四人に旨を含め、涙を呑んで以久を害せしめたのであると」

いやあ、以久は自害というより、家臣たちにお家安泰のためにひそかに殺害されたことになりますね。
真偽のほどは不明ながら、もし事実なら、垂水家当主は不運つづきとしかいいようがありません。
2010/01/30(Sat) 13:05 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
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