歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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久しぶりに島津の話題でも。

いつぞや、どこかのサイトで島津義久には三番目の夫人がいたのではないかという記事を見たことがある。『旧記雑録後編二』に収録された史料に「奥様」とか「御料[米+斤]仁様」(御料人様か)という文言が出てくるのがそうではないかというのだ。

これは天正16年(1588)の出来事だから、義久の二番目の夫人はとっくに亡くなっている。もっとも、これらの言葉は義久の第三夫人だけでなく、亀寿や義弘夫人広瀬氏などを指す可能性もあるので、断定はできないのではないかと思っていた。

先日のブログで、ばんないさんに義久の二女(玉か)の名前についていろいろ教えてもらったとき、「新城島津家文書」(『旧記雑録拾遺』家わけ十所収)を見ていたところ、もしかして義久にとって、事実上の三番目の夫人ではないかという人物の消息があった。

ちなみに、義久の最初の夫人は島津日新斎の末娘(義久の叔母)で、永禄2年(1559)に没している。
二番目の夫人は種子島時尭の娘(義久の従姉妹)で、元亀3年(1572)に没している。彼女が玉?と亀寿の生母である。

二番目の夫人が亡くなったとき、義久はまだ40歳だったから、三番目の夫人を迎えても決しておかしくない。しかし、『島津氏正統系図』をはじめ、主な島津氏関係の系譜には一切その形跡がない。
理由ははっきりしていると思う。義久は天正15年(1587)、豊臣秀吉に降伏したとき、出家して龍伯と名乗っている。それ以来、還俗していない。つまり、法体だから正式の夫人を迎えることができないだけのことだろう。だから、公式記録に残らなかったと考えられる。

上で述べた「新城島津家文書」(東大史料編纂所本)のなかに、「一之臺」という女性の消息が2点収められている。
とくに1号文書は、義久二女玉?の息子久信(忠仍)に宛てたもので、「御前」こと義久の動静も書かれている。久信は義久が女婿の忠恒(のち家久)に代えて家督を継がせようとしたとされる人物で、義久が非常に目をかけていた孫である。
消息の中で、「一之臺」は在京中の久信に国許の垂水の様子を知らせ、久信の「御曹子」(久敏か)の様子まで触れている。
消息は慶長年間(徳川幕府成立以後)だと思われ、久信の祖父以久も没していることから、久信が当時、垂水島津家の当主だった。垂水と義久の隠居城の国分はすぐ近くである。「一之臺」が義久に代わって、孫に等しい久信を甲斐甲斐しく気遣った消息だと考えられないだろうか。
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ゴンザの露薩語講座」第11回です。
前回出題分「クチスコト」は口を吸うこと、キスのことですが、ゴンザは「恋とか熱愛」の意味で使っているようです。ゴンザにとって、ロシア人の人目も憚らぬラブラブぶりはさぞや驚きだったことでしょうね。まあ、「キス」でもほぼ正解としましょう。
マロンハットさん、きなみんさん、吉田松陰大好きさん、ゆうたろうさんは正解です。水戸っぽさんと岐阜少将さんはおしかったですね。

第11問:チェップンコダゴ

難しいからヒントです。武器の一種です。
よほど難しいのか、想像力を刺激しない語感なのか。再ヒントです。
「チェップン」はどちらかといえば、「テップン」としたほうがわかりやすいです。
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【2007/02/05 00:52】 | 戦国島津
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一之臺
ばんない
「一之臺」は、「種子島家譜」の”種子島時尭”の項目で義久後妻のお付きとして付いていった女中の1人の名前として出ていますね。
奥向きで重役を担っていたことは、桐野様も書かれたとおりで事実だと思います。ただ、これだけでは、義久の3番目の妻だったかどうかまでは確定できないのではないかと、私は考えています。一之臺はあの春日局のような役割を果たしていたのではないかとも思えます。

「チェップンコダゴ」…手榴弾でしょうか。根拠は全くなく、山勘です(^^;)(あの時代に手榴弾ってあったのかな?)


きなみん
チェップンコダゴ → 鉄粉小団子 → 散弾銃
ってのはそんな時代にあるはずもなく(苦笑)
でもやっぱりこの字しか思い浮かばない...
チェップンコダゴ → 鉄粉小団子 → 打ち上げ花火
ってそんな単語も知らないのか?>ゴンザ


一之臺
桐野
ばんないさま

コメント遅れてすみません。

『種子島家譜』見てみました。
たしかに種子島時尭の娘の項目に出てきますね。それによれば、一之臺は「国上氏女」となっています。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』によれば、種子島北部(西之表市)に国上という地名があるようですね。
また種子島氏10代幡時の弟時里が国上氏を名乗ったとありますから、種子島氏一門で、のち家臣化したようですね。時尭が14代当主ですから、4代前の庶流になりますか。

一之臺は義久夫人種子島氏の死後も種子島に帰らないで、義久のそば近くに仕えたのはたしかなようですが、だからといって、側室になったかどうかまではわかりませんね。

ご教示有難うございました。


佐多
義久公の二女新城様の名前が垂水市史料集に記載されていました。御家譜の後に略譜のようなものがあり、その中の島津大和守久章の項に『大和殿御息又助(忠清)殿御事は御懐様龍伯様御姫様にて御さや様と申候 御けしゃうでん千石迄~』とあります。
それにしても、家久公から光久公の代は権力統制(強化)の為にものすごい勢いで一族を粛清していた事が調べると出てきますね。悲しいかな垂水家は忠将公(以久公)の血統は断絶してしまっています。

「御さや様」
桐野
佐多さん、はじめまして。

島津義久二女の名前を教えていただき、有難うございました。
「御さや様」というんですね。
「お玉」ではなかったようです。

私も垂水市史料集で確認してみたいと思います。
取り急ぎ御礼まで。


佐多
どうも読み返すとしっくりこない文面ではありますね。又助殿の母は太守家久公の息女であり、久章公の母は側室の池田氏です。久章公が祖母である新城様の遺領を相続しているので誰の御袋様のことを言っているのかわからないですね。しかし龍伯様御姫様とありますのであっているんだろうなとは思っています。
久章公の室はすぐに死去されたのでしょうかね?
(後追いの自刃ではないかとの噂もあります)
諸氏系譜や垂水島津家譜にも記載無しです。

久章夫人
桐野
佐多さん、どうも。

忠将流といいますか、新城島津家には私もとても興味がありますが、いかんせん、いわくつきの家だけに史料が少ないようですね。

久章夫人は太守家久の妹ですよね。『島津氏正統系図』によれば、没年は正保2年(1645)5月10日です。夫久章は同年12月11日斬殺ですから、夫人はその半年前に他界していますね。
とはいえ、同年に夫婦とも亡くなっていることは、何か因縁がありそうですね。


佐多
桐野様、ご回答ありがとうございます。
そうですか、先に没していましたか。それで何の憂いも無くなったのであのような事になったのでしょうね。
新城家は後代に末川氏に改姓したようで、御子孫は都城市に居住されているようです。私の住む県にも薩州家庶流と永吉家に関連する島津姓の方々が住んでいらっしゃいます。一度もお会いしていませんが。

いまさらですが
ばんない
古い記事へのコメントで申し訳ありません。
別件で調べ物をしていて、史料を読み直してみると確かに義久の晩年に「一臺」という女性が関わっていたことが判明しました。詳しくはURL欄参照下さい。
年代から見ると、どうも私が指摘した国上時通の娘
http://www.realintegrity.net/~shimadzu/ku/kunikami-tokimichi-musume.htm
とは同名の別人の可能性が高そうです。

一臺
桐野
ばんないさん、こんばんは。

面白い知見、有難うございます。
義久の第三夫人の可能性があるとのこと。

ただ、「一臺」が複数いて、しかも同時期ではないようですから、島津本宗家の奥向きの女房衆の仮名(けみょう)のひとつだった可能性がありますね。
たとえば、春日局といえば、江戸時代初期のあの人をすぐ思い出しますが、じつは足利将軍家の奥向きにも代々、春日局がいました。将軍の女房衆では比較的身分の高い人です。

一臺もそうした代々の世襲名の女房衆だった可能性がありますね。
もっとも、義久のお手つきだった可能性は排除できません。ただ、正室、継室とまでいえたかどうか。とくに種子島氏の家来筋の女性なら、家柄的に正室・継室は難しいかもしれませんね。

一之臺再び
ばんない
こんばんは。

古い記事への投稿失礼します。
最初に指摘した「一の台」と後から指摘した「一臺」は同一人物の可能性が高くなりました(URLに拙HPへのリンクが貼ってあり、そこに詳しく書いております)。
ということで、混乱させて大変失礼致しました。

ただ、この人が義久の「第3の正室」だったかどうかについては私はまだ懐疑的です。

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この記事へのコメント
一之臺
「一之臺」は、「種子島家譜」の”種子島時尭”の項目で義久後妻のお付きとして付いていった女中の1人の名前として出ていますね。
奥向きで重役を担っていたことは、桐野様も書かれたとおりで事実だと思います。ただ、これだけでは、義久の3番目の妻だったかどうかまでは確定できないのではないかと、私は考えています。一之臺はあの春日局のような役割を果たしていたのではないかとも思えます。

「チェップンコダゴ」…手榴弾でしょうか。根拠は全くなく、山勘です(^^;)(あの時代に手榴弾ってあったのかな?)
2007/02/05(Mon) 23:15 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
チェップンコダゴ → 鉄粉小団子 → 散弾銃
ってのはそんな時代にあるはずもなく(苦笑)
でもやっぱりこの字しか思い浮かばない...
チェップンコダゴ → 鉄粉小団子 → 打ち上げ花火
ってそんな単語も知らないのか?>ゴンザ
2007/02/07(Wed) 01:42 | URL  | きなみん #-[ 編集]
一之臺
ばんないさま

コメント遅れてすみません。

『種子島家譜』見てみました。
たしかに種子島時尭の娘の項目に出てきますね。それによれば、一之臺は「国上氏女」となっています。
『鹿児島県姓氏家系大辞典』によれば、種子島北部(西之表市)に国上という地名があるようですね。
また種子島氏10代幡時の弟時里が国上氏を名乗ったとありますから、種子島氏一門で、のち家臣化したようですね。時尭が14代当主ですから、4代前の庶流になりますか。

一之臺は義久夫人種子島氏の死後も種子島に帰らないで、義久のそば近くに仕えたのはたしかなようですが、だからといって、側室になったかどうかまではわかりませんね。

ご教示有難うございました。
2007/02/11(Sun) 22:11 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
義久公の二女新城様の名前が垂水市史料集に記載されていました。御家譜の後に略譜のようなものがあり、その中の島津大和守久章の項に『大和殿御息又助(忠清)殿御事は御懐様龍伯様御姫様にて御さや様と申候 御けしゃうでん千石迄~』とあります。
それにしても、家久公から光久公の代は権力統制(強化)の為にものすごい勢いで一族を粛清していた事が調べると出てきますね。悲しいかな垂水家は忠将公(以久公)の血統は断絶してしまっています。
2007/03/13(Tue) 20:20 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
「御さや様」
佐多さん、はじめまして。

島津義久二女の名前を教えていただき、有難うございました。
「御さや様」というんですね。
「お玉」ではなかったようです。

私も垂水市史料集で確認してみたいと思います。
取り急ぎ御礼まで。
2007/03/13(Tue) 23:34 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
どうも読み返すとしっくりこない文面ではありますね。又助殿の母は太守家久公の息女であり、久章公の母は側室の池田氏です。久章公が祖母である新城様の遺領を相続しているので誰の御袋様のことを言っているのかわからないですね。しかし龍伯様御姫様とありますのであっているんだろうなとは思っています。
久章公の室はすぐに死去されたのでしょうかね?
(後追いの自刃ではないかとの噂もあります)
諸氏系譜や垂水島津家譜にも記載無しです。
2007/03/14(Wed) 19:48 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
久章夫人
佐多さん、どうも。

忠将流といいますか、新城島津家には私もとても興味がありますが、いかんせん、いわくつきの家だけに史料が少ないようですね。

久章夫人は太守家久の妹ですよね。『島津氏正統系図』によれば、没年は正保2年(1645)5月10日です。夫久章は同年12月11日斬殺ですから、夫人はその半年前に他界していますね。
とはいえ、同年に夫婦とも亡くなっていることは、何か因縁がありそうですね。
2007/03/15(Thu) 14:02 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
桐野様、ご回答ありがとうございます。
そうですか、先に没していましたか。それで何の憂いも無くなったのであのような事になったのでしょうね。
新城家は後代に末川氏に改姓したようで、御子孫は都城市に居住されているようです。私の住む県にも薩州家庶流と永吉家に関連する島津姓の方々が住んでいらっしゃいます。一度もお会いしていませんが。
2007/03/16(Fri) 01:35 | URL  | 佐多 #-[ 編集]
いまさらですが
古い記事へのコメントで申し訳ありません。
別件で調べ物をしていて、史料を読み直してみると確かに義久の晩年に「一臺」という女性が関わっていたことが判明しました。詳しくはURL欄参照下さい。
年代から見ると、どうも私が指摘した国上時通の娘
http://www.realintegrity.net/~shimadzu/ku/kunikami-tokimichi-musume.htm
とは同名の別人の可能性が高そうです。
2007/10/29(Mon) 14:43 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
一臺
ばんないさん、こんばんは。

面白い知見、有難うございます。
義久の第三夫人の可能性があるとのこと。

ただ、「一臺」が複数いて、しかも同時期ではないようですから、島津本宗家の奥向きの女房衆の仮名(けみょう)のひとつだった可能性がありますね。
たとえば、春日局といえば、江戸時代初期のあの人をすぐ思い出しますが、じつは足利将軍家の奥向きにも代々、春日局がいました。将軍の女房衆では比較的身分の高い人です。

一臺もそうした代々の世襲名の女房衆だった可能性がありますね。
もっとも、義久のお手つきだった可能性は排除できません。ただ、正室、継室とまでいえたかどうか。とくに種子島氏の家来筋の女性なら、家柄的に正室・継室は難しいかもしれませんね。
2007/10/29(Mon) 23:35 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
一之臺再び
こんばんは。

古い記事への投稿失礼します。
最初に指摘した「一の台」と後から指摘した「一臺」は同一人物の可能性が高くなりました(URLに拙HPへのリンクが貼ってあり、そこに詳しく書いております)。
ということで、混乱させて大変失礼致しました。

ただ、この人が義久の「第3の正室」だったかどうかについては私はまだ懐疑的です。
2011/09/18(Sun) 00:37 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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