歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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遅ればせながら、日曜日の大河ドラマの感想をば。

花倉の乱がメインで描かれたが、勘助については依然、創作部分がつづいているので、とくに特記すべきことはない。勘助が晴信に仕えるまで、まだ数回を要しそうで、勘助は反武田勢力を渡り歩くことになるようだ。
原作も、晴信に仕える前は端折ってあるので、こういう展開もありだろう。ただし、判明している史実との整合性さえ担保できていればの話だが。
ともあれ、脚本家は、勘助を「学習する人」「試行錯誤の人」として描くようで、超人的な万能の軍師として描かない点は好感がもてる。

それで、今回注目したのは表題にもあるように、晴信の夫人となる三条氏のことである。ドラマでは、ちゃんと転法輪三条氏(てんぽうりん~)と正確に呼ばせていた。朝廷の女官の日記『御湯殿の上の日記』では、「てんほり」「てほり」と呼ばれてよく出てくる。ともかく、発音しにくい名字なのはたしかだ(笑)。

転法輪三条氏は閑院流藤原氏の嫡流で、摂関家に次ぐ清華家(せいがけ)の家柄。清華家もちゃんと正確に発音していたな(笑)。なお、清華家は摂政関白にはなれないが、太政大臣を極官(ごくかん、最上位)とする。
なお、転法輪とは仏教用語である。仏が衆生の煩悩を破り、悟りへと導く説法を意味する。なぜ、こんな仏語が冠せられたのか、不勉強で知らない。
このように、上流公家なので、歴代当主には太政大臣や諸大臣をつとめた者が多い。時代は下るが、幕末の公家、三条実美もこの転法輪三条家である。明治になってからだが、実美は太政大臣をつとめた。ここにも公家の家格制がまだ生きていたようだ(王政復古で関白は廃止されたから成れるはずもないが)。

で、晴信の頃の当主は、三条公頼(きんより、1495-1551)である。晴信が元服した天文五年(1536)の時点で、従二位権大納言だった。この人は地方(越前など)に在国していることが多かったが、天文20年(1551)、周防国で殺害されている。左大臣まで昇った公家にしては非業の最期だといえよう。

三条公頼には三女があり、長女が管領細川勝元に、二女が晴信に、三女が本願寺顕如に、それぞれ嫁いでいる。のちに晴信が反信長戦線の中心となったとき、本願寺と同盟を結んだのも、夫人同士が姉妹だった縁による。

このあたりまではよく知られているが、じつは晴信夫人と顕如夫人は公頼の実子ではないという説がある。
『阿波国徴古雑抄』に収録されている「那賀郡櫛淵村細川夏治所蔵文書」のなかに次のような一節がある。

「細川六郎持隆に女子二人御座候、一女は武田信玄公の御簾中、一女は本願寺門跡教如上人の奥方にて御座候、右両人共に西三条前右大臣逍遙院の養女に成り候ひて嫁ぎ申し候、[三条家へは、細川家より由緒有之候]」

顕如を息子の教如としたり、西三条としたりと、一部不正確な点があるが、なかなか興味深い内容である。
細川六郎持隆とは、細川京兆家の分家、阿波守護家の当主で、のちに三好実休に殺害される人物。史料の所蔵先が持隆の地元、阿波国で、しかも、阿波守護家の末裔と思われる家だけに、かなり信憑性が高い説ではないかと思っている。
また、甲斐守護とはいえ、武田家は所詮、東国の田舎武家であり、清華家の娘が嫁ぐというのは常識的に考えにくい。強く乞われたために、養女にして嫁がせたというのは十分ありえるだろう。しかも、阿波守護家の娘なら、同じ清和源氏の武田家とも釣り合いが取れる。

ともあれ、信虎は、晴信の元服に際して、叙爵と左京大夫の官途、さらに清華家の三条氏の姫を正室に迎えるなど、至れり尽くせりであり、晴信を冷遇していたとはとても思えないのだが……。
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ゴンザの露薩語講座」第12回です。
前回出題分「チェップンコダゴ」。二回ヒントを出しましたけど、難しかったようですね。正解は「鉄砲の玉(弾丸)」のことです。
チェップンコダゴ」を分解すると、「チェップ(テップ=鉄砲)」+「(の)」+「コダゴ(小団子)」となります。鉄砲の小団子ですから、鉄砲の玉という意味ですね。ばんないさんもきなみんさんも惜しかったですね。かすってはいますが、正解ではありませんでした。
余談ですが、慶長五年(1600)、関ヶ原合戦ののち、西軍に属した島津氏に対して、東軍方の加藤清正や黒田如水が国境まで攻めてきます。そのとき、北薩で加藤清正に相対していた島津方では「肥後の加藤が来るならば 焔硝肴に団子(ダゴ)会釈 それでもきかずに来るならば 首に刀の引出物」という戯れ歌を歌ったそうです。このなかに出てくる「団子(ダゴ)」が焔硝(火薬)とのからみで、弾丸を意味します。

第12問:ヤキモチ

ヒント:嫉妬ではありません。
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【2007/02/08 00:24】 | 風林火山
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きなみん
ヤキモチ → 焼き餅 → ピロシキ
でどうだ(笑)餅じゃないけど。


まいたけ君

 ヤキモチ → パン

 わたしも、きなみん坊と同じように考えましたが、ピロシキは揚げますので、単に「パン」ではないかと、、、、、

ちょっとワンテンポ遅れてしまいましたが
ばんない
三条夫人は養女説があるのですか。
細川ガラシャも光秀の実子ではなくて養女という説があるそうですね。

戦国大名の妻になった公家の女性といえば
・大内義隆の妻(万里小路秀房女)
・今川氏親の妻(寿桂尼、中御門宣胤女)
・朝倉義景の妻(近衛稙家女)
あたりが有名でしょうか。
まあ、大内、今川あたりは一般的に「公家化した大名」なんてありがたくないレッテルを貼られていますし、朝倉は比較的京に近いところの大名ですが。

キリシタン大名で有名な大友宗麟の母も公家という説もありますが、この人に関してはこのあたりのよい史料がないようで定説がないみたいですね。


朝倉義景夫人
桐野
ばんないさん、どうも。

三条夫人の養女説、信憑性があるのではないかと思っています。

挙げていただいた戦国大名の夫人ですが、大内、今川の二人はいずれも勧修寺流の堂上公家ですが、ともに名家(めいけ、文官系)で、清華家より家格は落ちます。
ちなみに、『宮廷公家系図集覧』によれば、寿桂尼は「今川氏親妾」となっていて、正室扱いではないですね。このあたりはどうなんでしょうか?

また、朝倉義景夫人が近衛稙家の女ということですが、上記集覧には記載がありません。稙家の女は将軍義輝の御台所でもありますから、朝倉氏が将軍夫人と同格の夫人を迎えるというのは少し考えにくいですね。


戦国大名の公家人脈
板倉丈浩
ばんないさん、桐野さん、横レス失礼します。

大友宗麟(1530-1587)の母は伏見宮貞常親王(1474没)の王女とされていますが、いくらなんでも時代が離れすぎですね(笑)
今川については、氏親の姉が正親町三条実望に嫁いでいますから、公家人脈はもともと強かったのではないかと思います。
ご指摘の他には、近衛稙家の姉(尚通の娘)が北条氏綱に嫁いでいますね。これは『為和集』に「氏綱女中は近衛殿、関白殿御姉」とあり、間違いなさそうです。どうやら後室のようで、有名な氏康の母ではないようですが。

戦国時代後期は武士の地位が(形式的な面でも)相当向上していたようですので、武田氏くらいの名門になると、転法輪三条氏クラスの娘を迎えるのにそれほど苦労はしなかったのかもしれません。


朝倉義景夫人
ばんない
これが史料だ!…というのを出せればいいのですが、実は私も『朝倉義景』(吉川弘文館 人物叢書)と『戦国の流浪貴族・近衛前久』(中公新書)の受け売りなんです。

寿桂尼が側室ですか…そうだとすれば、今川氏親は別に公家の名家以上の身分の女性が正室にいないとおかしいことになるかと思いますが…。

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コメント
この記事へのコメント
ヤキモチ → 焼き餅 → ピロシキ
でどうだ(笑)餅じゃないけど。
2007/02/08(Thu) 00:56 | URL  | きなみん #-[ 編集]

 ヤキモチ → パン

 わたしも、きなみん坊と同じように考えましたが、ピロシキは揚げますので、単に「パン」ではないかと、、、、、
2007/02/08(Thu) 14:38 | URL  | まいたけ君 #BKdQhP/Q[ 編集]
ちょっとワンテンポ遅れてしまいましたが
三条夫人は養女説があるのですか。
細川ガラシャも光秀の実子ではなくて養女という説があるそうですね。

戦国大名の妻になった公家の女性といえば
・大内義隆の妻(万里小路秀房女)
・今川氏親の妻(寿桂尼、中御門宣胤女)
・朝倉義景の妻(近衛稙家女)
あたりが有名でしょうか。
まあ、大内、今川あたりは一般的に「公家化した大名」なんてありがたくないレッテルを貼られていますし、朝倉は比較的京に近いところの大名ですが。

キリシタン大名で有名な大友宗麟の母も公家という説もありますが、この人に関してはこのあたりのよい史料がないようで定説がないみたいですね。
2007/02/28(Wed) 21:57 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
朝倉義景夫人
ばんないさん、どうも。

三条夫人の養女説、信憑性があるのではないかと思っています。

挙げていただいた戦国大名の夫人ですが、大内、今川の二人はいずれも勧修寺流の堂上公家ですが、ともに名家(めいけ、文官系)で、清華家より家格は落ちます。
ちなみに、『宮廷公家系図集覧』によれば、寿桂尼は「今川氏親妾」となっていて、正室扱いではないですね。このあたりはどうなんでしょうか?

また、朝倉義景夫人が近衛稙家の女ということですが、上記集覧には記載がありません。稙家の女は将軍義輝の御台所でもありますから、朝倉氏が将軍夫人と同格の夫人を迎えるというのは少し考えにくいですね。
2007/03/01(Thu) 00:23 | URL  | 桐野 #hxjklqKc[ 編集]
戦国大名の公家人脈
ばんないさん、桐野さん、横レス失礼します。

大友宗麟(1530-1587)の母は伏見宮貞常親王(1474没)の王女とされていますが、いくらなんでも時代が離れすぎですね(笑)
今川については、氏親の姉が正親町三条実望に嫁いでいますから、公家人脈はもともと強かったのではないかと思います。
ご指摘の他には、近衛稙家の姉(尚通の娘)が北条氏綱に嫁いでいますね。これは『為和集』に「氏綱女中は近衛殿、関白殿御姉」とあり、間違いなさそうです。どうやら後室のようで、有名な氏康の母ではないようですが。

戦国時代後期は武士の地位が(形式的な面でも)相当向上していたようですので、武田氏くらいの名門になると、転法輪三条氏クラスの娘を迎えるのにそれほど苦労はしなかったのかもしれません。
2007/03/01(Thu) 08:31 | URL  | 板倉丈浩 #/2jzPtOA[ 編集]
朝倉義景夫人
これが史料だ!…というのを出せればいいのですが、実は私も『朝倉義景』(吉川弘文館 人物叢書)と『戦国の流浪貴族・近衛前久』(中公新書)の受け売りなんです。

寿桂尼が側室ですか…そうだとすれば、今川氏親は別に公家の名家以上の身分の女性が正室にいないとおかしいことになるかと思いますが…。
2007/03/01(Thu) 22:26 | URL  | ばんない #kyBjvhlc[ 編集]
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